短夜に囁くその言葉
用意された濡れ手巾やら何やらをジルが受け取り『俺がやるからいい』と皆さんを下がらせます。自然、部屋には二人きりです。
私をソファーに座らせて自らも隣に腰を下ろすと、手巾をあてるために眼鏡に手をかけられたので、慌てて目をつぶりました。
ひんやりとした感触を待っていた私でしたが、触れたのは柔らかで温かなもの。
「ジ、ジル、な、なにして……」
「ん? まだ涙が止まってないみたいだったからな」
「く、唇の必要ないですよね! 手巾で、手巾でお願いします!」
ちゅっと涙を吸われたかと思うと、伝った跡をなぞるような舌先の感触に慌ててジルの胸をタップしました。
「も、もう、泣き止みましたから……!」
言葉の合間にも避ける私をからかうように、瞼に頬にと口付けの雨が降ります。目をつぶっているのでどこに来るかわからず、顔をそむけても全く意味がありません。く、くすぐったいー!
「そうか?」
とぼけた声で答えながらも口付けが止み、次いでひんやりと目元を手巾で覆われます。
ほてっているのは目なのか、頬なのか……。冷やされる心地好さにホッと息をつけば、唇に再び重なる柔らかさ。
「ジル、んんっ!」
ちゅっ。ちゅっ。と優しく触れる唇に、冷やしているはずの顔がボッと再燃します。
手巾が落ちないように押さえているのか、私が動かないように押さえているのか。どちらにしろがっしりと顔を固定されてしまった私に逃げ場はなく、軽く繰り返される口付けをされるがままに受け続けます。
ジルとのキスは気持ちいい。
そのことを私はこの一年でしっかりと知ってしまいました。続けて啄まれれば溢れる好きな気持ちに全身が浸かってしまって、拒否する気もおきず身を任せてしまうばかりです。とは言っても、少しずつ触れる間隔が長くなれば、一気に胸は苦しくなるし体だって熱くなってくるというもので……。
「ジ、ジル、すこし、くるしっ、……ジルっ!」
いつの間にか噛みつくような強さになった口付けの合間に、必死で名前を呼びます。軽いキスは確かに慣れた、と思います。でも、これは……!
濡れた吐息が二人の間でもれるたび、息が、心臓が、体が……! ゆだる。ゆで上がる。グズグズに煮崩れてしまうっ!!
なんとか許してもらおうとジルの胸を叩いたり押したりしますが、全く終わりが見えません。
そんな吐息まで飲み込んでしまうような口付けを長々とされた私は、とうとう体からくたっと力が抜けてしまいました。くらくらとして何も考えられず、頭も体も熱が突き抜けたようにふわふわとします。
そんな状態になってもなかなか離してもらえず、やっとやっと満足したジルがふーっと息をついた頃には、私は軟体生物と化していました。距離を置いてもらっても力の入らない体は、ジルの胸に寄りかかるようにぱたりと倒れてしまいます。
「はぁ、駄目だ、幸せすぎる」
しみじみと呟くジルは、ギュッと抱きしめながら私の頭頂部に頬をぐりぐりと擦り付けてきます。力が入らないので頭を揺らされると体も一緒にグラグラします。
「……お前、ぐんにゃりしすぎ。俺たち夫婦になるんだぞ? この程度でそんなになってどうするんだよ。明日は大勢の前でだってするのに、大丈夫か?」
私の濡れた唇をジルの親指がなぞります。息を整えるうちに戻ってきた思考が羞恥も一緒に連れてきて、私は慌ててシャッキリと体を起こしました。
「ひ、人前でするやつは軽いやつですよね!? ふ、不本意ですけどそれはちゃんとできますよ!」
私の返事に明らかにムッとするジルの気配がします。
「俺とキスするの、不本意なんだ?」
間髪いれずに言われた言葉にびっくりします。誰もそんなこと言ってない!
「そういう意味じゃないです!」
「じゃあどういう意味だよ。普通にへこむ。好きなのは俺だけか」
「ち、違うって言ってるじゃないですか! 大勢の前でするのが嫌ってだけで、ジルとキスするのは好……っ!!」
「俺とキスするのは、なに?」
「ジ、ジルと、キス、するのは、その……」
だんだんと尻すぼみになる声に、今度はニヤリと意地悪に笑う気配がしました。
「好きなんだろう? 要するに今みたいなのも二人きりの時ならいいってことだ」
言葉と同時に顎を持ち上げられ、親指でぷにっと唇を潰されます。くつくつとジルが喉を鳴らして笑っています。
く、くやしい。ポンポンと続く会話に乗せられて、ジルの望む方向に話をもっていかれた感じがすごくします。いつもこのパターンですよ、もう! いつだって私ばかり余裕がないのが納得いかない!
