Q2.最初に苦労したことは? A.やっぱり、先輩たちとの付き合い方(苦笑)
淹れてもらった紅茶を飲み終わると、パーティション迷路を抜けて榊さんのデスクまで連れてこられた。
彼女のデスクには、ムキムキマッチョなアクションフィギュアがいくつか置かれ、謎のレスラーマスクが飾ってあった。なんでレスラーマスクなんだよ。
「あのー、榊さんって、プロレス、好きなんですか?」
榊さんはバキバキとパーティションをひっぺがして動かし、隣のデスクと自分のデスクとを、つなごうとしていた。
「そうよー。まぁ好きって言っても、下手の横好きだけどね」
そうなんだーって下手の横好きってなんだよ。やってる側ってことかよ。
まさか。……まさかな。
それより、今は、勝手につながれていく、隣のデスクだ。
「あの、いいんですか? 隣のデスク、その――」
「ああ、いいのいいの。大石くん、異世界行かされちゃったから、しばらく戻ってこないしね。それに一週間じゃ、デスクでやることもそんなにないだろうからね」
榊さんの手によって、彼女のデスクと隣――異世界に行っちゃったらしい大石さん――とのデスクの間の壁が、取り除かれた。大石さんのデスクは綺麗なもので、榊さんみたいな趣味のものは一切なかった。
しかし、異世界に行かされちゃったって言葉の意味がわからん。
「異世界に行かされちゃったって、ハネられたってことですか?」
「あー、ちょっと違うかな。まぁ、その辺の話は追々ね」
榊さんは、大石さんのデスクをビシっと指さし、一言。
「さ、そこ座っちゃって」
まぁ、今は言う事を聞いておくべきだろう。
言われるがままにデスクにつく。
自分のデスクの椅子に座った榊さんは、ぐわんと足を組み、ついでに腕も組んだ。そして、足先をプラプラさせて、何か考え始めた。
何をやればいいのか言われていない俺は、どうしたらいいのか分からないまま。
「えっと、とりあえず俺、どうしたらいいんでしょう?」
むむむ、とうなった榊さんは、何か思いついたようにファイルを取り出し、こちらに差し出してきた。
「ちょっとこれ見て。感想をどうぞ」
「はぁ」
言われた通りにファイルを受け取り、開いてみる。
男の写真とプロフィール。紙一枚のうっすいうっすい人生。俺と同じ。
名前は横道徹(二二才)男性。身長一六八センチ、体重五八キロ。
最終学歴は高校中退。中退理由は、登校拒否。なんだか可哀そうだ。しかし、その後に続く補足、『自分のような才能には高校など不必要であると主張』の文言が、一瞬浮かんだ同情を打ち消してくれた。
収入なし、仕事なし。親の援助で自宅で生活。金をせびってネットゲーム生活。よくやるゲームは……パンテオン? どマイナーなゲームなんだろう。知らない。
普段は半引きこもり。一週間に一回、週刊誌を買いに外にでる。あとは自宅住所と電話番号。それに交際履歴? まぁ、当然なしと書いてある。
うーん。ちょっとうらやましい気もする。そうでもないか、独り者だし。
「なんていうか、ダメっぽい感じすね」
腕組みをしている榊さんは、目を瞑ってうんうん頷いた。
「やっぱ最初はそう思うよね」
違うのかよ。ダメな人じゃないのか、この人。
こっちの困惑を無視するように、榊さんはもう一つ別のファイルを取り出し、差し出してきた。受け取って中を開くと、美人のお姉さんと……なんだっけ、イタリアの方の建築物の写真。
「なんすか? この建物」
「パンテオン」
ああ、この宮殿のような神殿のような建築物はパンテオンって言うのか。
……って、まさか。
「あの、このファイルって……」
「そう、異世界側のファイル。細かい概要、書いてあるでしょ? まぁ、別に実行部には関係のない書類なんだけど、一応ね。明日その男がコンビニに出るから、そこで私たちがドカンとやって、パンテオンって異世界に送るってわけね」
マジかぁ。明日トラックでドカンとやるのかぁ。
「あの、俺は、その、今日は何をすればいいんでしょうか……」
榊さんはまたうんうん頷き、立ち上がる。
「じゃあ、明日に備えて、ちょっと練習、しておこうか」
練習って、トラックでドカンとやる練習をするってことか。まぁ、他にやることないっていうなら仕方ないけど、まだ現実感がないぞ。
榊さんはすでに横で「立って立って」のジェスチャーしてる。腰をかがめて、両手で「こっち来い」みたいな、なんでそんな大げさなジェスチャーしてんだ。
