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Q5.この会社のいいところは? A.充実した社員研修ですかね

 翌日。実にうざったい程よく晴れた、いい天気だった。

 眠い目をこすりながら出社したすぐに目にしたのは、こちらに気付いた瞬間に目を逸らす南さんだった。相当気まずいんだろう。彼女的には。

 でもまぁ、誰だってはっちゃけることあるし。奢ってもらったわけだし。

 なにも気にしてませんよアピールだ。

「あ、おはようございます。南さん。昨日はごちそうさまでした」

「……おはよう。さっさと行きなさい」

 他には何も言わず、さっさと立ち去る。最後まで目をこちらに向けることはなかったが、別にいいのだ。多分プライドが高いタイプなんだ。きっとそうだ。

 このエレベーターの、ぐぃーんと感じる加速感にもたった三日にして慣れるのだから、人間はすごい。まぁ迷路はまだ無理そうな気がするが。

 タイムカードを押して、パーティション迷路入口の門番、斎藤さんに向けて挨拶。

「おはようございます」

 ひょいっとパーティションの影から斎藤さん。ちゃんと来てる。当たり前か。

「ああ、おはよう。そうだ、近藤くん、今日は技術開発部に行くから、先に部長の所に行ってもらえるかな?」

「えあ? あ、分かりました」

 軽く会釈をして、部長のところへ……どうやって行くんだろう。

 まったく順路が分からず茫然としていたせいで、斎藤さんが笑い声混じりで話しかけてきてくれた。

「いいよ、連れて行ってあげる」

「ありがとうございます」

 言えた。自然に。どんどん順応してきてるな。まぁいい、斎藤さんも笑顔を深めた。これでいい、これでいいはずだ。

 部長は、いつものように太いバネのハンドグリッパーをニギニギ。

「来たね、コンくん。今日は『異世界送り六号』がまだ戻ってきてないから、榊くんと一緒に技術開発部だ。まぁインターンシップだから、本格的にはやらないから安心して。ちょっと一日、技術開発の体験をしよう。くらいの感覚でね」

 技術開発の体験ってなんだよ。○○開発って会社で一番大事なところで、ちょろっと体験しました、でどうにかなる分野じゃないだろうよ。

「あ、はい、分かりました」

 しかし、口は勝手に返答をするようになってきていた。

 ニギニギとハンドグリッパーを握りつぶす部長。いい笑顔だ。

「うん。それじゃあ」部長が立ち上がり、オフィスに向かって叫ぶ。「榊くーん! さ、か、きくーん」

 振り返ると、ひょこっとパーティション迷路に榊さんの頭頂部が見えた。

 こっちまでテッテコ歩いてきた榊さんは、昨晩の居酒屋での醜態なぞ存在しなかったかのように、すっきりとした顔をしていた。

「なんでしょう部長。あ、おはようコンくん。昨日はごめんねー。三人で飲むと、いっつもああいう風になっちゃってねー」

 こっちが挨拶を返すより早く、呑みの話。しかも部長の目の前で、朝っぱらから。会社ってこういうもんなんだろうか。

 一応会釈だけ返しておいて、俺は部長に向き直る。

「それじゃ、榊くん。近藤くんと一緒に、技術開発部に行ってきて」

「えぇっ。なんで私まで……」

「キミ、近藤くんのメンターじゃないか。一人で行かせたって、困るだけだよ」

 露骨に嫌そうな顔をして、目元を抑えてムムムと、榊さん。

「……分かりました。じゃあ、行ってきます」榊さんはこちらを向いて続けた。「よし、行こうか、コン君。ここにいても、しょうがないのは事実だしね」

 そして、さっさか歩きはじめる。行動早いところだけは見習いたいかもしれない。

 ロビーで榊さんと南さんが顔を合わせる。ヤバいか?

 ニヘって二人して笑って特に嫌味を言うでもなく通りすぎていく。南さんに睨まれたのはこっちだった。なんでだよ。

 駐車場までついていくと、軽トラ。まぁそりゃね。何かにつけて軽トラなのが、この会社なんだけどさ。あ、でもこれ、黄色ナンバーだ。ガチ軽トラか。

「さ、乗って。技術開発部に行くから」

「うす」

 言われるがままに乗り込む。大分疑問を抱かなくなってきている。

 乗り込むと、榊さんはカーナビをいじっていた。カーナビがついているのかよ。しかしそれよりも、同じ会社の部署なのにほとんど交流がないのか行かないのか。そっちの方が気になってくる。

