夜を越えていくねずみ達
そのネズミは地下の生活にうんざりしていました。
口にできるものと言えば生ごみと油まみれの汚れた水。
重くべったりとした生暖かい空気。くさった汚物の臭い。
息をするたびに肺が汚れてしまう様な感覚。
まるで自分達が汚れた空気をきれいにしているように感じていました。
いくら丈夫な身体を持っているからといっても、生きた心地がしませんでした。
暮らしはとても苦しいものでした。
それでも彼には、『本を見る』という、ひそかな楽しみが有りました。
ずいぶん前に姿を消した人間達が残した、たくさんの本。
偶然にも彼の巣の近くにたくさん落ちていたのです。
彼は本を眺めて、かつて世界がどのような姿であったのかを知る事が出来ました。
今となっては、見ることもかなわないそれ。
鉄とさびだらけのうす暗い天井を見上げながら、彼はため息をつきます。
それでも、本はつらい日々をまぎらわせるのにとても良い手段でした。
ある日、ほとんどの本を読んでしまったと思っていた彼は、土に埋もれていた一冊の古い本を見つけました。
湿気とカビに、ずいぶんと痛んでぼろぼろの本。
何の期待もせずに、いつも通りに彼は本を開きます。
しかし、彼は本をながめたまま小刻みにふるえはじめます。
目から涙がこぼれました。
彼が生まれて初めて見た本の中のそれ。
かつては誰でも見ることができるものだったと書いてあります。
彼は決めました。
「とーちゃんかーちゃん。おいら、たびにでる」
彼の両親はとっぴょうしもない彼の言葉にびっくりしました。
「ばかなことを」
「なにをかんがえているんだ」
それでも、彼には目指したい場所とその理由ができました。
その夜、住みなれた家をはなれました。
彼の前には上に向かって伸びる巨大なさびた塔。
かくごして登り始めました。
さびた鉄骨をつたって高みへ、しんちょうに、ゆっくりと登っていきます。
小さな体にはあまりに高く、先の見えないそれ。
だけど、上へ上へと登りました。
彼の旅はとても長いものでした。
登り続けている内に、やがて大人になり、塔を上る途中ですてきなメスに出会って子供が生まれました。
そして年老いて死ぬまぎわになって、彼は子供達に塔の上を目指したかったことを伝えます。
「とーちゃんは、あのとうのうえをめざしていたんだ」
彼の子供のうち、特に気持ちの強い子が彼の言葉を聞いて塔を登り始めました。
彼女の旅もまた、とても長いものでした。
ひたすらに続く暗い霧の中を抜け、大人になり、やがて年老い。
そして、旅のとちゅうで力つきました。
「……ねぇきいて。わたしはうえをめざしていたの」
彼女の子供もまたその話を聞かされ、上を目指しました。
――そして、その子供が登り、そのまた子供も登り……。
彼らのむだにさえ見える努力が何度も、何度もくり返されました。
気が遠くなるようなとても長い時間が過ぎていきました。
『――何のために登るのか?』
世代を経る度に薄れて行く理由。
もはやその問いに答えられる者はいませんでした。
いつの間にか、彼らは彼らの目的を見失っていたのです。
何世代にも渡って登り続ける彼の一族。
ある時、彼の子孫は三つ子でした。
とても仲良く育った彼らはある日、彼らの親がそうあったように、塔の上を目指した先祖の昔話を聞かされます。
話を聞き終わって、甘えん坊の女の子ネズミが言います。
「どうしてうえにいこうとしたの?」
「さぁ、とうちゃんには分からない」
続けざまにおしゃべりな男の子ネズミがしゃべります。
「うえにはなにがあるの? ねぇ、なにがあるの?」
「何があるかは、かあちゃんにも分からないよ」
三つ子のなかで一番静かなネズミはよく考えると言いました。
「……どうしてとーちゃんかーちゃんはうえをめざさないの?」
彼らの両親は少し考えるといいました。
「もう、うえにむかう、りゆうがないからさ」
「ここにはきれいなおみずと、おいしいたべものがあるでしょう。だからあなたたちも、このさきにいくことはないんだよ」