あんまり心象悪くしたくないし、疑問は口に出さずに、行くしかないだろう。
よっこらせっと立ち上がり、榊さんの後ろについていく。
するするとパーティション迷路を抜けて、エレーベーター。明日からこのパーティション迷路、迷わずに抜けられるだろうか。
一階に降りた俺たちは、受付嬢ちゃんの横を素通り駐車場へ。
正面からは分からなかったが、ビルの駐車場は無駄に広くなっていた。そこには大量の軽トラが並んでいる。しかし、よく見るとナンバーが全部黄色くない。なるほど、軽じゃねぇのか。
ダークグレーのジャケットのポケットに手を突っ込み、ゴソゴソしてい榊さん。鍵を取り出し、一台に近づく。
扉を開けて振り返り、一言。
「これが『異世界送り六号』私たちの、お仕事道具ってとこね」
これかぁ、ってこれでどうすんだろ。
「ま、とりあえず乗って、まず、練習場に連れてくから」
言われるがままに助手席に乗る。なんか『異世界送り六号』そこら中ベコベコに凹んでるんだけど。
これって要するに、歴戦の異世界送りの結果ってことなんだろうか。
無駄な疑問を浮かべている隙をつくように、運転席に座る榊さんがサクっとキーを差し、捻った。
――キュキュキュ、グウォオオン。オオン
……これ、軽じゃないとは思っていたたけど、どう考えてもヤバい系排気量だ。低回転系。なんでこんな大パワーがないといけないんだよ。
「あの、これ、すごいエンジンっすね……」
他の言葉が見つからない俺に、榊さんは妙に可憐なにっこり笑顔を向けてきた。
「異世界に送るのに重要なのは、低速トルクの太さなのよ」
低速トルクの太さって。つまりあれか、見つけた瞬間に急加速して、一気にハネ飛ばす必要がありますよ、ってことなのか。
ぐぐっとアクセルが踏みこまれるアクセル。車はスムーズに走りだし、駐車場を後にする。『この後どうなるんだろう』という俺の疑問を駐車場に残して。
田舎道をすいすいと、やたら低い音を立てながら走る、我らが『異世界送り六号』。どこに向かっているのかはさておいて、こっちはあまりに手持無沙汰。
赤信号にひっかかり止まったところで、榊さんがこちらを向いた。
「ちょっと音楽かけていい? そんな遠くないし、すぐ着いちゃうんだけどさ」
音楽ねぇ……沈黙が続いて気まずいよりは、趣味に合わなくても音楽があった方が一〇〇倍マシか。素直に従っておこう。
「あ、いいっすよ。もう、バンバンかけてもらって――」
俺が言いきってしまうより早く、榊さんはなにやらガチャガチャやってた。
……ああ、これ、ラジオとか、オーディオとは言っても、カセット式なのか。カセットテープなんて、教授の研究室以外で見たの、初めてだよ。
軽トラのスピーカーがガリガリ音を鳴らして、軽快な音楽を流し始めた。
――チャッチャー、チャチャッチャッチャ、パラリロパラリロ……
なんだっけ、これ。子供の頃なんかで聞いたことあるぞ。あー思い出せねぇ。
――ブローン、ロアァァァン……
ス○イハイだこれ! あの昔の、有名だったらしいマスクを被ったプロレスラーの入場曲! この人、車の運転するとき、ス○イハイ聞くのかよ!
困惑する俺の顔ををちらりと見た榊さんは、なんか鼻歌まで歌って上機嫌。
「いいでしょ、この曲。あんまり若い人は知らないだろうけどねぇ。ミル・○スカラスっていうレスラーが入場曲に使っててねぇ……」
若い人って、多分そんなに年齢変わらないでしょうよ。見た目からして。
その後、上機嫌な榊さんは、伝説のマスクレスラーについて語った。それが終わると、今度はフライングクロスチョップの凄さについてが始まった。それらの語りは山中の採石場に着くまで続いた。俺は、すでにちょっとだけ辞めたくなってきていた。
採石場の一角に、掘立小屋みたいなプレハブと、私有地と書かれた看板。なんでここに来たんだっけか。ぷらんちゃーのためだっけか。
「――カンパーナなんかはバカにする人もいるけど――」
今はルチャにおける関節技の重要さについて語っている榊さんに、聞いてみる。
「あの、すんません」
「……なに?」
やべぇ、超不機嫌になった。
なんで仕事の話しようとしたのに、睨まれなきゃいけないんだよ。大体、ジャベだかサブミッションとか語られても困るんだよ。俺そんなにプロレス好きじゃないよ。
でもまぁ、誰だってノッてる時に止められたらムっとするか。仕方ないわな。
「すいません。その、なんで採石場に入ってきてるのかなって思いまして……」
