Q7.この仕事の大変なところは? A.残業がハードすぎ、ですかね(苦笑)
食事を終えて、軽トラの荷台から降り、空を見上げる。まだ空は青いが、遠くの暗い雲がこちらにまで伸びはじめていた。ゴミを捨て、今度は助手席に乗る。
運転席に座った榊さんがさっそく無線機を取り、ダイヤルをいじりはじめる。
“こちら『異世界送り六号』。業務再開可能です。ドーゾ”
“こちら本部。除去班の準備がまだ整っていません。待機可能ですか?”
“可能です。ドーゾ”
“では、待機お願いします。除去班の準備が整い次第、除去班の方から連絡させます“
無線機を置いて、こちらを見る。その目の色は、いつもより少し真剣なもの。
「まいったねぇ。待機だって。マサくんに何かあったのかなぁ」
「何かって、何があるんですか? 除去班ってそもそも何やってるんですか?」
「んー? まぁ除去班の仕事は人払いと、通行止めを一時的に作ったりとかね。あとは『異世界送りから守り隊』とか、同業者とか、その辺の追い払いかな。で、問題があるときっていうと、守り隊に襲われちゃった、とかね」
「襲われることもあるんすね……」
首をコキンと鳴らして、肩を回す榊さんは、何かに備えているようだった。
「まぁねー。結構危ないのよ。この間の連中もそうだけど、結構過激でね。ヤバそうな連中と、そうでもないに分かれるけど、ヤバそうなら異世界送りよね。面倒だし」
やっぱり怖いことをサラっと言う。しかし、襲いかかりたくなるのも分かる。なにしろ今日の最後の一人、佐藤さんは、数年を向こうで過ごして戻ったら一日分、なんて可能性もある人物だ。もし、自分がその立場だったとしたら……恐ろしくなる。
昨日覚えたドラゴンスクリュー、シャイニング・ウィザード、そしてDDT。できれば使うような状況になりたくはないが、そうも言ってられないかもしれない。
……実際使うのは怖いな。異世界に送れなかったら、傷害事件になりそうだ。そんなことを考えながら、今は待つ。ただ待つのみ。除去班の準備ができない限り、仕事にはならない。
ファイルを開いて、中身を確認。佐藤淳平さん(二四才)。一昨日前に見た書類と九九パーセント同じ。違うところといえば、依頼人欄に読めない文字が書いてあることくらい。
この象形文字のようなものが、恐らく前回の送った先の神官だか巫女だかの名前なんだろう。他には、備考欄を見ても特になし。家族にも仕事の同僚とかにも、心配されていなかったのだろうか。だとしたら、悲しい。やっぱりファイルを見ると、つい同情してしまう。同時転送物の欄だけ見て、終わりにしよう。不許可転送物、なし。
これでいい。
ふと顔をあげると、窓の向こうのコンビニ店員と目があう。愛想笑いをしておく。
「あの、榊さん。何か飲みます? 俺、奢りますよ」
「え? いいよー。私、さっき買った水がまだ残ってるしね」
「店員さんに目ぇつけられそうなんで、俺だけ何か買ってきていいですか?」
ハンドルにもたれかかっていた榊さんも、店員と目があったらしい。わざとらしくニヘっと笑った。
「あー……あの店員、知らない子だわ。それじゃあ、悪いんだけど、私の分の水も一緒に買ってきてくれる?」
「ウス」
また降りて、コンビニへ。
こういうときは、なんとなく物を買っておけば上手くいきそうな気がする。探偵ドラマじゃないけど、金を払っているうちは客だ。棚まで歩いているうちに、どうせ長時間待つことになるなら、いっそ雑誌でも買ってやろうかと思ったりもしてしまう。流石に今日はしないが、慣れてきたらそういう風になりそうだ。
棚から水を取り、カウンターへ。店員の目線が、俺の足の先から頭の上まで舐めるように動いて、笑う。どんだけ変なんだ、俺の格好は。
流石にこれだけ色々な人に同じような反応をされると不安になってくる。でも、どう考えてもプロレスTシャツと、パンタロンの榊さんの方が、不審人物だろうに。田舎だと、あれが普通なんだろうか。
外に出ると、ポツポツと雨が降ってきていた。最悪だ。
車内に戻り、榊さんにボトルを渡す。
「ありがとー。こっちは動きなしだねぇ。全く連絡ない。雨降ってきちゃったし、もうちょっとしたら本部に連絡してみよっか」
「ウス」
最初はまばらにポツポツと降り始めていた雨が、パタパタと窓ガラスを叩きはじめた頃に、無線が入った。
“本部より『異世界送り六号』へ、担当除去班と連絡がつきません。GPS情報ではそちらの次回担当ターゲット周辺で止まっています。目視確認をお願いします”
“『異世界送り六号』了解。緊急転送もありえるので、準備お願いします”
“本部了解。交信終了”
「さぁ、まずいことになってきたわ」榊さんはエンジンをスタートさせる。「もしかしたらマサくん。拉致されたか、あるいは同業者に異世界送りされたかも」車を勢いよくバックさせて、コンビニの駐車場を出た。
「マジすか? それ、俺たちだけで対処するんすか? 警察とか……」
「警察に言っても面倒なことになるだけ。無茶な仕事をやってるって、こういう時に自覚させられるのよね」
榊さんの声にいつもの軽い調子はなく緊迫感すらあった。おそらく、本当に危険な状況を想定しているのだろう。またしても臆病な心臓が、鼓動を強め始めていた。
雨の中を車が走る。前回、俺が失敗した地点を通り過ぎ、周辺の路地に行く。
フロントガラスが真っ赤に染まった白いバンが止まっていた。マジかよ。マジで斎藤さん、やられた?