 いずれにしても、ただ行くだけで時間がかかりそうだ。なにせカーナビの地図が、みにょんと縮尺広げてたから。

 走り続ける車の中で暇を持て余し、榊さんに昨晩の話にあった、平野さんの怪我について聞いてみることにした。

「あの、榊さん。昨日の夜、平野さんが言ってた怪我してって、なんですか?」

「んー。本人に聞いた方がいいと思うんだけどねぇ」首をコキキと鳴らした。「ヨっちゃんは、元はアマレスの選手でね。結構いいとこまでいけてたんだけどさ」

 マジか。あの人ホンワカ系レスリング女子かよ。あの胸、さぞやレスリングに邪魔だっただろうなぁ。

 車は信号を軽やかに抜けていく。

「それでまぁ、怪我のせいで色々あってねぇ。結局アマレス辞めるってなって。それで引きこもり一歩手前になって。当時私はここで働いていたし、まぁ働けば、いい意味で頭空っぽになるから、丁度いいかなって思ってね。それで色々お願いして、うちで採用()ってもらったのよ」

 ああ、なるほどなぁ。今の俺みたいに、思考停止が大事なときもあるんだろうなぁ。でもレスリング選手から異世界への営業コールって……ああ、営業には体育会系は向いてるっていうし、そういうことなんだろうな。とはいえ、部活とかはロクな思い出ないから知らんけど、いいとこまでいってたのならショックだっただろうに。

「あの、でも怪我って、どんな? 後遺症とかないんですか?」

 自分の口からスラスラ出た疑問にびっくり。いくらなんでもぶっ込み過ぎてるような気がしてならない。だけど、榊さんはニマっと笑った。

「怪我したのはヨっちゃんじゃなくて相手よ、相手」

 は?

「は?」思わず内言が流れ出た。

「だから、試合で怪我しちゃったのはヨっちゃんじゃなくて、相手の方なのよ。ヨっちゃんが相手の子のタックル切ったときに、首をいわしちゃってねぇ。まぁ、それだけなら大ごとにはならなかったんだけど、興奮しちゃってたからね、ヨっちゃん。そのままぶっこ抜いて投げちゃってさぁ。相手の子は失神。ヨっちゃんはドン凹みよ」

 うわぁ。カラカラ笑いながら言ってるけど、首って一歩間違えたらヤバい大怪我だろ。っていうか、そんな人がデスバレーなんちゃらーとか言ってたのかよ。もう立ち直ったってことなのだろうか。

 車が信号で止まり、榊さんがこちらをチラ見。

「そんな青ざめることでもないって。怪我だって、相手の子のトレーニング不足が原因だし、半身不随とかにはならなかったわけだしね。まぁ、ヨっちゃんは元々おっとりした子だから、物凄く凹んじゃって、見てて可哀そうなくらいでね。それで、プロレスに連れてったのよ。なつかしー」

 ……なんでレスリングで怪我させた人連れてプロレスなんだよ。いじめかよ。

 新たに浮上した猜疑心に対して、榊さんは真面目な顔をして優しく語った。

「プロレスはケガさせたらヘタクソって言われる世界だからねぇ。いかに派手に痛そうに受けて、それでケガしないかってのが実力の一つでもあるわけ。受けの美学。そしたら今度はプロレスにハマりすぎちゃってさー。会場にだけは足を運ぶ、アクティブな引きこもりにクラスチェンジよ」

 つまりそれ、怪我させて凹んでた平野さんをアンタがプロレス沼に引きずり込んで、次は会社に引っ張り込んだってことかじゃねぇか。

 不審の色を載せて榊さんを睨んでみたが、彼女はカラカラ笑っていた。

「まぁ、何でもいいのよ、何でもね。大事なのは何でもいいから、何かすることなんだしね」

 含みのあるイントネーション。もしかしたら、彼女のテキトーさと雑さは、ただの演技なのかもしれない。理解に隔たりを作るものが何か分からず、少し悲しかった。

 俺の疑問と榊さんの元気を乗せた車は、小汚いアパートについた。

 併設されているのは、小さな体育館のような、倉庫のような箱物。中からはアスレチックなバンバンとよく響く板の音が聞こえていた。それと、オッサンの叫び。

 嫌な予感しかしない。

 敷地内に車が入るときに見えた木製看板には、太い墨字で『秘密結社異世界に送る会 技術部』と書いてあった。あからさまに不審な建物だというのに、付近の住民は怖がったりしないのか。まぁ、ほとんど民家もないが。