「練習だってば。車降りて」
こちらに顔を向けたまま、ハンドルを指先でトントン叩く榊さん。
やべぇ、轢かれる。
流石にそんなことはなく、榊さんと共に掘立プレハブに入っていく。
掘立小屋には色々なサイズのベコベコにされた跡が残るダミー人形が、打ち捨てられたかのごとく乱雑に置いてあった。
「コレ、なんすか?」
「『異世界送られ君』……まぁ、いわゆるダミー人形というか、練習用の道具よね。明日やるのは身長一六八の体重五八キロだから、それでいいわ。足持って」
言われるままに中肉中背の『異世界送られ君』の足を持つ。ダミー人形にしては妙にやわらかい感触があった。まぁ練習で車壊したら元も子もないし、そういうものなのかもしれない。
俺と榊さんの初の共同作業によって、プレハブ小屋から連れだされる『異世界送られ君』。結構な距離を歩かされ、俺はちょっとイラっとした。
「ここらへんでいいわよ」
指示に従い、立てる。おお、すげぇ自立するよ、こいつ。
こいつ、うごく……は、ないよな、流石に。って榊さんいねぇ。
キョロキョロ辺りを見回すと、いつの間にか人形から少し離れた所に移動していた榊さんが、俺を手招きしていた。
「んじゃ、コンくんはここで立って、ちょっと見ててね」
言われるがままに立って待つ。
榊さんは、なんかトテトテ車の方に走っていった。走る後ろ姿はちょっと可愛い。……でも、足はえぇし、尻の筋肉が発達してるんだよなぁ……
榊さんがこっちに振り返り、手を振りながら叫ぶ。
「行くよー!」
手を振り返して、分かりましたの合図。
榊さんは車に乗りこみ、エンジンスタート。車が走り出してくる――
ってやべぇ、ものっそい勢いでこっちに向かって走ってくる。怖い、怖い、怖い。
――グワッシャ
目の先で吹き飛ぶ『異世界送られ君』。一〇メーター近く吹っ飛んでいく。
……というか、空中で縦に一回転は、ヤバいだろ。
清々しさを感じる笑顔を浮かべ、榊さんは車から降りてきた。車の中から漏れている、妙に古い音楽。またなんかプロレスの曲だろう。JBってなんなんだ。
「さぁ、コンくんも一回やってみようか!」
「あ……はい」
二人で吹き飛んだ異世界送られ君を引っ張り、改めて立てる。
今度は榊さんが助手席に乗り込み、俺が運転席。ちょっと緊張
――JBJBJB……
「あの、曲止めていいっすか? ちょっと気が散って」
「まぁ、人によって、好みってあるしね」
「ほんと、ご迷惑おかけします」
榊さんは一瞬だけ眉を寄せた。しかし、特に怒ることもなく、曲を止めてくれた。意外と、ちゃんと話せば分かってくれる人かもしれない。常識人ではないが。
ちょっと車を動かして、『異世界送り六号』の特性を掴んでおこう。
……やたらとアクセルワークが難しい。まぁ低速域でドッカン加速なのだから、当たり前ではある。でも、下が砂利だからか滑る。すごい滑る。ちょっと踏むとタイヤが空転する勢い。
視線を感じて運転席を見ると、榊さんが心配そうな目をこちらに向けていた。
「大丈夫? もしかしてペーパー?」
「や、そういうわけでもないんですけど、この車、すごく運転が難しくて」
そうだ、ちょっとよいしょをしとこう。
「榊さん、よくこんな難しいの、すいすい動かしますね」
ニンマリ榊。この人、プロレスから離れると子供っぽいなぁ。
「まぁ、慣れよね、慣れ。とにかく一度、送ってみましょう」
言ってる事が無茶苦茶だから、前言撤回。
ちょっと距離を取って、アクセルを踏む。タイヤが空転しないように気を使って……って、思ったより速度上がらない内に『異世界送られ君』が――
グジャ
やべぇ。『ハネた』っていうより『轢いた』だ、これ。
「ま、最初はこうよね。分かってても、踏めないもんだし」
言葉とは裏腹に、超冷めた目をしている榊さん。絶対怒ってるよ。
「えっと、俺、異世界送られ君、立ててきますね……」
「まずバック。異世界送られ君、車の下よ?」
だから、怖いよ。初めてなんだから、もっと優しくして。
そこからの訓練は、思ったより時間がかかった。倒しては起こし、轢いては立てて、なかなか上手いこといかない。とにかく車のパワーに対して、路面が滑る。そして何より異世界送られ君の前まで来ると、どうしてもアクセルを抜いてしまう。
倫理観が邪魔。恐怖が邪魔。そして、隣で口にこそだしていないものの、イライラしているのが丸わかりの榊さんの気配が、超邪魔。熱すら感じるわ。コワイ。