近くに『異世界送り六号』を止め、俺と榊さんは白いバンに近づく。この赤さと滑らかさは、おそらく血じゃないな。一昨日散々見たから分かる。
「榊さん、これ、ペンキすか?」
車内を覗きこんでいた榊さんは、扉を引き、開かないのを確かめていた。
「多分ね。カギはないしドアは開かない。降りたところを拉致されたっぽいわね」
斎藤さんをかよ。あんなデカくてゴツい人拉致するとか、バット持ってたって怖い。しかしあの斎藤さんが連絡もなく職場放棄とは考えられない。
「とりあえず、本部に連絡しましょう」
車に戻り、榊さんが無線機を取った。
“こちら『異世界送り六号』。斎藤昭男が何者かに拉致、ないしは異世界転送にあった模様。周辺を捜索してみます。ドーゾ”
“本部了解。応援を手配。捜索状況は随時連絡してください。交信終了”
捜索と言ったって、どうすればいいんだろうか。……俺に出来ることなんてたかがしれてしるし、榊さんに任せるしか……ん?
ドアミラーに、傘をさしてこちらを見ている男の姿。見た事のある顔。
「榊さん。佐藤淳平です。後ろにいて、こっちを見てます」
振り向かずバックミラーで確認した榊さんは、唇を噛んだ。
「判断に迷うわね。でも、仕事は仕事。送ってから考えますか」
車はゆっくりとバックし、向きを変える。
正面に佐藤淳平が見えるようになった。既に後ろを向いて、歩きだしている。
加速。佐藤淳平が振り返り、何か投げた。
「ヤバ!」
――ブジャ
フロントガラスが真っ赤に染まった次の瞬間には、榊さんはハンドルを切り、サイドブレーキを引いていた。
水に濡れた路面の上を車がスピンしはじめる。同時に――
ゴワッシャ
後ろから強烈な衝撃。体ごと前につんのめり、頭をダッシュボードに強打した。
「エアバッグついてねぇのかよ!」
あまりの痛みに思わず口から出たが、当たり前だ。人をハネ飛ばすための車に、そんな保安装備がついているわけがない。
車は変な滑り方をして止まり、エンスト。
ドアウィンドウに目を向けると、ガラスの向こうに、バットを振り上げる男。
咄嗟に自分の顔を腕で隠す。
――ガバッシャン
ドアウィンドウからバットが飛び込んできやがった。
「コンくん! ドア蹴って!」
榊さんの言葉に反応。ドアハンドルを引き、左足で思いきり蹴り開けた。
「ブァ!」
ドアの凹むバゴンという音ともに、外で男が倒れる。しかし、すぐに立ち上がろうとしはじめていた。
俺の体は勝手に外に飛び出していた。何をやりたいのか、自分でも分からない。
男が右膝を立てた。俺の身体は『異世界送り六号』を後ろ手で押すようにして、強引に加速を始めていた。
異世界送りなんて出来るかどうかわかりはしない。しかしやるなら今しかない。
どうやればいいんだ――。
脳裏に、髭を生やした禿げ頭のマッチョなおっちゃんが浮かぶ。どっかで見たことがあるはずなのだが、分からん。誰なんだ、あんた。
口が勝手に動きはじめるような感覚。
「いせかぁい!」
男の立てた右膝を足場に、昨日散々練習したシャイニング・ウィザード。
――ゴワッシ
「シャイニング・ウィザード!」
そのまま地面に叩きつけられる俺。クソいてぇ。受け身の練習は絶対必要だと、痛感した。技かける方も受け身がいるとは、知らなかった。
なおも体は自然に動き、両手がそれぞれ狐のポーズを作り、腕を横に広げる。脳裏に浮かぶおっちゃんと同じポーズ。なんだこれ。なんなんだこれ。
背後から、ぱわゎゎあっと音が聞こえて驚き振り向く。男はバットを残して、消えていた。出来たよ。出来ちゃったよ、俺。異世界送り。
自分のやったことに呆然としていると、榊さんの声が聞こえた。
「コンくん! 乗って!」
慌てて振り返り、車に飛び乗る。走りだす車。
「出来ましたよ! 榊さん! 異世界――」
「それはあと! 守り隊と佐藤淳平が合流してる!」榊さんは頭をドアから突き出し、車を走らせる。「マサくん拉致したのあいつら! 追跡するから無線連絡!」
「えぁ、あい!」
慌てて無線機を取った。
“こちら『異世界送り六号』! 斎藤さんが守り隊に拉致された模様! 追跡中!”
“本部了解。そちらをGPSで追尾。応援を派遣します”
無線機を叩きつけるように戻して、前を向く。真っ赤なままだ。体が震えているような気がする。前が見えないまま走り続ける車って、こんな怖いのかよ。
右隣では首を突き出し、運転し続ける榊さん。速度が思ったより上がっていない。
真似をして、割れた窓から首を突き出してみる。雨がバチャバチャ顔にかかり、正直言ってほとんど前が見えない。こんな中で運転し続けるとか、彼女の頭のネジはやっぱ抜けてる。
前を走るバンがこちらに何かを投げた。水風船?
車がキュラキュラと音を立てて回避し、追跡が続く。見ていてもしょうがないので、顔を引っ込める。車の後部からバゴバゴと音がしていた。おそらく、荷台に追突されたことで、後輪付近がおかしくなっているのだろう。
追跡を続けながら、榊さんが叫ぶ。
「コンくん! フロントガラス破って!」
「はぁ!?」
「いいから早く! 走りにくすぎ!」
どうやって? とりあえず、蹴ってみるか。
背中をシートにくっつけ、足を上げ、思いっきり、両足で、蹴る。
――ベゴリ
……足いってぇよ! 何だよこれ! 割れねぇってこんなの!