 榊さんについて中に入るとそこは、凄まじい熱気で満たされていた。


「エイシャァ! オラァ!」

――バアァン

「シャア! エイシャァ!」

――バアァン


 なんか、ちょっと細いオッサンがゴツイオッサンにポンポンと投げられ、リングに体を打ちつけられていた。あまり見たくなくて、目を滑らせると、ホットパンツを履いた兄ちゃんやオッサンが変な棒につかまり、スクワットを繰り返している。

 口から出す言葉の一切を失った俺の手は、榊さんに引かれて魔窟の奥まで引き摺られることになった。連れられた先にいたのは、分厚いおっさん。『技術部』と胸に書かれた青いTシャツをパツンパツンにする筋肉の塊。と、その上に乗せた脂肪。

 俺は人生で初めて、人間の体の評価に『分厚い』という文言を浮かべた。

「よう! ヨウちゃん! 頑張ってるか!」

 ガラガラ声がでかい。腹の底どころじゃない。亜空間から取りだされているような声だ。そして両手で肩をバシンバシンと叩いてくる。痛いんじゃない。重い。

「なんだ兄ちゃん! 細いな! もっと食べろ! 吐いても食べろ!」

 『細い』と『食べろ』そして『吐いても食べろ』。理由も目的も自明だと言わんばかりにすっ飛ばされた論法。はやくも、思考停止スキルが発動しはじめた。

 隣で腕組みをしていた榊さんが、苦笑いしながら言った。

「この子は実行部のインターンシップだから。ここじゃないから」

 呆れ声だ。しかし、おっちゃんは意に介さない。

「そうか! だが食べなきゃダメだ! 食べてからだ! 朝は喰ったか!? どうだ!?」

 その勢いに負け、答えてしまった。

「や、今日は食ってないです……」

 榊さんのため息が聞こえた。そして再び両肩がバンバン叩かれ、隣の部屋に連れて行かれる。

 汗臭い会議室のような……ダイニングだろうか。古ぼけたクーラーが部屋を生温くしているその部屋にはデカいテーブルと丸椅子が並び、無駄に大量の料理があった。

 胸やけを起こしそうなほどの肉と、煮込みに煮込んで形を失いかけているドロドロ状態の野菜汁。そして真ん中に大量に置かれた胃腸薬。

 おっちゃんは手早くデカい皿にドカドカと肉を盛り付け、野菜汁を丼に入れ、俺を席に座らせた。

「あの……」

 この量を、今食えってことなのか。絶対無理だ。まだ昼には早いし、俺は小食だ。

 おっちゃんはニカっと笑った。

「そうだな! 米忘れちゃダメだな!」

 違うよ、おっちゃん。食えねぇって話だよ。こんな量一回で食ったら、俺の体、主に腎臓がタンパク質と塩分でぶっ壊れるよ。

 しかし、おっさんは無言の抗議をサラっと無視して、いや、気付いていないのか、丼に小山を形成している大量の米をゴドン、と置いた。

「まず食え! とにかく食え! 食って食って、食ってから、それからだ!」

 泣きそうな思いで、部屋の隅にいる榊さんを見る。にっこり。違うよ?

 泣きそうを通り越し、泣いた。泣きながら飯を食べた。味はいい、正直言って美味かった。だがそれ以上に暴力的な量と、それを食わねば話を進めてもらえないことが辛かった。

 食べ終えたら胃腸薬を豆乳で飲まされ、背中をバンバン叩かれる。吐きそう。

「よし、着替えてトレーニングだ! 時間は平等だ! より多く使った奴が勝つ!」

 言ってる事は分からんでもないが、それ以上に吐き気が凄い。なによりも、一体何がはじまるのか分からないまま、全てが進行していくことがキツい。

 おっさんに渡されたのは同じ柄のTシャツとジャージ。それらに小さな部屋で着替える。部屋を出て体育館に戻ると、榊さんはアホほどデカいバーベルを背負い、スクワットをしていた。