それは、練習を開始してから、かれこれ二時間は経過してからだった。
怒りが積もった榊さんがとうとうブチ切れ、バカン、と俺の後ろ頭を軽く叩いた。
痛みは一切感じられなかったが、音は凄かった。
「すんません……」
「あのね、アクセル抜くなって何回言えば分かるの!? 相手は人形! ぶつかっても車は壊れないし、誰かが死ぬってわけじゃないの! いい!?」
あんまりよくないです。すごい怖いよ、これ。
ぶつかった衝撃でフロントガラス突き破ったりしてきそうで、どうにも踏み続けるなんて出来ないって。むしろ、なんで踏めるんだ、アンタ。
腕組みをして、片足でタンタンタンタン地面を叩く榊さん。うなだれる俺。
「……まぁいいわ。もう一回だけやってみて、ダメなら今日はやめときましょ」
「あい……」
再び乗り込み遠くに見える悲哀すら感じられる『異世界送られ君』を睨む。チャンスは後一回。いい加減決めないと、折角のインターンシップが泡となりかねん。
助手席の方を見ると、榊さんがカセットテープをデッキに入れていた。何度か再生と早送りを繰り返して、止める。何やってんだろう、今度は。
「それじゃ、曲かけるから、曲に合わせて踏んでみて」
なんだよそれ。どういうことだよ。でもまぁ、散々迷惑かけてるし、従おう。
「あい」
走り始める車。榊さんの手によって押されるデッキの再生ボタン。
流れはじめるス○イハイ。
車はどんどん加速して、『異世界送られ君』に接近する。あ、これ、サビ部分を出そうとしていたのか。
――カイハァァァ
アクセルペダルを、音に合わせて踏み切る――
グワッシャ
吹っ飛ぶ『異世界送られ君』。
宙を舞い、空中で伸身の月面宙返りを見せ、地面を滑った。
「やった! 完璧よ、完璧!」
ウグイス嬢ならぬ、『完璧とコールする嬢』と化した榊さんの弾む声。
マジか。パーフェクツだったのか、今ので。なんか俺、すごい罪悪感と言うか、やっちまった感が体を支配してるんですけど。どう考えてもこれ、できるようになっちゃいけない奴なんだけど。
「……そっすか」
やべぇ。返事にも気合い入れられねぇ。なんかすごく凹む。
っていうかこの練習方法って、軍隊とかでやる殺人の抵抗感を減らす訓練とかいうのと同じだ。なぜ射撃練習場では人形の的を使うのか、とか、そういうヤツ。
……まぁいいわ余計なことは考えない。とりあえず榊さん喜んでるし、流されておこう。
その後は、二人でダミー君を倉庫に戻し、榊さんの運転で会社へ戻ることに。しかし、帰路の途中で腹が鳴ってしまった。古いプロレス入場曲テープをやたらと色々流して上機嫌の彼女は、小さな蕎麦屋に入ってくれた。ちょっと遅すぎる昼飯だ。
その古ぼけた田舎の蕎麦屋は、なんというか、昭和だった。ビニールカバーをかけたサイン色紙が超ベタベタになってて、なんか手形とか一杯あった。
店に入るなり榊さんが、おばちゃんに向かって慣れた発声。
「モリ一つ」
終わった。この時点でモリソバ以外は食えなくなった。店の店頭サンプルで見た山菜蕎麦とか超美味そうだったのに。高速、低価格、安心、安定、モリ、確定です。
「じゃあ、俺も同じので」
「いいのよー。なに頼んでも。今回は奢ってあげるし」
喜ばないし、騙されない。これは罠だ。じゃあぼく、天ぷら蕎麦! なんて言った瞬間に、車の中で言ってたカベルナリアとかいう痛そうなのを食らわせられるんだ、きっと。
だから、ここはいい子ちゃんを突き通す。
「やー、まずは先輩と同じものって感じで、そっからっすよぉ」
露骨に嫌そうな顔をする榊さん。なんでだよ。なんでそんな嫌そうなんだよ。
「なんか狙ってるの? 言っておくけど私、ノータッチ・トペ・スイシーダを出来る人以外とは、付き合ったりとか、ないからね?」
ノータッチ……なに? なんだ、その痛そうなの。採石場に行く途中で語ってた技の中にもあった様な気がする。しないし、まずどんなのか分からないよ。
「ははは……」
笑っとけ笑っとけ、と思いはしても、口から出るのは愛想笑いより酷い、乾いた笑いだけだった。
――ドグァン
目の前に雑に置かれるモリソバ。なんでそんな雑に置くんだよ。
目を向けると、顔が完全にしかめっ面になってる婆。
怒っているのか小刻みに体が震える婆は、榊さんにジロリと目を向けた。
「ヨウちゃん。この店ではシュートとストロング以外の話は禁止のはずだよ」