「無理ッス! 榊さん! 窓ガラス、割れないっすよ!」
「ああ、もう!」ハンドルが急に切られ、体が揺さぶられる。「ハンドル持って!」
えええええ!? 言われるままに、とりあえず横からハンドルを握った。
榊さんは半身を外に乗り出したまま、左足をあげていく。マジか。蹴るのか。
フロントガラスに向かって、風切り音すら聞こえそうな蹴り。
――バギャリ
運転席側のフロントガラス、その端にひびが入った。どんだけだよ。
そのままガスガス蹴り続け、とうとうブギャっと、ガラスが少しめくれた。
「コンくん左に切って!」
言われるままに左に切る。
車が曲がりだし、遠心力に振り出されて、そのまま榊さんの尻に衝突した。硬い。
「バカ! 次、右!」必死にハンドルを持つ手を上げ、今度は左に振られた。
運転席を見ると、榊さんが態勢を戻して、顔を出して運転を続けていた。
「ほら! 蹴り破って!」
指示に従って、とにかく蹴りまくると、とうとうひびだらけのフロントガラスが前に落ちた。同時に車内に吹きこむ大量の雨。
「ぶぁ! 榊さん! 状況変わってないっすよ!」
「さっきよりは楽! 踏んでくわよ!」
グングンと加速し、小さくなりつつあったバンに追いすがっていく。田舎道を走っていたはずが、いつの間にか山道じみたものになっていた。
地面がぬかるみ、『異世界送り六号』のパワーが却って邪魔になっているようだ。
一体どこに向かっているのだろうか。このまま進んでいっても、逃げ場所なんてなさそうなものだ。
前を走るバンが、泥をはね上げながら、左に曲がる。
榊さんもそれに合わせてハンドルを切る。しかし、ぬかるんだ地面にタイヤを取られ、車は半回転スピンし、エンスト。
「ああもう!」
エンジンを再スタートさせて、もう一度追跡を続行。曲がりくねった道を迷いを感じさせないハンドルさばきで、抜けていく。
そしてカーブを曲がった瞬間、バンが止まっていた。ヤバい――
ゴシャ
俺の身体が宙を舞った。
シートベルトをしていなかったせいだ。恐ろしくスローな風景。迫る地面。両手が無意識の内に、顔を守った。
――グッチャ
地面に衝突し、そのまま泥の上を滑る。口の中に泥が入って、超くせぇ。
体を仰向けにして、泥を吐き出す。息ができない。胸が痛んで酸素が足りない。空は真っ暗だし、体中が痛い。冗談じゃない。なんだこれ。
視界に榊さんの顔が入る。
「コンくん! 大丈夫!?」
大丈夫なわけねぇだろ、と言いたいが、額から血を流している姿を目にして、言えなくなった。まぁ酸素が足りなくて、声も出せない。
榊さんが後ろに回り、上体を強引に起こされる。背中に膝の感触。顎の下に手が入り、上を向かされる。何してんだ。苦しいんだよ。いてぇんだよ。
両肩が後ろに強く引っ張られる。
「息吐き出して、強く吸って!」
だから、いま、息できねぇって――
「ごっぶぅはぁ!」
むせた勢いで下を向く。しかし榊さんの手によって、すぐに顔は上に向けられた。おお吸える。息が吸える。
「ぶはぁ、ぐぅは」喋る余裕まで出てきたぞ「なんだってんだクソ!」
「おっけー! 良かったぁ!」
背中から抱きつかれ、耳元で聞こえる榊さんの嬉しそうな声。マジかこの人。俺、今初めて怒鳴ったのに、そこはノータッチか。まぁいいさ。背中の二つの感触だけは忘れまい。
すぐに前に出てきた榊さんが、手を差し出してきた。
「立てる? あいつら、追うわよ」
また無茶苦茶な。体が痛いし、今やっと呼吸できるようになったところだ。でも、仕方がない。ここぞと言うときのスキル、『思考停止』発動だ。
俺は榊さんの差し出した手を掴む。頼もしさすら感じる力で、引き起こされた。
「……うす」
さぁ、斎藤さん救出だ。ついでに佐藤淳平、絶対異世界に送ってやる。
止まったバンの先を見ると、赤さびに塗れる閉じられた鉄門。門の向こう、微かに見えるのは、廃工場……だろうか。
電気は来ているのか、あるいは発動機でも回しているのか、数カ所から光が漏れている。その光のおかげでおぼろげに見える外観は、二階建ての古ぼけ、ところどころ壁面が剥がれ落ちているようだった。
「中に入ったんすよね、多分」
榊さんは頷き、再びフロントがベッコリいってしまった『異世界送り六号』に身体を突っ込み、無線機をいじりだした。
“こちら『異世界送り六号』。本部、応答願います”
無線機は音を返さず、不快なノイズだけを鳴らし続けていた。
「やっぱり衝撃と雨で壊れたっぽいわね。しょうがない、本部は私達の位置を把握してるだろうし、私達だけで行くわよ」
「あの、応援よこすって言ってたし、待った方がいいんじゃ……」
「いつになるか分からないし、あいつらがマサくんになんかしてたらマズいじゃない。同業者絡みなら異世界送りになるだけで済むけど、守り隊相手だと、何をされるか分からないわ」
後部がグニャグニャに潰れた、連中が乗っていたバンを見る。考えてみれば、斎藤さんを襲うのにこんな車を用意し、俺が送った一人以外にも複数人集めたわけだ。暴行や殺害ではなく、拉致を選択したということは、何か目的があるはず。まさか身代金を要求しようなんて話ではあるまい。となれば……。
「何かを聞き出すために、拷問したり、とかすか?」
「そういうこと。特に、異世界送りの方法を聞き出すのが目的、なんていうのが、ありがちよね。結局、私達の仕事の肝って言ったら、送る方法とノウハウだからね」
ザシザシとぬかるんだ道を歩き、門を開くためか手をかける榊さん。俺もそこに手を貸した。錆が手につき、ざりざりとした感触。
「いい? せーのっ――」
ガギャゴ
動かない、錆ついた門。よく見ると敷地側でチェーンが巻かれている。