「何、やってるんすか?」

 榊さんは、薄く、早く息を吐き出し伸びあがり、バーベルを後ろに放り落とした。

「何って、トレーニングよ。まぁ、私の場合はリハビリみたいなもんだけど」

 リハビリ。何キロあるんだ、そのバーベル。社会復帰に必要なのか、その筋力。

「あの、結局、俺はなんでここに連れてこられたんですか?」

「何でって、異世界送りの技の一つや二つできないと、明日の仕事はキツくなりそうだからって聞いてるけど?」

 インターンシップの半学生にそんなキツい仕事やらせる気かよ。

 ぼっとしていた俺はおっさんの接近に気付けず、ズルズル引き摺られた。

 「よし、まずは腕立てだ! 限界超えて潰れて、もっかい限界超えるまでだ!」

 意味が……分からりません。

 地獄は、ここから始まった。

 信じられない回数の腕立て。いや、回数の問題ではない。やって、やって、やって、潰れる。潰れたらおっさんが三〇秒程度の間を取って、やってやって、やる。潰れたら……あとは同じことの繰り返しだ。同じことというのは正確ではないかもしれない。最後に潰れたときは、どれだけ踏ん張っても体が浮かなかったから。

 おっさんはそんな俺をひょいと担ぎあげ、立たせスクワットだ。ヒンズースクワットとかいう、伝統的な屈伸運動によるトレーニング。膝を痛めないように注意する必要があると言われた。どうでもいい。倒れるまでやらされるからだ。

 どこが痛いのか、なんて分からないし、知りたくない。ただひたすらに繰り返される反復運動。あがらなくなるとおっさんが体を支えて、動かさせられる。キツい。

 そして腹筋。吐いたらダメだと念じ続けた。

 おっさんは俺の腹をぐいぐい押して言った。

「吐くなよー。吐いたら倍食えよー」

 吐くわけにはいかなくなった。

 どれほどの筋トレをこなしたのか分からない。多分、思考停止スキルの恩恵だ。

 頭が回りだしたころには、良く分からない細長いベンチに寝かされていた。首を振ると、傍らでムキムキ細マッチョのイケメン兄ちゃんが、俺を団扇で扇いでいた。柔らかく風と、汗臭い香りを感じた。

「キミ、やるねぇ。最後まで吐かないとか、根性あるよ。うちに就職したら、絶対吐くまでやらせるからね」

 そう言って、ニカっと笑った。バカめ、死ね。なんで吐くことに目的意識を向かわせてんだよ、このイケメン細マッチョは。

「……あの、毎日、こんなんやるんすか?」

「まぁ、技術開発部の人間以外は、毎日は普通しないよね。ただまぁ、実行部でも異世界送り技術は学ばないと、いざっていうときに困るからね」

 うぜぇ。普通はしないのかよ。でもまぁ、昨日の榊さんの闘いっぷりを見る限り、基礎体力だけは絶対必要だ。今日ほどではなくとも、筋トレだけは続けよう。

 ドスドスとこちらに近づく音がする。誰だってんだ一体。……おっさんか。

「起きたかい、近藤くん! 次はお待ちかねの異世界送りだ!」

 声でかいなぁ。そして、俺は体中すでにバキバキで起きることができない。……起こすなよ、細マッチョ。

 首根っこを掴まれ歩かされ、深夜に見たプロレスのようにリングに入れられた。

 リングに転がる俺に、仁王立ちのオッサンは言う。

「本来ならここから受け身の練習をするんだが、キミはインターコンチネンタルだと聞いた! だから、手っとり早く三つの異世界技を教える!」

 インターンシップな、おっさん。インターコンチネンタルじゃ、意味が違うぞ。

 心のツッコミは、口から出ることはなかった。ついでに、おっさんに対抗する術もなく、無理やり体を起こされ、リングに座らされる。

「おい! ヨウちゃん! ヨウちゃんこっち!」榊さんがリングに滑り込むのを見て、おっさんは俺に言った。「まずは見ておくんだ! 見逃すんじゃないぞ!」

 おっさんが指さすリング中央に目を向ける。

 榊さんがそこそこ歳のいったマッチョなおっさんと、リング中央でにらみ合っていた。そしてマッチョおじさんの右足を取り、膝を内側に巻くように倒れ込みつつ、体を捻る。

――ズバァァン!

 マッチョおじさんはその回転に負けたのか、自分から飛んだのか、巻かれた方向に身体を捻って、リングに倒れた。

 おっさんはこっちを向いて叫んだ。

「一つ目! 異世界ドラゴンスクリューだ!」

 ……それ、異世界送れるのか。つか、今どうやって足とったの。そしてどうやって回って、どうやって投げたの。投げたっていうより、協力して飛んだって感じ?