意味分からねぇ。しかも、知り合いかよ。
榊さんは真剣な目を婆に向けた。
「ルチャにだって、シューターは一杯いる」
もっと意味分からねぇ。
俺の知ってるシューターってシューティングゲームが好きな、気の良い兄ちゃんだけだよ。絶対榊さんの言ってる意味とは違うだろうけどさ。
もういいや。折角冷水で締められた蕎麦が、温くなっちまう。緩い盛り蕎麦は嫌いなんだよ、俺は。にらみ合いを続ける婆と榊さんを放って、蕎麦を啜った。
心を無にして、周囲の状況を完全にシャットアウトしたまま食事を終える。
トイレに行って帰ってくると、婆と榊さんは謎の意気投合をしたようだった。
なんでも、俺の分のモリ蕎麦は奢りになったそうだ。二人とも同じもの頼んでるんだから俺のも榊さんのもないだろうに、俺の分のモリは奢りと強調された。
数時間ぶりに受付に帰ってくると、受付嬢ちゃんは爪のお手入れ。仕事しろよ。
榊さんが露骨に舌打ちしてみせ、受付嬢ちゃんは榊さんを一瞥。鼻で笑いやがった。お前、あとで榊さんにスコ、スコ……多分サソリなんちゃらを食らってしまえ。
振り返った榊さんが、こっちに手招き。
「あの子が爪とぎ嬢の南さん。仕事は爪を研ぐ事」
さすがにエグすぎだろ。いきなりの先制パンチとか。わざわざ聞こえるように言わなくたっていいじゃないか。というか、巻きこまないでくださいよ。
爪とぎ嬢の南さんは今度は俺を一瞥。なにも言わずにまた爪のお手入れ。こいつもこいつでタフだな。なんだこの会社。美人は頭おかしいのか。
「じゃあこっち。次は営業部をちょっと冷やかしましょう」
冷やかすのかよ。邪魔しちゃダメじゃないかな。さすがにさ。
それでも文句を言わずについていき、エレベータに乗って二階に降りる。広がる世界は、まるでコールセンターのよう。ぱわわと風が吹いている。……何がぱわわだ。
そろそろと音を立てないように腰をかがめて移動する榊さん。真似して進む。
奥の方で、私可愛いですよオーラを放つ、大きく丸い目をした女性が、こちらに手を振っていた。手を振る方までコソコソ歩いていくと、主に栄養が胸にいっていそうなお姉さんがいた。
榊さんのデスクにあったのとよく似た、謎のフィギュアがあった。この人もか。
胸がすごいことになってるお姉さんは、榊さんに小声で話しかけた。
「ヨウちゃん。どうしたの? その子は中途採用の子?」
あ、なんか普通だ。受け付けの南さんみたいに甲高い声してないし、反応も普通。
榊さんはといえば、俺と巨乳さんそれぞれに手の平を差し出していた。
「近藤くん、こっち、営業の平野さん。ヨッちゃん、こちら、近藤くん。インターンシップらしくて、私が教育係ってことでね?」
こちらに目を向けた平野さんは、ちょっとふっくらした頬をほわっと綻ばせた。
「営業の平野です。よろしくね」
深々と下げた頭が上がるのを待ち、話を聞いたときから続く疑問をぶつける。
「あの、営業って異世界に……で、す、よ、ね?」
「そうだよー?」
まぁ、そうだよね、営業だしね。でも俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて、どういう風に営業をかけてるのか、というシステムの方だ。
「というか、その、営業ってどうやってやるんで、すか……ね?」
平野さんは口元に人差し指を当てて、小首を傾げて考えはじめた。この人、あざとい系かもしれない。天然でやってても狙ってやってるのかは分からんが。
失礼なことを考えていたら、向き直った平野さんがサラっと言った。
「電話だよ?」
電話営業なのかよ。異世界に電話線繋がってるのか、それとも電波ってことか。
「あの、電話って、どこにかけてるんですか?」
当然の疑問に、平野さんは眉を寄せて、頬をちょっと膨らませてむむむっと唸る。これは養殖系の天然キャラだわ。作ってるの確定だわ。
平野さんは、わざとらしく両手を、豊かな胸の前でポンと叩いた。
「たとえば、ほら、魔王に襲われて、困っているお姫様とか神官? とか」
「……お姫様に電話、すか?」
どういうことだよ。俺の思考は一杯一杯になったよ、たった今な。
お姫様に電話って、電話がある異世界ってどんなだよ。あ、SF世界ならあるかな。あとは、MMO的なのだとチャットとかそういうことか? つまり、あれか。
営業ってのは名ばかりで、実際のところは異世界GM、とかそういことか?