「チェーンで止められてます。乗り越えるしかないっすね」
「ああもう、腹立つわね! 守り隊! ……と、佐藤淳平」
門の上に手をかけ、乗り越える。幸い筋肉痛の痛みは、地面に投げだされた痛みで上書きされた。どうせもう全身痛いなら、といった具合だ。つまり、我慢するならどうでもいい。痛みなんて、無視してしまえば感じなくなる。
俺は泥だらけ、榊さんはびしょ濡れで……青と白のボーダーのブラが透けとる。なんで今日はスポブラじゃなかったんだ。まぁいいんだけど、○ルティモドラゴンのマスクが青と白で変わった雰囲気になっている。……エロさが足らん。
パっと手で胸を隠す榊さん。
「ちょっと、今日は見ないでよ。恥ずかしいから」
「……うす」
……基準が分からん。なんでスポブラとか肌密着とかは良くて、今日の微妙に子供っぽいブラはダメなんだ。子供っぽいからか?
「ちょっと、仕事に集中」
「えぁ!? あ、う、ウス!」
微妙に榊さんの顔が赤い気がする。なんでだよ、本当に。
周囲の暗闇とぬかるんだ地面のせいで、めちゃくちゃ走りにくい。しかも気温が下がり始めて、濡れた衣服は体温を奪わっていく。
建物の中に入っても、それは変わらない。むしろ、冷えたコンクリートの外壁のせいで、外よりも寒く感じた。体がかじかみ、筋肉が強張る。
ふっふっ、と隣で呼吸音、そして衣擦れのような音。
振り返ると、榊さんがヒンズースクワットをしていた。なんでだよ。
「あの?」
「体っ、動かさないとっ、ケガっ、するからっ、ねっ」スクワットを止め、もも上げのような運動、ついで肩をぐるぐると回しはじめる。「コンくんも多少は体を動かしておかないと。冷えきってると、体壊すわよ?」
「あ……俺は大丈夫っす」
そこまで元気ないし、榊さんと違って、こっちは緊張感が凄すぎて、ダメだ。
「じゃ、ちゃちゃっと送りまくって、終わらせますか」
なんでこの人は、こんなに元気な上に、余裕なのだろうか。
鋭い冷気と不安を喚起する飛び飛びの暗闇の中を、するすると音も立てずに歩きはじめる榊さん。こっちは静かに後ろ姿を追うだけでも結構大変だ。スニーカーはグジャジャで心許ないし、何より音が消せない。
前を行く榊さんの動きにならって、腰を下げ、どんどん奥へ。
そこらじゅうに工事現場で使われているようなライトがついている。おかげで、中は比較的見やすい。しかし、廃材やら錆ついたパイプやら意味の分からない物も散らばっていて、それらを避けるのは辛い。
榊さんが、ふいにこちらを振り返り、ニマっと笑う。
「やっぱり、こういうときって姿勢、低くしちゃうよね」
……多分、俺の緊張をほぐそうとしてくれているのだろう。さすがにこの人の思考も分かりつつある。やり方が片っ端からズレているような気がするだけで、根はいい人なのだ、多分。
「そっすね」とりあえず、同意しておく。同時に、ふと浮かんだ疑問を聞いておく。「……どこに行けばいいのか、分かるんすか?」
榊さんはライトを指さした。
「線でつながってるから、少なくともどこかへの通り道には、なってるはず」
「なるほど」
やっぱり榊さんはこういう事態でもビビらないだけだ。度胸が据わり過ぎているせいで、緊張している人から見ると、どうしてもフザけているように見えてしまう。そんなタイプの人なんだろう。
灯りを辿る榊さん、その後を辿る俺。少し開けた空間に出た。階段が伸びている。埃のつもった階段には、泥と水を含んだ足跡が、上に向かっていくつか残る。少なく見積もっても、三人以上はいるだろう。
榊さんがこちらを振り返り、頷く。こちらも、頷き返す。緊張感を高めながら、階段を上っていく。二階まで上がり、階段確認。守り隊と思しき連中は、さらに上に行ったようだ。上からは、バルバルと発動機の音が聞こえている。
三階まで上がると、発動機があった。通路の先から、くぐもった男達の声も聞こえてくる。何か言い争いをしているようだ。
姿勢を低く保ったまま、榊さんと共に進んでいく。
男達の言い争いの声が大きくなってきた。
「……だから、……すぎだって言ったんだ! ……!」
「……くるとか……! ……帰りで、イカれてるんじゃねぇのか!?」
どうやら、斎藤さんを拉致したのは、この声の主らで間違いないようだ。くわえて、恐らくその首謀者は、佐藤淳平。『異世界送りから守り隊』と、どのタイミングで合流したのかは分からない。しかし、守り隊をコントロールしているようだ。
声の聞こえる部屋の前で、榊さんが足を止める。こちらを向き、小声を出した。
「コンくん。ここに隠れて。私が囮になって連中をおびき出すから、その間にマサくんを救出して。いい?」
有無を言わせぬ口調。従うしかない。
「ウス」
姿勢を低くし、立てかけられている廃材に隠れるように、壁に張り付く。
扉の外れた部屋の入り口に飛びだした榊さんは、鋭く叫んだ。
「マサくん!」そして部屋に一歩踏み込み、もう一言。「何、アンタ達!」
それに反応するように、中から男たちの声。
「クソ! もう来やがった!」
「あの女、俺を送った奴だ! 俺がやる! ついてこい!」
榊さんが後ろ歩きで部屋から体を出し、言った。
「ヤバ!」
そして、奥の方へ駆け出していく。
「追うぞ、絶対ぇ逃がさねぇからな!」
すぐに飛び出してきた佐藤淳平と、もう二人。榊さんを追って奥に走っていく。完璧な結果と言っていい。榊さん、ナイス演技。
俺は守り隊を見送ってから、中に飛び込んだ。
げ。もう一人残ってた。
大口を開けていたオラついた雰囲気の男が叫ぶ。
「う、うわ! なんだてめぇ!」
言いながら、いきなりこっちに走ってくるし、拾ったパイプ持ってるし!