 マッチョなおじさんは、リング上を滑るように回転して、体を起こす。そして、片膝をついた。そこに榊さんが走り、マッチョおじさんの立て膝に左足をかけ、足場のようにして――。

ッガズン

 右膝を、頭部に叩き込んだように見えた。

 これは……これはすごい痛そうだ。でもこれ、アスファルト使ってないけど、異世界に送れるのだろうか。そして、真似できる気がしねぇぞ、それ。

 振り返ったおっさんは、額から汗が噴き出していた。なんでお前が汗かいてんだ。

「あれが! 異世界シャイニング・ウィザードだ! そして、次がラスト!」

 榊さんがマッチョおじさんの頭を引き起こし、叫ぶ。

「オラァ! モイッポン!」

 汗だくのマッチョおじさんは、榊さんにされるがままに、引き起こされた。

「シャス!オォシャッシャス!」

 何言ってるか、全く分からねぇ。

 榊さんが、マッチョおじさんの首をロックし、後ろに倒れ込む。

――ドズム

 あ、これ見た事ある。昨日、スウィングDDTって言ってた奴。の、地味版。

「あれが! 異世界DDTだ!」

 おっさん汗だく過ぎだろ。いや、このジム熱いけどさ。っぁ? 引き起こされた。

「さぁ! ヨウちゃん相手にやってみろ!」

 ビシっと榊さんを指さすおっさん。

 マジか。いや、無理だろ。どうしろってんだ、まず何からだ。

 というか、立ってるだけで足プルプルなんだが。ついでに榊さん、Tシャツで良いから、上、着てくれ。それ、トレーニングウェア的な何かなのか?

 榊さんはかつて陸上部でもしていたであろう笑顔をして、右足を差し出してくる。

「さ、大丈夫。私は受け身できるからね! やってみて!」

 とりあえず足を取る。……かてぇ。ほんのわずかにプニったと思ったら、即、鋼鉄の筋肉。どうなってるんだ。それともこれが、最新のお姉さん系の脚なのか。

 えっと、たしかさっきやってたのは、左手を踵の方に回して、右手でふくらはぎのあたりを掴んで、体ごとまわる――

シュバァン

 えっ。出来た? いや、違う。抵抗感は、ほぼなかった。つまり、榊さんが飛んでくれたのだろう。おかげで感覚は分かった。だけどこれ、異世界に送れるのか。

 榊さんを見ると、額にちょっと汗が光り、破顔一笑。

「いい感じ! 練習はまだまだいるけどね。でもモノにできそうじゃない!」

「う、うす」

 キラリと光ってそうな歯に、思わず心臓が高鳴った。不覚だ。

 榊さんは片膝をつき、両手を胸の前で叩いた。

「さぁ、次はシャイニング・ウィザードよ!」

 マジか。足フラフラで走るのもやっとだ。とても真似出来るとは思えない。しかし、あのいい笑顔で、さぁ来い! って感じの榊さんを無視することもできない。

 ええい、やるしかねぇ、やったる。

 走り、左足で膝に乗り、膝を、当て――思ったより近い!

――ゴヂュ

 ゲ。

 ドガンとリングに落ちた背中の痛みはなかった。明らかにヤバい感触がしたことに気がいっていたからだろう。

 ヤバい、絶対ヤバい。手をついて体を起こし、榊さんを見る。

 榊さんはヘッドスプリングで跳ね起きて、こちらに親指を立ててみせた。

「今の、結構ガッチリきたね。でも気を付けて、勢い付きすぎてヒザ痛めることあるから、必ず膝より少し上のあたり使って、頭の横を蹴るような感覚でやるの」

「……あの、榊さん。鼻血……」

 鮮血が鼻からダラりと垂れ、それを手の甲で拭って、グっと親指を立てる。

「大丈夫。骨は折れてないから! 次! DDTよ」

 えぇぇ。無理だろ。鼻血出してる人相手に、さっきの頭をマットに刺すような技をかけるのかよ。これ以上怪我させたらヤバいし、何より俺の精神が持たない。

 待って、マジで待って、何で起こすの、榊さん。

 榊さんは俺の脇の下に頭を突っ込み、腰に組みついた。なんだこの、嬉しいような嬉しくないようなシチュエーション。てか、良い匂いがする。なんでだ。

「さぁ、首をロックして、コンくん!」

「や、あの、俺――」

「大丈夫だから! さっきのはこっちが頭引くタイミングをミスっただけ。コンくんのせいじゃないからね。むしろ、おっかなびっくりやると、コンくんのが怪我するから、気を付けて」