体の周りにぽややっとディテールの雑なお花を散らしたような雰囲気の平野さん。
「近藤くんも見たことあるよ。よくあるでしょ? 『勇者様、たすけてくださーい』とか、あとはほら『力が欲しいか……』とか、『この召喚が成功すれば……』とか」
「つまり平野さんが電話で、『力が欲しいか……』とか言ってるってことですか?」
彼女は口元に手をあてて笑顔を隠し、ぱたぱたっと空いた手を振った。
「いやだなぁ。私は異世界送りの営業だから『力』の営業はしてないよぉ」
どういうことだよ。いやマジでどういうことだよ。
力の営業って、異世界に『力』の電話セールスかけてる人もいるのかよ。もしもーし、火を使う魔法の力、御入用ではないですかぁ。ってアホなのかよ。
……いやでも、異世界生活で苦労している人なら買うか。
まてよ、ってことは……
「あの、平野さん。異世界の側からこういう人送ってください的な要望、あるんですか?」
彼女は、ぱわわっとピンクと黄色の二色で構成された、幼稚園児の描いた花のようなエフェクトを体の周りに纏わせたかのように手を叩く。
「もちろんあるよ!」両手をぎゅっとして、豊満な胸を揺らす。「一番多いのは、強くて世界を救える勇者さま! って奴だよ!」
まぁ、基本的に困ってるし、世界を救ってほしいから呼ぶんだろうしね。でも、世界を救えるような、そんな将来有望な人材は送ってないっぽいじゃん、ここ。
「その希望って、どうやって叶えるんですか?」
「似たようなゲームやってて、こっちの世界ではいらない人を送るね?」
そう言って彼女は榊さんの方に顔を向け、二人で小首を傾げて笑顔を浮かべた。
「「ねーー」」
二人は声を合わせて、ねーって言った。それ冗談なのか、本気なのか。
「こっちの世界にいらない人って……」
平野さんとのキャッキャウフフなダメ女子大生的空気を崩した榊さんが、答えた。
「だから言ったじゃない。基本的にクズでダメで要らない人間を送るんだって。まぁ、こっちで要らない人だってさ、向こうじゃ必要な人なわけでしょ?」
まぁ、現代の知識があるだけで通用しちゃうような世界もあるだろうし、そういうものか。でも、最近の流行りって異世界で普通の仕事やるとか、そういうのになりつつあるじゃん。今さらニートな人間送ったって、向こうで役立つとは思えない。
ニコニコ健やかバストな平野さんはかく語る。
「いい? 近藤くん。基本的にニートでダメな人達は危機感が足りないから、ニートでダメなことが多いの。つまり、異世界っていう一見危険な、ちょ~安全な世界に行くと、結構な頻度で更生して戻ってくるの。帰って来て、ちゃんと現実に適応すると、もう普通の人になってることがほとんどなの。逆に帰ってこなかったとしても社会的損失は、ほぼないの。それに仮にあっても、たった一人の損失なんて知れてるでしょ? それに対して異世界で困ってる人達の人数は、数千万人を軽く超えちゃったりもするわけ。SF世界だったりしたら、下手すると数百億人。それをたった一人の損失で補えちゃう私たちの仕事って、すごい素敵じゃない?」
長いながーい説得を俺に施した平野さんは、デスクの上から半裸のマッチョがプリントされたマグカップを取り、一口すすった。あ、やっぱプロレス好きなんすね。
奇遇にも、俺もプロレス好きになりかけてるんすよーとか言ってみるか? やめとこう。それより先に聞いておかなきゃいけないことが山ほどある。どれにしようか。
悩んでいると、俺の数々の疑問の一つの内の一つは、榊さんが答えてくれた。
「まぁ、市区町村からの依頼ってのも多いけどね」
違ったわ。新しい疑問が浮かんだだけだったわ。市区町村からの依頼ってなんだよ。もういいよ。これ以上聞かない。
これ以上、異世界営業システムの話を聞いていると、頭おかしくなりそうだ。
「えっと、勉強になります!」
そう言って頭を下げとく。これで大学ではみんな許してくれたもんだった。まぁ、残念ながら、社会人生活はそう上手くはいかないもんだ。
榊さんが仁王立ちモードになっちまったよ。
「何が勉強になったの? 営業の仕事って他にも色々あるのよ?」
すんません。理解が追いついていないだけなんですよ。今は、今は許して下さい。
下げた頭にコツンと軽い衝撃。榊さんのハタきの一〇〇分の一くらいだ。
顔を上げるとややうつむき加減で上目づかいの、ふかふかバストな平野さん。