こうなりゃヤケクソの、破れかぶれ喧嘩キックしかねぇ。
「うぉらぁ!」前に突き出すように蹴り込んだ足は、空を切った。「どわっ!」
見事なまでにスカされ、バランスが崩された。
蹴りを横に飛んで回避した男は、ニヤついた顔で、こちら目がけてパイプを振り下ろし始めていた。
「そんな蹴り、当たるかボケぇ!」
回避は完全に間に合わない。腕を上げて、頭だけは死守。体に当たるパイプ。
パギョン
間抜けな音がして、パイプが折れた。痛みはほとんどない。ラッキーだ。
足を踏み出し、折れたパイプを見ている間抜けな男に、思い切って殴りにいく。
あれ? これも回避された。なんで当たらねぇんだ。
男は笑い混じりの声を出す。
「素人同然じゃねぇか!」
伸びきった右拳の外に回っていた男は、右のミドルキックを振り出そうとしてくる。これは……チャーンス。
わざと正面に身体をねじり、左脇を開けてやる。そこに打ちこまれるミドル。今度はめちゃくちゃ痛い。だが、痛いだけで、重さが足りない。
左腕でガッチリ足をロック。
「うぉ! 離せコラ!」
離すかアホめ。取った右足首を、ガッツリ極める。良く分からんが、昨日榊さんはヒールホールドの要領だと、言っていた。
脳裏に、さっきも見たハゲのおっさんと、そのおっさんの肩に手を置く、ちょっと優しげな顔のマッチョのおっちゃん。ハゲてる方のおっさんは、なんか緊張しているような表情。結局、誰なんだ、あんたら。
口が自然に動く。
「いせかぁい!」
足を取られ、バランスを取るのに必死になっていた男は驚き、顔が青ざめていく。
「や、ヤメ――」
「ドラゴン・スクリュー!」
――メギョリ
嫌な音と、手にかかる震動。俺の身体の回転と共に、男の膝から下が曲がっちゃいけない角度まで曲がった。それに引っ張られ、男の体も宙を舞った。
ガゴン
痛むわき腹を手で押さつつ立ち上がる。見事なまでに不自然なことになっている男の膝下。グロすぎる。こっちの膝が笑うわ。
……てか、頭を強打したのか、ピクリともしない。なにより、消えない。ヤバい?
脳裏に、さっきの二人のおっさんが浮かぶ。優しげな方のおっさんが、何かを確信したかのように、ニコニコ顔で右拳を突き上げた。隣の禿げのおっさんは苦笑い。だから、誰なんだ。
しかし、次の瞬間、男の身体の周囲がぱわゎゎあっと光り、魔法陣の中に登り龍を描きながら、男は消えた。ドラゴン・スクリューだからなのだろうか。
「むぅーー! んー!」
「うぉ!」
唐突なうめき声にビビってキョロ充。斎藤さんが縛られ、猿ぐつわをされていた。
慌てて駆け寄り、猿ぐつわを外す。
「助かった! ありがとう、近藤くん。手の方も早く。榊さんの援護に行かないと」
「はい!」
手を結ぶ紐が結構かてぇ。何だこれ。
指をねじ込み引っ張り、なんとか外そうとしていると、斎藤さんが突然叫んだ。
「近藤くん! また来た! 早く!」
「うえぇ!?」
くの、堅ぇ!
「くそ! 何やってんだてめぇ!」男達がこっちに叫んでいる。
男の走ってくる音が聞こえる。二人分。やべぇ。って外れた!
「外れました!」
力任せに腕をこじって縄をほどいた斎藤さんは、勢いよく立ち上がる。
「近藤くんは右を!」
「えぇぇ!? 無茶っすよ、そんなの!」
口ではそう言ったし、確かにそう思ってはいたものの、体は既に立ち上がり始めていた。なんでなんだ。
立ちあがってしまった以上、やるしかない。横並びで走ってくる右の男に……右の方がでけぇ! どう見ても左の方が小さいじゃねぇか!