私はジルから手巾を奪うと、仕返しとばかりに適当にジルの顔に押し付けて視界を奪います。
そして一瞬だけ唇を寄せてパッと離れました。自分からしておいてなんですが、一瞬にして顔がものすごく熱くなります。
「お前、今……」
そう言ったまま二の句を継がないジル。少しは意趣返しになったでしょうか。
ですがいつまでたっても何も言ってくれないので、したことを後悔しているとグイっと顔を上げさせられました。
「もう一回、もう一回してくれ」
額がコツンとぶつかり、あとわずかで唇が触れる距離でジルに懇願されます。
「ダ、ダメです!」
「なんで?」
「あ、あ、後は、あー、明日! 明日までお預けです!」
こんなことそう何回もできるものではありません! 両手を突っ張って距離をとろうとしましたが、ジルにギュッと抱き込まれてしまいました。そして耳元でふっと笑う息にのせて囁かれます。
「……よし。楽しみにしておこう」
ぞくぞくぞくっと、耳から首筋に痺れが走りました。甘い笑顔に甘いセリフだってそうとうな破壊力なのに、この耳元で囁くやつは本当にやばい。
あれ……、でも、ちょっと待ってください。今の、すごい失言でした! だってこれでは拒否の言葉ではなく、確約の言葉になるではありませんか! 大失敗です!
すぐさま撤回しようとしましたが、耳をジルに優しく食まれたことで体が硬直します。出そうとした言葉もまた、口の中で固まってしまいました。
「忘れるなよ?」
唇を耳に当てたまま、囁かないでー!! と叫べたらどんなに良かったでしょうか。
言葉が出ずモゴモゴとしていると、ふざけた雰囲気を急にしまいこんだジルに、落ち着いた声で名前を呼ばれます。
「なぁ、リナ」
真面目な話がきそうで、私はジルの胸元でわずかに顔を上げました。
「俺はお前が好きだ。一年前より今の方がずっと。それに、これから先ももっと好きになる自信がある」
突然の真摯で熱烈な告白に、私はジルの服の胸元をキュッと握り続きの言葉を待ちます。
「この一年、慣れないことにも懸命に取り組んでくれてありがとう。俺が隣に立ってほしいのはリナだけだから、これからも『やらなくていい』とは言えない。でも辛い時は必ず助けるから」
ここまでの頑張りは、まず、私がジルの隣に笑って立ちたいからしてきたことでした。それはやっぱり自分のためという意味が強いです。
それでもジルからの『ありがとう』の言葉はとても嬉しく、この一年を認められたようで誇らしくなりました。
「明日、夫婦になる前にもう一度伝えたかったんだ」
言葉と同時に手をとられます。
「リナ、愛してる」
そして誓うような口付けを指先にもらいます。私はジルにとられていた手を逆に強く握り返して、急いで口を開きました。
「わ、私! まだまだですけど、夫を支える良き妻になれるようにこれからも頑張ります! 明日からまた新たに、どうぞ、末永くよろしくお願いします!! そ、それで! あの、私も、その……」
「うん?」
嫁になる挨拶の勢いで言ってしまおうとしたのに、やはり詰まってしまいました。優しく促されても一度もたつくと再び言い出すのは難しく、何度もどもってしまいます。
「……あ、あ、あい……」
「うん? なに?」
たぶん察しているジルが、期待を含む声でなおも先を促してきます。
「……と、とっても……その、……ます」
「……」
ごめんなさい。心の中では結構言ってるんですけど、なんでしょう。音にする『愛してる』は敷居が高いんですよ。気持ちが軽いとか、そんなんじゃ絶対にないんですけど、ものすごく言いづらい……。
「リナ『愛してる』が聞きたい」
微妙に沈黙を挟まれたので、きっと不服なんだろうなとは思いましたが、やはり催促がきましたか。
「なぁ、聞きたい。リナ、お願いだ」
片言を話す子供のような口調で、ついでに抱きしめた体を甘えるようにうだうだと揺すられます。えっ、なに、この人。可愛いんですけど、どうしましょう。
「……愛、してます」
ジルの可愛らしい行動になんだか胸がほんわかした私は、緩む口元からぽろりと気持ちをこぼしてしまいました。
「……あぁ。俺もだ」
表情は見えないのに、心底幸せそうな顔をしているとわかるほど、ジルの声から体から喜びが伝わってきます。こんなに思われて、思えて、私はなんて幸せなのでしょうか。
お互いなにも言わずに柔らかく背に手を回します。ジルにすっぽりと包まれると身体中が満ち足りて、言葉なんていらないな、と最近よく思います。ジルもそうであったら……いえ、きっとそうなんでしょう。
部屋に戻ってから気にする余裕のなかった夜の静寂に、二人の心音が溶けていきます。
こうしてリナ・ランドールとして過ごす最後の夜は、静かに更けていきました。
本日もありがとうございました!
次話は式当日、ご令嬢方登場の予定です。