「てきと~な事言ってると、お姉さんデスバレー・ドライバーしちゃうぞ?」
なんだよ、その超怖い名前の技。絶対プロレス技だろ。
死の渓谷落とし、ってもう意味不明の恐怖じゃんか。どんな技なんだよ。そのアクションフィギュアの取ってるポーズ、それがデスバレー・ドライバーなのか。
俺の顔がきっと青ざめていたのだろう。榊さんが、平野さんの額をツンと一押し。
「もう。ヨっちゃんのデスバレーは異世界に送れないから、死んじゃうじゃない」
ダメだわ。ここにいると、疑問ばっかり増えて、回答が得られないわ。
「あの、榊さん、他の部門ってどうなってるんですか?」
「他ぁ? あとは、対象者のリサーチとか、広報部とか。あとはー……商品開発とかかな? まぁ、あそこは、このビルには入ってないけどね」
あー、この感じ、多分、榊さんはその辺の人達とすげぇ仲悪いわ。
険悪になりつつある彼女と俺の間のにらみ合い。いや、こっちは睨んでいないんだけど、榊さんの顔面が近寄ってきて、あ、ちょっと良い匂いする。じゃなくて。
「すたーっぷ!」
平野さんの白くてあんまり薄くない、むしろ厚みのある手の平が手刀を切った。
「もーう。ヨウちゃん。インターンシップの子をいじめたらダメだよ?」
あんた、さっきデスバレー・ドライバーしちゃうぞって言ってたろ。
榊さんがムフンと鼻から息を吐いた。
「じゃあ、近藤くん。一回、実行部戻ろうか。明日の流れも説明しておきたいし」
さっさと歩きだしてしまう榊さん。うへぇと思いながらついていく。
営業部を出るときに何かが動くのが見えて、目を向けた。平野さんがパタパタ手を振ってくれていた。プロレス好きじゃなければなぁ。
結構な加速感を毎回感じるエレーベーターから降りるときに、一応聞いてみた。
「あの、なんで営業部の方に寄ったんですか?」
ガラスの割れるような音が響いたかのような驚愕の表情を浮かべる榊さん。
「コンくんが営業部って何やってるんですか、って、聞いたんでしょう!?」
ああ、そういえば練習に行く前に一瞬だけ聞いた気もする。……そんなことちゃんと覚えててくれるとか、実はこの人、普通にいい先輩なのだろうか。
いや、落ちつけ。多分IPV三段論法だ。
榊さんの叫ぶような声に反応してか、パーティション迷路の中からヌっとデカい男が顔を出した。立つと、身長が俺より頭二つ分はデカい。ここまで人を見上げるのは初めてだ。……レスラーの方なのかな?
うすらデカい男が、低く、渋い声を出した。
「榊さん。その方は?」
やや潰れ気味の声ではあるが、口調は優しい。
とりあえず、挨拶をしておくことする。
「はじめまして! インターンシップでお世話になっております! 近藤です!」
大嫌いなはずの体育会系のノリ。しかしこういう時には便利なノリ。
まぁ、挨拶はデカい声の方がいいはずだよね。気分いいし。
「あ、よろしくお願いします。斎藤です。えぇと、あんまり大きな声出さないでくださいね。明日の準備でピリピリしてる人もいるので……」
いきなり価値観が否定されちゃったよ。
でも、斎藤さんは申し訳なさそうな苦笑いを浮かべている。つまり、こちらに非があるわけではなく、ほんとは元気あった方が良いと思っているのかもしれない。
榊さんは違った。
パカーンと軽くハタかれる俺の後頭部。痛くはないけど精神的に追い詰められるんだよ、それ。やめてよ。後がないから、黙って受け続けてるけどさ。
「この仕事、精神が参ってくる人多いから、ほんとに大きな声、やめてね」
あとそのサラっと超怖いこと言うのもやめてほしい。ただでさえブラックかー、なんて思ってるところにブラックですよ、ってどうかしてるよ、絶対。
「あ、それとコンくん」
今度は何でしょうか。
榊さんはさっきと同じように、掌で俺と斎藤さんのそれぞれを指し示す。
「こちら、斎藤くん。通称マサ。マサくん、こちら近藤くん。明日の仕事はマサくんにバックアップに入ってもらうから、仲良くね。私はデスクにいるから、後で来て」
ささっといなくなる榊さんの後ろ姿を見送って、くるっと振り返ると、苦笑いを浮かべるマサ斎藤。……聞いたことあるわ。名前だけだけど。なんか語呂いいなぁって思ったんだよ。
マサさんは、榊さんがいなくなったのを見計らって小声を出した。
「僕さ、明夫って名前なんだけど、榊さんが……ね?」