「う、ウス!」

 覚悟を決めて、首をロック。しっとりしてて温かい。じゃなくて。

「前にステップして、そのまま尻もちつく感じよ!」

「い、いきます!」

 前に一歩飛ぶようにして、落ちる。

――ドガン

 うぉ。音でけぇ、でも、さっきみたいなヤバさはない。

 右脇を見ると、ちゃんと榊さんの頭はマットに刺さっているように見える。しかし、同時に手もついていた。そのまま前転するようにして首を抜き、立ち上った。

 身体を起こされた俺は、頭を撫でられていた。

「やったじゃん! できたできた!」

「あ、ありがとうございます……」

 嬉しい。嬉しいが、恐ろしくもある。

 今のは、榊さんだから受け身を取れたのは間違いない。じゃなきゃ立てない。普段、榊さん達はこれを一般人相手に、アスファルトで繰り出すわけだ。死ぬだろ。

 俺の頭を撫でる榊さんは、それを察したのか、軽く肩を叩いてきた。

「大丈夫、大丈夫。異世界送りをマスターすれば、大丈夫だから」

「あの、その異世界送りのやり方が分からないと、死んじゃいますよね?」

「んー。まぁ、そうねぇ。異世界送りだって失敗すれば死んじゃうだろうしね」

 怖い。怖すぎる。

「だからまぁ、練習するんだけどね。プロレスと同じよ。その辺は」

 またプロレスかよ、もう流しはしないぞ。

「何がどう同じだっていうんですか!? 下手すりゃ死ぬんですよね!?」

 思っていたより焦燥感があったのか、叫んでしまった。しかし黙ってはいられない。ミスれば殺す、死ぬの世界とショービジネスのプロレスが同じとは、思えない。

 榊さんは苦笑いをしていた。

「まぁ、たしかに技術的には真逆なんだけどね。明らかに怪我しそうで怪我しないようにかけるプロレスと、殺す気でかけないといけない異世界送りは。でもね――」

 榊さんが俺の脇の下に手を入れてきて、引き立たせられた。

「どっちも、ほんのちょっとミスすれば、危険なのは同じ。そういう意味では、私たちの方が、実は楽なのよ。プロレスだと一センチ頭を落とす所を間違えれば半身不随。下手すれば死んじゃうわけ。そこにいくと私たちの場合は、相手が素人な分だけ、思い切っていけば、必ず異世界に送れる。だから、まだ楽」

「……いまいち納得できないすよ」

 バンバンと叩かれる肩。やっぱり痛くないけど音は凄い。これが技術か。

「ま、トラックでハネ損ねた時とか、守り隊とか。あとは同業者相手でしか使わないし、技術だけでも覚えておきましょう。でも、友達に使っちゃだめよ? 死ぬから」

「……うす」

 友達なんかいねぇよ。というか、なんで友達を攻撃するんだよ。

 その後は、黙々と榊さん相手に練習を重ねた。体はすでに動かないと思っていたが、動かし方が違うからか、なんとかこなせた。もちろん、一通り無難にこなせるようになった頃には、体中に痛くないところが無い、という状態になった。

 完全にヘバりきったところでリングから下ろされ、妙に柔らかいマットの上に寝かされた。プロテインドリンクを差し出してきた榊さんに一旦寝ろと言われ、それを飲んで寝るつもりだった。しかし、彼女が俺に施すマッサージとストレッチが、それを許さなかった。

 いかに筋肉質と言えど、女性は女性。密着し、ぐいぐいと体を押し付けられ、とてもじゃないが寝ていられない。くすぐったさと、温かさと、肌と、あの弾力感が身体を襲いつづけてくる。寝たいが、寝られない。主に体の一部部分が。

 ああ、手が柔らかい、腹が柔らかい、胸が、胸がやらかい。撫でられるように、揉み込まれるように抑えつけられ、無防備にされ、割と本格的にヤバい。いっそ目を開こう。

 室内の温度と高い湿度、そして激しい運動によって、頬を上気させ、うっすらと汗を浮かべた美人のお姉ちゃんこと、榊さんが柔らかな微笑みを浮かべていた。

「こらこら、ちゃんと目を瞑って、寝てないとダメだって」

 目を瞑る。再度始まる幸せ地獄。

 必死におっさんのスクワットを想像して耐えようとしていたが、あまりに、あまりにキツイ拷問だ。そして、そして――。

「おい、ヨウちゃん、その子に異世界送りを付与するぞ」

 ありがとう、おっさん。もう一歩遅ければ、のっぴきならないことになっていた。

 目を開き、立ち上がる。マッサージとストレッチのおかげなのか、思った以上に身体は軽い。素晴らしきかな、柔軟体操。

「ちょっとちょっと。若いなぁ。別にやらしいことしてるわけじゃないよ?」

 下を向く。苦笑いの榊さんの視線は、俺の股間に向いている。

 ……すでにのっぴきならないことになっていた。死にたくなった。

 