走りながら叫ぶ、斎藤さんの声。
「いせかぁい!」
ずりぃ、左の男はもう完全にビビってるじゃねぇか。
「クローズライン!」
斎藤さんは、横一文字に伸ばした右腕を左の男にぶつけにいっていた。
俺の方の奴は、頭下げて、タックルを――
グボ
抑えきれねぇ、すげぇパワー。だけど、チャンス。
チカチカと頭の中が点滅するように、映像が浮かぶ。やたら太い蛇を首から下げた、イケメン髭の外国人のおっちゃん。蛇の頭を撫でつつキメ顔。今度は一体誰なんだ。
「いせかぁい!」
必死に左手を伸ばし、男のベルトを掴み、首を右手でロック。そのまま鉄棒の逆上がりの要領で蹴り跳ねる。
そして全体重をかけて、落とす――
ゴッヂャ
「DDT!」
痛そうな音と共に男の頭が床に刺さり、三点倒立でもするかのように見事に足があがる。そのまま後ろに転がった。おそらく男のタックルの勢いもあるだろう。
吐き気をこらえて、やっとの思いで立ち上がり、男の方へ振り向く。
頭から血が噴き出し、白目をむいている男。なんでこんなオラついた格好してるんだよ、こいつ。
オラついた格好の男の身体の周りに、蛇がトグロを巻くような魔法陣が描かれ、天井へと伸びていく。そして、ぱわゎゎあっと消えた。
振り向くと、斎藤さんの方の男も消えていた。
「大丈夫ですか!? 斎藤さん!」
斎藤さんは振り返って、こちらに手を挙げた。
「こっちは大丈夫だよ、近藤くん。それより榊さんだ」
頷き、共に走って部屋を出る。その瞬間に今度は外から声が聞こえた。
「おらぁ! 逃げんなよ、ネェちゃん!」
中途半端に割れている窓ガラスに顔をつけ、外を見る。暗くてよく見えない。
「その足じゃ無理だろうが! よくもあんな所に送ってくれたなぁ、コラ!」
下では強いライトが点られ、榊さんが照らし出された。ようやく見えた。
転んだのか、服が泥だらけだった。地面に座り込み、足を引きずるように、這いずるように、逃げようとしている。
声の主は佐藤淳平。凹みのついたバットを肩に担ぎ、榊さんに向かって近づいていっている。
斎藤さんが震えた声を出した。
「まずい、まずいよ」
もう佐藤淳平は榊さんにどんどん近づいている。今から走って降りて行っても、多分間に合わないだろう。……走り降りても?
……飛ぶか?
いや待て、俺。三階だぞ。ヘタしたら死ぬぞ。何をスムーズに飛ぶって選択肢を出したんだ俺の思考。走り降りれば間に合うかも――
「てめぇだけは絶対ぶっ殺してやるからなぁ!」
佐藤淳平の興奮しきり、狂気をはらみつつある怒声。マジで殺すかもしれない。あれは。
斎藤さんが駆け出そうとしていた。俺は斎藤さんの手首を掴んでいた。
「俺、飛びおります」
「は? 無理だよ、手を離して! すぐ降りられる!」
なんてことを口走ったんだろう。きっと榊さんの影響だ。そして昨日、技術開発部でマスクマン達に囲まれて、エル・サントのレプリカマスクを被ったせいだ。
しかし飛ぼう。飛ぶしかねぇ。
「窓割ってください!」
窓を背にして走り、助走のための距離を取る。頭がおかしくなっているのは分かる。しかし、何度なく助けてもらっておいて、ここで引くわけにもいかない。
斎藤さんは口を固く結び、背広を脱いで手に巻き、窓ガラスを割りはじめた。
窓に向かって走る。脳裏にかかるのは、やはりというか、あの曲だ。
ミル・マ○カラスの入場曲。ス○イハイ。
同時に、窓の向こうに両手を腰に当てて、仁王立ちしているマスクマンが見えた。額に大きくMと入った男。これは分かる。ミル・マ○カラスだ。
綺麗に割られた窓ガラスの向こうのミル・マ○カラスに、ぐんぐんと近づく。
「いせかぁい!」
今日一番デカい声が出ている気がする。体の痛みも吹っ飛ぶほどのエピネフィリンが、脳内に溢れている。
デカい窓から、真っ暗闇の外に向かって、踏み切る。
――スヵイハァァァイ
凄まじい風圧を感じる。またしてもスローモー。
下では、こちらに振り向き、驚きの佐藤淳平。そして、口を大きく開けて、ポカンとしている榊さん。
重力によって加速し、佐藤淳平の顔に近づいていく。その口がゆっくりと開いていく。叫ぼうとしているのだろう。
俺は両手を横に広げて、ただの自殺を技にする。
ざまぁみろ。これが頭から飛び込む投身自殺――
「トペ・スイシーダ!」
――ドグァチャゴキ
俺は、頭から佐藤淳平に激突した。
佐藤淳平は、地上三階から降ってきた約六〇キロの肉体の下敷きとなり、潰れ、後頭部を強打しただろう。衝撃を殺しきれず、俺も悶絶。
痛いとかそういう次元じゃない。骨の一本くらいは絶対折れてるだろうし、本日二度目の呼吸困難。なにより、血の気が引く。しゃれにならない。何やってんだ、俺。
首を上げるとギリギリ痛み、視線の先には呆けた榊さん。
足りない空気を根性で補って、言った。
「……大丈夫すか?」
地面に座り込み、口を開いたままの榊さんの目は、なんか、超キラキラしてた。
榊さんはこちらに飛び付くように立ちあがり、俺は脇の下に手を入れられて、強引に抱き起こされた。クソいてぇ。
「すごい、すごい! ノータッチ、ノータッチトペ!」
腰のあたりに腕が回され、上に向かって抱き上げられた。
「しかも、高さ一〇メートル越えのスーサイドジャンプ! すごいすごいすごい!」