なんだか、大切な気持ちをはぐらかされたような気分になった三つ子でした。
彼らはよく食べ、よく動き、少しずつ育っていきました。
健康に育った彼らの毛並みはいつしか銀色に美しく輝いていました。
三匹はこれまで、不自由のない生活を送っていました。
……ですが。
彼らは時々、空を見上げます。
はるか遠く。
厚い雲。
そこに突き刺さるように伸びる塔。
理由は判りませんでしたが、それを見るたびにぎゅうっと胸を締め付けられるような気持ちになるのです。
ある日。
さびた塔の下に集まり口々に言いました、
「あのうえがきになる」
「わたしもきになる」
「それはぼくもだ」
声を上げて笑いました。
性格は少しずつ違いましたが、皆、同じ事を考えていたことがおかしくて、うれしく思ったのです。
「……では、だれがのぼろう?」
むつかしい問題です。
一日だけでは答えが出ませんでした。
だから彼らは何日もかけ話し合いました。
わたしの方が素早い、ぼくのほうが力強い。ボクの方が賢い。
色々と話しましたが、それぞれに長所と短所が有ってなかなかまとまりません。
話し合いの末。
彼らは『三匹』で塔の上に向かう事にしました。
もちろん彼らの家族や両親は反対しました。
とても高い塔です。途中で落ちれば無事ではすみません。
それでも、何を言われても気持ちは変わりませんでした。
彼らはとうとう、さびた塔を登って行きました。
始めの内はただ鉄骨の上を登るだけだったので、そんなにたいへんではありませんでした。
けれども、塔はとても高く、徐々にかれらの体力を奪っていきます。
身体を支えるために足場を握る力も少しずつ弱くなっていきました。
なかなか休むところが見つからず、登り続けた彼らでしたがさらに悪いことは続きます。
いつの間にか雲の中に入っていたのです。
雲は重く、黒く汚れていました。
下からはまったく判りませんでしたが、雲の中はひどい所でした。
雲は霧のようで、目に入るとしみて痛み、鼻の奥を刺すような、つんとするひどい臭いだったのです。
彼らの毛並みにべたべたとまとわりつく毒のようなそれはたちまち彼らの健康と体力を奪いました。
それでも彼らの一族の中でとりわけがまん強く、仲が良かった彼らはあきらめません。
誰かがすべり落ちそうになればしっぽを伸ばし、疲れて動けなくなれば下から押し上げて進みました。
彼らの旅はこれまでの中で一番長く、一番苦しいものでした。
けれど、三匹だったから支え合う事が出来ました。
くじけそうになったら励まし合い、少なくなった食べ物を分け合って、彼らは上を目指します。
手も脚も棒のようです。
じまんの銀色の毛並みも、にじんだ血と鉄のさびでひどく茶色に汚れています。
どれくらい登ったでしょうか。
まだ先が見えないように思える空。
どこまでも上に向かって伸びるさびた道。
終わりが見えない旅。
そしてついには身も心も疲れ果てました。
「もうだめだ」
手をはなして楽になろうと、三つ子があきらめかけたその時でした。
ふいに、強い風が吹いて、辺りをおおっていた霧が晴れました。
彼らは厚い毒の雲を越える事が出来たのです。
ついにたどり着いたのです。
かつて人間達が空を目指して立てた塔。
今では朽ちてしまって、残骸となり果てたもの。
――その先端へ。
冷たく澄んだ空気の中、ねずみ達が初めて見る満天の星空は、まるで宝石が一面にちりばめられている様でした。
彼らは透明に澄んだ空の向こうに光るそれを見上げながらつぶやきました。
「……きっと、これをみるためにうえをめざしたのだね」
「……そうだね、きっとそのとおりだ。いまならきもちがわかる」
「みて。わたしたちによくにたほうせきがあるよ」
末っ子ネズミは空を指さしました。
そこに目立つ三ツ星。
彼らの祖先が本の中に憧れたそれ。
それはかつて人間達がオリオンと呼んでいたものでした。
「……」
強い風の中に誰かの声が聞こえた気がしました。
同じ事を思ったのでしょう。
三匹は顔を見あわせて幸せそうに笑いました。