今日も紅い唇は弧を描く
本編終了後、リナの取り合いをするトリアンナ様とジルのとある一日。
トリアンナ様視点です。
『この紅茶は何だったかしら?』
向かいで香りを楽しんでいるリナに、わたくしは北の公用語で話しかけます。王妃教育初日に同じように質問した時は、随分とひきつった顔をしておりましたけれど、今は慌てることなく落ち着いて口に含む姿に成長を感じます。
『バード地方のものです。ここのところ流行りの特産品を使った香り付けで、杏を使っているのが素敵ですね。お砂糖を入れなくても甘く感じられて、香りも心が踊ります』
正解ね。わたくしが僅かに頷くと、リナは嬉しそうに笑いました。この娘はもともと香りや味には敏感なようで、聞茶に関してはあまり苦労をしませんでした。ですが問題は……。
『バード地方といえば近頃代変わりしたわね? 名前はなんと言ったかしら?』
本人と顔を合わせて会話をする機会があればまた別なのでしょうけど、紙の上で名前だけを見て覚えるというのがリナは苦手のようです。
やはりなかなか答えがでてこないのでしょう。何かを思い出すように視線が上に行ってしまっています。こうした相手に内情を気取られる仕草はよいものとは言えませんから、追々矯正しなければいけませんね。ですけれども、今は我が国の主要人物を暗記することが先決ですから目をつぶりましょうか。
『確か……』
喉まで出かかっているけれど、なかなか答えが出てこない様子がじれったくあります。わたくしは顔には出さずに心の中で精一杯ヒントを送ります。不思議なことに、リナにはこれが効果的なのですもの。
ほら! 最初は『ピ』ですわよ。『ピ』! 鳥はピヨピヨ鳴くのです!
『……ピエール様です! 勤勉実直な方だとうかがっています』
よくできました! 『勤勉実直』などという難しい言葉が出てくるようになったのも、褒めてあげていいでしょう。
『義母上、そろそろ時間です。リナを返していただけますか?』
楽しい時間を過ごしていたというのに……もう来たのね。今日は確かに午後から時間をよこせとは言っていましたから。ですが少し迎えが早すぎませんこと?
「ジル!」
この嬉しそうなリナの顔ったらありません。これからこの娘が立つ場所と性格を考えれば、冷えきった夫婦仲より余程よいのですけど、熱々ぶりにあてられるこちらも大変です。
ジルベルトの甘い笑顔が、リナに名前を呼ばれたことで一瞬にして喉を焼きつくすレベルまで跳ね上がりました。なんとなく面白くありませんわね。ここは一言言っておきましょうか。
『……女性を急かすものではありませんよ。無粋ね。立ったままではなく貴方も座ったらいかが?』
わたくしの言葉に、ジルベルトは激甘な空気を引っ込めて答えます。口元は弧を描いていますけども、目が笑っていませんのよ。その挑戦的な視線、受けてたちましょう。
『その手には乗りません。ただでさえ、どこかの誰かのせいで愛しい人と会う時間が少ないのです。義母上こそ無粋でしょう』
イェリクやヨエルは言い返してくることがそもそも少なく、張り合いがないのですけれど、ジルベルトは違います。ついついテンポのいいやり合いが楽しくて、意地悪にも興が乗ってしまうのです。
『その愛しい人とやらを、どこに出しても恥ずかしくない淑女に仕立ててあげているのではありませんか。たまにはその成果を見ていってはどうです?』
尊大な態度で返して出方を待ちます。
『……では、語学の方を』
あら、つまらない。珍しく嫌味で返してこないなんて拍子抜けしてしまうではありませんか。
そんなわたくしを他所に、ジルベルトはリナの側に歩み寄ると手を差し出しました。
『愛しい人、約束の時間ですよ。貴女を早く抱き締めたくてお迎えに参りました。どうぞお手をお取りください』
『『!!』』
胸やけがおきそう!! 我が義息子ながらあまりのセリフと輝くばかりの笑顔に、わたくしも顔に無表情を張り付けるのが精一杯です。気を抜くと眉毛と口端が痙攣してしまいそうです。