榊さんは興奮状態のまま、ぐるぐる回りだした。
「本物だよ! 本物のトペ・スイシーダだよ!」
アンタ、足大丈夫だったのか。あと呼吸もキツいけど、揺さぶられると背骨がビリビリ痛む気がするので、アズスーンアズポッシブルやめて。ベルトを奪ったレスラーのような笑顔のまま、ぐるぐると回りまくり、叫びまくる榊さん。
すごい勢いで回転する世界の中、一瞬見えた佐藤淳平。その体の周りに、巨大な魔法陣が広がる。デカいし、真っ赤な明るすぎるくらいの光。
「榊さん!」
俺の声に反応し、回転を止めてくれた。ようやく足が地面についた。
魔法陣は真っ赤な光を発しながら、空に向かって巨大な柱のように伸びて行く。雨雲が裂かれ、そこだけぽっかりと穴が開く。
光の円柱の外周に光り輝く模様は、複雑怪奇なゴチャゴチャとした模様、これぞアステカ文明風。そして天に昇る鷲を描く……トナティウだ。生贄を欲する戦の神だ。つまり、俺のトペ・スイシーダは、ある意味で人身御供の見立てか。……また理解できた。超怖い。自分の頭の中が怖い。
ぱわゎゎゎあっと光って、佐藤淳平ごと、魔法陣は消えた。
榊さんがムギュっと抱きついて、頭をグリグリこすりつけてくる。なんだこれ。
「すごい! 完璧なノータッチ・トペ! すごい!」
胸の辺りを頭でグリゴリされると、めちゃくちゃ痛い。なんでこんな……ああ、そういや付き合うならノータッチ・トペ出来る人って。あれ、マジだったのか。
バチャバチャと建物の方から音がした。
榊さんを押し戻しながら首を向けると、斎藤さんがこっちに走ってきていた。
「大丈夫!? 近藤くん!」
「大丈夫っす!」
駆け寄ってきた斎藤さんは息を切らし、両膝に手をついていた。
「無茶するよなぁ、キミも。手伝っておいて、アレだけど、冷や汗かいたよ」
「俺自身、なんてバカなことをと――」
「すごいのよ! マサくん! コンくんがぶわぁーっと飛んできて!」
声でけぇし、テンションMAXだな、榊さん。あと、いい加減離してほしい。背骨が折れそうな勢いで抱きつかないで。柔らかい感触どころか、筋肉と骨がゴリゴリいう方に気がいっちゃうから、やめて。
ってそうだ。
「あの榊さん、本部に連絡しないと」
一瞬放心した榊さんが、慌てだした。
「あ、そう! そうね! そうしないと、痛っ」榊さんはその場にしゃがみ込み、右足を押さえた。「流石に、バットはキツいわ……」
バットで叩かれたのかよ。っていうか追っていった佐藤淳平以外の二人は送ってしまったのか、あるいは逃げたのだろうか。さっきから出てこないし。
とりあえずしゃがみ込み、背中を向ける。
「乗ってください。とりあえず車まで行きましょう。斎藤さんは、本部に連絡を」
「……えっと、分かったよ。車は入口のところだね?」
その間はなんだ、と思ったが、斎藤さんはすでに駆け出し、俺の背中には、柔らかい感触とちょっとばかしキツい重量感。榊さん、肉がみっちり詰まってて、重い。あと首に絡みつくのはいいけど、クラッチしないでほしい。苦しい。
「んんぅー」
あと、頭グリグリこすりつけるの、やめて。メチャ恥ずかしい上に、なんかムズムズする。バチャバチャと足音を立てて、車まで急ぐ。といっても人一人背負っているせいで、ロクに走れなかったが。
チェーンが外され、開かれた門。とりあえず『異世界送り六号』に榊さんを下ろす。やっと一息つけるかと思った時、後ろから車のヘッドライト。
山道を来た車のドアがバーンと開くと、平野さん。なんで?
「ヨウちゃーん、大丈夫ぅ?」ほわほわとした声を出しながら、まるで慌てた様子もなく、歩いてきた。「応援にきたんだけど、終わっちゃった?」
マジか。アンタが応援って、どういうことだよ。
「あの、平野さんって、営業じゃ……」
くるっと振り返り、下から上まで見て困ったような顔。泥のせいじゃない、これ。
「そうだけどぉ、ほら、私、運動部で、結構強かったからね? 緊急時の保安部員を兼ねてるのぉ」ちらりと榊さんに目を向ける。「でも、良かったぁ、ヨウちゃん、無事そうだねぇ」
榊さんは泥だらけで足首押さえてるけど、なんで無事だと認識できたのかなぁ。
「聞いて! ヨっちゃん! コンくん凄かったのよ!」榊さんは、やたらデカい、弾んだ声を平野さんにぶつけていく。「トペ・スイシーダ! ノータッチの! 三階からよ! 三階から!」自分の身体を抱きしめ、体をくねくね動かし始めた。「もう私! キューンときちゃって! 凄いのなんのって!」
「あ?」
平野さんが突然ドスの利いた低音を吐き出し、ギリギリと首の筋肉を軋ませるようにこちらに振り返る。その目は、憤怒と嫉妬のような何かが入り乱れている。もはや凄惨と言ってもいいような、恐ろしい眼力だった。
「アンタ、ヨウちゃんに、手ぇ、出す気、かなぁ?」
クソ怖。
ビビって後ずさってしまった俺と平野さんの間に、斎藤さんが割って入る。
「まぁまぁまぁ。平野さん、榊さんも無事でよかったじゃないですか!」こちらに振り向き、車に乗るようにジェスチャーをしてきた。「平野さん。とりあえず二人には社に戻ってもらいましょうよ。ねぇ?」
「あぁん!?」