「あー……名前ガン無視でつけられたタイプのあだ名ですか……」
「そうなんだよね。そもそも、マサ斎藤さんってレスラーとしては小柄な方だしさ。僕はバックドロップとかしないから、安心していいよ」
まず、バックドロップが、分かんないス……とは言えない。なんか苦労してそう。
だから、俺は斎藤さんの事を斎藤さんと呼び続けることにしよう。きっとその方が斎藤さんも心が落ち着くはずだ。だってアキオって名前に、マサ要素ないし。
「よろしくお願いしますね。斎藤さん」
「! ……よろしくね! 近藤くん!」
すげぇ嬉しそう。やっぱり嫌だったんだ、マサってあだ名。まぁ名前と関係ないし、普通はそうか。
「それで、明日のバックアップって言うのは……」
「ああ、その辺は榊さんから聞いた方がいいと思うよ。やっぱり、指導役以外の人が色々教えちゃうとね。内容の理解の仕方が少し違うと、問題が起きたりするからさ」
すごい常識人じゃないか。
なんで斎藤さん、こんな会社に……そうか。普通の人に会ったのが久しぶりだから驚いているだけで、変なのは榊さんとかの方か。
そういうことなら、俺も斎藤さんにだけでも、まともな返しをしておこう。
「分かりました。明日は、よろしくお願いします」
ペコリと一礼。
「そんな。頭下げることなんてないよ。いつも通りだからね。明日はよろしくね」
斎藤さん、超優しいじゃねぇか。
パーティション迷路を右往左往し、途中怒られたりしつつ目指すは榊さんのデスク。隣のデスクに座ると、早速資料の入ったファイルを渡された。練習前に見せられた横道さん(二二才)のファイルと、もう一人。佐藤さん(二四才)のファイル。
「えっと?」
パソコンでカチカチ何かをやりながら、こちらには目もくれずに説明が始まる。
「横道さんの方は、明日私が実際に異世界に送って見せてあげるからね。で、もう一人の佐藤さんは、コンくん。キミがやるの」
マジか、いきなりのOJTか。まぁでも『異世界送り六号』で突っ込むってなると、OJT以外じゃ今日みたいな練習を繰り返すしかないから、他に学ぶ方法がないのか。
凄い嫌だけど、しょうがない。
「えーっと、これは明日、ですよね?」
「そうよ。今日は、もう特にやることないし、帰ってもらっても、大丈夫よ」
マジか。今日は練習して、ファイルもらって、それで終わりかよ。普通もうちょっとなんか色々あるんじゃないか。
榊さんはくるっとこっちに顔を向け、言葉を加えた。
「それと、明日は動きやすくて、目立たない格好で来てね。それと、捨ててもいいような服を、着替えで持ってくるように。場合によっては、逃げる時に必要だから」
逃げる時ってなんだよ。普通にK察に追われるって事かよ。それって要約すると、明日違法行為をするから、変装してね、ってことかい。
「マジすか?」
「マジに決まってるじゃない。まぁ、通報なんて滅多に無い事だけどね。捨ててもいい服の方は、出来るだけ安いのにしてね。一応、経費で落ちるから」
経費なんだ。服。逃げる時に捨てるまでが、業務なんだ。
「それじゃ、また明日ねー」
そう言った瞬間、彼女のパソコンがぶっつり落ちた。
「榊、直帰でーす」なんて言って、部屋を出ていった。
……まだ仕事あるんじゃねぇか、そこにも連れてってくれよ。いや、いいわ。やっぱり行きたくないわ。なんか怖いし。
パーティション迷路を辿って、牧部長の所に行く。
迷い、色々な人にジロりと見られて嫌な思いを何度もしながら、やっとの思いでたどり着いたそこには、ハンドグリッパーを握りしめるゴリラ。もとい、牧部長。
牧部長がニギニギしてる銀色のハンドグリッパーは、バネがやたらと太かった。
「ん? どうしたんだい、コンくん」
もう俺、この部署内でコンくんで確定してんのかよ。
「あの、榊さんに帰っていいって言われたんですけど……」
ゴンと机に置かれたグリッパー。ラベルに九〇キロと書いて……九〇て。俺の二倍の握力ってことじゃねぇか。化け物か、このおっさん。
「じゃあ、帰っていいんじゃないかな。でも、次からはちゃんと『他に手伝えることありますか?』って聞くようにしてね? まだ慣れないとは思うけどさ」
あ、普通すね。一日の間に色々疑問が浮かびすぎて普通のことを忘れてましたよ。
「はい。気をつけます。明日から、よろしくお願いします」
ペコリ。
こうして、インターンシップ一日目は終わった。