『わ、わた、私は……』
顔を真っ赤にしたリナが、眼鏡の奥の瞳をキョロキョロとせわしなく動かしています。わたくしでも表情が引きつるのを止めることに苦労するのです。リナがこうなってしまうのも無理はありません。
『……随分と芝居がかったセリフですこと。胡散臭いですわね』
助け船を出すと、リナはパッと私の方に向き直って乗ってきます。
『そ、そうですよね! お義母様もそう思われますか!? しかも人前でこんなの……私、耐えられないんです!!』
「おい、リナ!」
耐えられないと評されたジルベルトの表情が素に戻ります。こちらの方が余程人間らしいですわね。固定された笑顔を長い間見てきましたけれど、リナに出会ってから表情が豊かになりました。まぁ、わたくしも他人のことは言えませんが。
『えぇ、貴女の言いたいことは尤もです。ですがどんな時も……例え相手が歯の浮くようなセリフを言ってきて鼻で笑いたくなったとしても、』
「義母上……」
途中でジルベルトが口を挟もうとしますが無視します。
『貴女の場合は微笑みをたやしてはいけません。それが貴女の武器になります』
リナはジルベルトを気にすることなく、わたくしの話に耳をかたむけています。
『迷ったら、困ったら、そんな時こそたっぷりと微笑みなさい』
そう、リナには相手の真意を見極められる優れた力があります。微笑みはその力を発揮する時、丁度よい隠れ蓑になるでしょう。
『はい。お義母様! 微笑みですね! 頑張ります!』
キラキラとした目で私を見るリナの、なんと素直で可愛いこと。言うことを聞かない息子達とは大違い。思わずほんのりと口元が緩んでしまうではありませんか。
「二人して……わざとだろう」
ジルベルトがボソボソと何か言っていますが、わたくしには聞こえません。するとリナが婚約者にするには甘さが足りないキリッとした顔を向けました。
『ジル! 恥ずかしすぎて逃げたくなるのをこらえますので、先程のをもう一度お願いします!!』
どうやら、わたくしがした指導を実践しようとしているようです。
「お前な……」
『ジルベルト、使う言語が間違ってますわよ』
「……」
わたくしの合いの手にキッと一瞬だけ視線をきつくしたジルベルトですが、一つ息を吐くとリナに向き直りました。まばたきの後には再び甘い雰囲気に染まります。本当に大した役者ですこと。
『今すぐ二人きりになりたいのです。抱き締めた体が柔かいこと、艶ややかな黒髪からは甘い香がすること、知ってしまった今は少しでも長くそして早く側で感じたい。星を閉じ込めたような黒曜石の瞳に私を映して、その可愛らしい唇で愛を囁いてくださいませんか? さぁ、私の愛しい人、お手をどうぞ』
な、なんて恥ずかしい子なのかしら! お手並み拝見と高みの見物をしようと思っていたわたくしに、これ程のダメージを与えてくるなんて。
先程よりもさらに威力を増したジルベルトの口説き文句にあてられたのか、リナなどは顔を覆ってテーブルに突っ伏してしまいました。湯気でも吹き出すのではないかと思うほど、耳まで真っ赤になっています。
ジルベルトはニヤリと笑うとそんなリナの膝裏と背中に手を回して、椅子から掬い上げるように横向きに抱えあげました。羞恥で動けない婚約者に好き放題ですわね。人前でお姫様抱っこだなんて。
『では、そういうことでリナは連れて行きます』
勝ち誇ったジルベルトはそれはそれは綺麗な笑顔でそう言うと、素早い動きで退出します。どうやらこれが狙いだったようね。可愛い義娘が可愛くない義息子に運ばれていく姿を見送り、思わずため息がでてしまいます。
どうやら今日のリナの取り合いは、わたくしの負けのようです。ですがあの娘は本当に素直に頑張っていますもの。その可愛い義娘が嫌がっているわけではありませんから、ここはすんなりと引いてあげるとしましょうか。
えぇ、今日のところは、ですけれどね。