うぉ、平野さんの声、怖ぇ。慌てて『異世界送り六号』の運転席に乗り込み、エンジンスタート。良かった、まだ動いてる。タフだな『異世界送り六号』。まぁ、確実に明日は車両部行き確定だけどな。
会社に向けて、一路、車を走らせ始める。気付けば、雨は止んでいた。とは言っても、そんなことはどうでもよくなるくらいに寒かったが。
帰路はヒヤヒヤし通しだった。寒いという意味ではなく、ライトは片方しかつかないし、フロントガラスがなかったからだ。つまり、昼間の暴走行為の絡みで警察に止められたら、一発で捕まってしまう。免許を取って以来、最も怖い運転だった。
それだけじゃない。そんな有り様だから不安を押し殺そうと思って、たまに助手席をチラ見すれば、常にキラキラした目をしている榊さんと目が合う。そして始まるトペ・スイシーダの凄さ。恥ずかしいとかどうとか以前に、困った。
前が見えないこともあって、おっかなびっくりのトロい運転となり、結構な時間をかけて会社に着く。駐車場に適当に車を置いて、降りる。榊さんをチラ見すると、まだキラキラした目をしていた。……ああ、歩けないのか。
しょうがなく、助手席のドアを開けて、背中を向けた。
「ごめんねぇ」
言葉とは裏腹に、声はものすごい弾んでいた。これが、トペ・スイシーダの威力なのか。すごいな、トペ・スイシーダ。そして、ミル・マ○カラス。
ロビーに入ると、パンキッシュな格好のままの、南さんがいた。こちらに気付くと、結構な速さで駆け寄ってくる。
「葉子! 大丈夫!?」
あ、やっぱ榊さんの方を優先ですよね。分かってますよ。
一旦榊さんを下ろそうと腰を下げる。背中の榊さんに南さんが抱きついたようだ。
「心配させんじゃないわよ! このバカ!」南さんは肩をつかんでガクガクと揺さぶる。「なんで応援を待たないのよ! 昔っから一人でなんでもかんでも……」
おお、ほとんどオカンじゃねぇか。っていうか、やっぱり仲はいいというか、南さんは常識人ということなのか。
俺のことを心配してくれる人、欲しいなぁ。
「近藤くん! 大丈夫かい!?」
いた。マッチョな部長が。いらねぇよ、美少女をくれよ、美少女を。
後ろで榊さんの叫ぶような弾み声。
「それより聞いてよ、ミナミ! コンくんが凄いの! トペ・スイシーダを……」
何回するんだよ、その話。いや、自分で考えても無茶やったとは思うけどさ。
その後、すぐに平野さんと斎藤さんが到着し、平野さんは鬼の形相を俺に見せつけ、仏の顔で榊さんを更衣室に連れて行った。斎藤さんと部長は連れだって、さっさと上に戻っていく。
一人取り残されていた俺をジト目で見下し、南さんが言った。
「アンタ、気をつけなさいよ? あの子、葉子のことになると、やたら怖いからね」
あの子というのは、平野さんの事だろう。完全に目の仇にされてたし。
「あの、怖いってどういう……?」
「葉子に男が出来ないのは、八割方、あの子のせいよ」
マジか。あれだけのプロレスバカでマッチョでアホほど飯食うっていう要素が、たったの二割分になるほどのガードかよ。それもう、命の心配しなきゃいけないレベルじゃないか。
「気をつけなさいね?」
「……うす」
とぼとぼとエレベータに乗り込み、三階のボタンを押す。扉の開閉ボタンを押そうとした瞬間、そっぽを向いていていた南さんが言った。
「葉子を助けてくれて、ありがとう」
「えっ――」
閉まる扉。急激な加速感。なんてことだ、なんてことだ。一番マトモな、南さんのフラグが立ったっぽかったのに、なんてことなんだ。
――ティン
ティンじゃねぇよ。マジで。
実行部に戻ると斎藤さんが待っていて、ビニール袋と、熱いタオル、それと車から持ってきてくれたのだろう、着替えの入ったボストンバッグを、差し出してくれた。
それらを受け取り、パーティション迷路をするすると抜けていく。おお、何も考えていないと抜けられる。パーティション・オアシスで紅茶の用意をして、タオルで体を拭き、着替える。
着替え終わったころに斎藤さんが来て、上から下まで見て、言った。
「えっと、着替えも変わってるね」
「……うす」
なんでだよ。最後の最後までこれかよ。って何ですか、そのファイル。
「今日の件の始末書と報告書の要件ね。僕も書かなきゃいけないんだけど、榊さん戻ってきたら伝えてね。急ぎで通さないと明日中に修理出せないから、よろしく」
マジかよ。まだ働くのか、俺。……やるか。
書類を書き続けて一時間は経った。さすがに榊さんの戻りが遅すぎる。部長に聞きに行こう。再度のパーティション迷路を抜けて、部長の席へ。
ハンドグリッパーをニギニギしていた部長に聞くと、難しい顔をこちらに向けた。
「榊くん、足を痛めちゃって歩けないらしくてね。営業の平野くんが病院に連れて行ったよ」
「んな……んなバカな……」
へたり込む俺に、部長が無慈悲にもさらなる書類を差し出す。
「これ、労災の書類ね。怪我してたら書いておいて。ウチ、福利厚生はしっかりしてるからさ」
嘘つけ、いま絶賛ブラック就業中……なんで書類を受け取った、俺。
どうやら、『思考停止』スキルはカンストし、とうとう上位スキル『社畜』に片足を突っ込みつつあるようだ。怖い。
でも、体は勝手に労働をはじめようとしている。いいよもう、今日中に片付けてやろうじゃあねぇか!
終わらなかった。朝まで。