 ほとんど死んでいたと言ってもいい。いや、ほとんどじゃなく、全死にだ。

 俺は部屋の隅で、俺自身から溢れ出る信じられない程の負の感情と、両膝を抱えていた。ロクに良い思いをしたことがない人生ではあった。しかし、まさかこんなところで、衆人環視の中で指摘されるという辱めを受けるとは、思っていなかった。

 黄昏続ける俺の背中は、声を上げて笑う榊さんに擦られていた。殺意さえ覚える。とはいえ醜態をさらしたのは紛れもなく自分。なにも言い返せない。

 『慣れない内はしょうがない』とか『元気な証拠だからいいじゃない』とか『別に気にしてない』とか。言われれば言われるほど惨めになっていく。また、榊さんは本気でそう思っていそうで、邪気が全く感じられないあたりには絶望感すらおぼえた。

「おいヨウちゃん。その辺にしといてやんな。それと近藤くん。こっちに来てくれ」

 ありがとう、おっさん。二度目だが、あんたのおかげで地獄からは抜けだせた。

 おっさんについていくと、謎の、というか、さっきまでジムにいたのも含めて数人が、レスラーマスクを被って両手を前にして円陣を組んでいた。なんだこれ。

「じゃあ、近藤くん、円陣の中心で跪いて」

「え、あ、はい」

 困惑を抑えきれなかったが、とりあえず円陣の中心まで行き、両膝をつく。

 そのまましばらく待っていると、正面の男二人が間を開ける。そこに立っていたのは、深緑色を地にして目と口の縁取りを白で取ったマスクを被る……?

「榊さん?」

「クレイラ・リーフよ」

「……榊さん?」

「クレイラ・リーフ」

「……クレイラ・リーフさん」

 うんうんと頷く榊……クレイラ・リーフさんは、後ろから何かを取りだした。

 首から上だけのマネキンに銀色のマスクがかけられていた。銀色を地に、目の縁どりも少し色の濃くした銀を配したマスク。口元は唇を残しやはり銀。目の縁どりは上につりあがる涙型のような形。銀のグラデーションのみの、レスラーマスク。

「エル・サント。伝説のマスクよ。レプリカだけど」

 レプリカかよ。模造品をこんな荘厳な雰囲気で差し出したのか。

 そもそも冷静に考えたら半裸のマスクマンに囲まれてるって結構シュールだぞ。

「受け取り、被りなさい。これが異世界マスクよ」

 マジか。これが異世界送りの元か。でもアンタ、昨日スウィングDDTとか決めてるときには、マスク被ってなかったような。……まぁいい、とりあえず受け取ろう。

 マスクをマネキンから外し、被る。クソ、信じられないほど着け心地が良いのが逆に腹立たしい。てか、紐の結び方が良く分からない。このままでいいだろうか。

「目を閉じて、近藤くん。これより儀式を始めます」

 何のだよ。いや異世界送りの技法を授けるとか言ってたから、これか? 

 分からん。目を瞑るしかない。聞いても絶対答えてくれないタイプの奴だ。

「儀式の最中は目を開けないように」

 大丈夫。開けたくないから。

 目を閉じると、周囲のマスクマン並びにマスクウーマンが、低い唸るような声で何事か呟きはじめた。そして、恐らく体をゆすっている。

 何を言っているのかは全く分からないが、やたら下を巻くような発音の言語。多分スペイン語とかだろう。

 こんどは俺の周りで跳ね始めた。床を伝わる震動と低いうなり声が、緊張感を煽ってくる。同時にマスクと体が熱くなる。体表を這いまわる様に高まる熱と、耳から入りつづける低音、ついた膝から背骨へ流れていく震動。俺自身が揺れていて、熱を持っているかのようだ。

 さらに音と振動が激しくなっていく。声が外からではなく、頭の中で反響しはじめている様な気がする。そして、マスクと体の熱が混ざっていく。ふいに、体の下から強い風を感じた。体が浮きそうな上昇気流。俺は吹き飛ばされないように、揺れる体で踏ん張った。

 閉じた瞼の裏が真っ赤に見える程の、強烈な光。足の先から、頭頂部まで、何かが走り抜けていく。声は止んでいた。自然と目が開く。

 アステカ文明風の謎の文様が、身体の回りを旋回するように上へ下へと動いていた。そこに、一気に伸びあがるような感覚が体に加わり、次は落下に似た浮遊感。最後に、両膝が沈みそうな圧力があった。文様は床に吸いこまれていった。

 正面に立っていた榊……クレイラ・リーフさんが口を開く。

「お疲れ様。これであなたもルチャ派の異世界送りの一員よ。まぁ、見習いだけど」

 なんと返事をすればいいのか分からなかった。だがしかし、なぜか、今ならDDTやらシャイニングウィザードやらでも異世界に送れそうな気がする。

「まぁ、あなたが今日習った技、一つもルチャ要素ないけどね。インターンシップの後もウチで働くなら、本格的にトレーニングしてね。その辺は、覚悟しておいて」

 ここまでしておいて、今日の練習、ルチャじゃねぇのかよ。……なんでガッカリしてるんだよ、俺は。

「あ、もうマスク外していいわよ。儀式に必要なだけだし、プロレスラーでもないからね。ただ忘れないで、あなたの顔には、すでに魂のマスクがあるわ」

 意味がわからねぇ。っていうか、マスクを顔に付けてるってそれは……いいのか。なんでか分からんが、いいような気がする。多分、マスクが役割を示すのだろう。

 マスクを外すと、クレイラ・リーフさんはおらず、榊さんがいた。

「さぁ、これでコンくんも私たちの仲間よ。明日は、一緒にバンバン異世界に送りましょう!」

「……うす」

 周りのマスクマン達もいつのまにか、普通のマッチョマン達に入れ替わっており、みんなが同時に拍手をしてくる。ヤバい。感化されそうだ。これは、洗脳の一種だ。

 うぉ。

 榊さんが唐突に抱きついてきた。柔らかい。ああ、いいや、もう。

 感化されてようが、洗脳だろうが、達成感だけは異常に高まっている。これだけで、インターンシップにきた甲斐があった気がする

「じゃ、ご飯たべて、会社戻りますか。」

「え?」

 榊さんに手を引かれ、あの部屋へ。大量の料理と、腕組みした青Tシャツのおっさん。ああ、今日、絶対腹を壊すんだろうな。

 本社に戻る車中、俺はあまりの疲労感と満腹感に耐えられず、眠ってしまっていた。起きたのは本社の駐車場で、榊さんに揺さぶられてからだった。

 外は既に真っ暗で、時計を見るとタイムカードを押したら、即退勤って感じだ。

 重たい足を引きずりロビーに行くと、平野さんとはち合わせた。

 マジマジと俺の目を見てきた平野さんは、腕を組み、眉を寄せた。

「コンくんはルチャ派になったかぁ。まぁ、メンターがヨウちゃんだし、しょうがないか。気を付けなよぉ。ルチャだからって危険な飛び技はしなくていいんからね?」

 心配されているのか、これは。

 困惑している俺をよそに、榊さんが答えた。

「ヨっちゃんの好きな王道のが、怪我が怖いから。コンくんはフィジカルも体格も並よりちょっと低いくらいだから、ルチャのが向いてるわよ」

 頬を膨らませた平野さんが、俺に手を振っていた。

「じゃあね、コンくん。ほんとに気を付けなねー」

「あ、はい。また明日……」

 そんなやり取りをしてたら現れたのは、やはりというか南さん。やはり今日もパンキッシュ。って怖い。

 平野さんの比じゃない位に強烈な視線。

「やっぱり、ルチャに行ったのね。もう私とは相容れない存在だわ」

 なんでだよ。ルチャの何がそんなに嫌いなんだよ、南さん。いやまて、なんで今、ルチャを擁護しようとしたんだ。じゃあMMAを……そういうわけにもいかないか。

 ちゃんと頭を下げておこう。

「まぁ、まだインターンシップですから、これから色々勉強していきます」

「ふぅん……葉子の弟子にしちゃ、殊勝じゃない。ま、がんばんなさい」

 すげぇ、頑張れって言われた。やっぱり南さんはいい人なのかもしれない。……なんかもう榊さんと舌戦繰り広げてるけど。

 さっさと上に行って、タイムカード押して、帰ろう。今日は、本当に疲れた。

 背後から、榊さんの声が響く。

「明日は、もうちょっとまともな私服できてね!」

 

 ……そんなに変だったのか、俺の私服は。


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