「…………ヒロイン、ね」
『いやぁ、参りました……もう、聞いてくれまへん?俺、ホンマ頑張ったんですって』
『はいはい。希さぁん、聞かなくてもいいですよー?こいつ、自分がどれだけモテるかって自慢したいだけですからぁ』
『あ、酷っ!過酷な地方ロケから飛んで帰ってきたカレシに向かって、それあんまり冷たいんちゃう?真壁さぁん、何か言うてくださいよ』
「ふふっ、なんだかんだで上手くいってるみたいで良かったわ」
『…………はぁ。もうええわ。勝手に話しますよって』
希がアメリカに戻って忙しい日々を過ごしているところへ、疲れきったような水嶋の電話がかかってきた。どうやら由羅もその場にいるようで、水嶋がなにか言うとそのたびに由羅の鋭いツッコミが入る。
この二人、希が最初に渡米した頃はまだ水嶋のほぼ一方的なアプローチで成り立った関係だったのだが、それが最近になってようやく実を結んでカレ・カノと呼べる関係になったらしい。
由羅は意地を張っているのか恥ずかしいだけなのか素直に認めはしないが、『カレシ』と言われても否定しないところをみると、上手くいっているらしいとわかる。
と、そんなことをつらつら考えながら水嶋の話に耳を傾けていた希は、しかしその話が段々と進むにつれて少し前に和泉が桐生から聞いたという『奇妙な行動を取る少女』の話を思い出していた。
(多分スカウト狙いの行動を起こした子と、カメラを気にしすぎてた子……別人、よね?)
水嶋が準主役で出演する2時間ドラマの地方ロケがあり、水嶋を含む一部キャストとスタッフは北陸のとある町を訪れた。
ロケは現地の人達にも協力してもらい、順調に進んでいった。
町中での撮影は殆ど終わり、残すは実在の高校を使ったインタビューシーンだけとなったその時。
記者役である水嶋がインタビューすべくマイクを向ける女子高生、その横を通り過ぎる生徒役のエキストラも協力をお願いした現地の女子高生達だったのだが、そのうちの一人が明らかにカメラを意識した視線を向けながら通り過ぎ、何度も何度もリテイクを食らってしまったらしい。
そして我慢の限界に達した監督の指示によりその生徒は画面から外され、撮影は無事終了した。
『俺、正直腹立ってましてん。やって、エキストラ契約する前にはきちんと、注意事項説明するんですよ?せやから、ちょっと仕掛けてみたんですわ』
彼は、不満げなその少女に近寄って親しげに声をかけてみたのだという。
気にしなくていいよ、こういうのも現地ロケの醍醐味だからね、と。
話しかけられた少女の態度は、水嶋曰く『笑うのを堪えるのが大変なほど』ころりと変わったらしい。
最初は驚愕、そして僅かな警戒。それが呆然となり、徐々に自信を満ち溢れさせていく。
『ホンマ、おかしかったですわー。その自信、どっからくるん?って聞きたくて聞きたくて。なんですかね、自分が物語のヒロインにでもなったような錯覚してるんちゃいますか?』
「…………ヒロイン、ね」
またか、と希はもう笑う気力も起きない。
「それで、その『自称ヒロイン』さんはどうなったの?」
『まぁ、執着とか勘違いされても困るんで、その後できちんと付け加えときました。そもそも素人さんに演技力なんて求めてへんから安心せぇや、って』
その時少女が浮かべた絶望、と言ってもいい表情にはさすがに罪悪感を覚えたようだが、この少女の人の話を聞かない態度や根拠のない自信などが、水嶋の毒舌スイッチを押してしまったのだから仕方ない。
ああいう手合いは今のうちに痛い目みといた方がええんです、と彼はそう締めくくった。
「で?うちの奥さんは、せっかく海を越えて会いにきた旦那様を放置して、その女の子のことばっか考えてるってわけ?」
言うなり、ぎゅうっと拘束が強まる。
休みを利用して渡米してきた彼は今後ろから彼女をだっこするように腕を回しており、甘えるように肩や後頭部に額を擦り付けたりしながら、時折そろそろと下腹部を愛しげに撫でている。
『子供、できたみたいなの。だから安定期に入るまでは日本に戻らないわ』
日本を発つ前、早くできたらいいのにねと散々じゃれあいながら二人の時間を過ごした、その一ヵ月後。
普段ではありえないほどのめまいを覚え、友人から紹介してもらった女医に診察を受けたところ、妊娠が発覚した。
知らず飛行機に乗って帰ってきたが、幸い今のところ影響はないらしいとわかりホッと安堵する。
そして彼女は、当初から決めていた『妊娠がわかったら落ち着くまでは拠点を絞る』を実行することにして、まずは日本にいる長年の相棒二宮に報告し、それから夫である冴木に連絡をした。
二宮は我がことのように喜んでくれ、すぐに社長と対応を協議するからと約束してくれた。
そしてその協議結果を、スケジュールを調整してすっとんできた冴木が持ってきた、というわけだ。
そろそろ三十歳になるというのに子供のように拗ねてしまった旦那様に、仕方ないわねと妻が折れるのはいつものことだ。
彼女は背後から抱きすくめる彼の手をそっと外し、振り向いて身体ごと抱きついた。
不安な顔を見せたくなかった、という意味合いもある。
「……正直言うとね、桐生君が気にしてた子と水嶋君がやりこめた子が同一人物だなんて、私も思ってないの。だって彼らが言うように『たったそれだけ』の子だもの、アイドルに憧れるとか役者になりたくて必死だとか、そういう子は一杯いるわよね?その中に、【ヒロイン】を目指す……なりきる子だっていると思う。でも……」
「どこか気になる、ってんでしょ。わかってるよ、希の言いそうなことくらい」
どんだけの付き合いだと思ってんの。と彼は小さく笑う。
そしてすぐに笑いをおさめると、「あのね」と声を潜めるように……小さな子供が罪を告白するかのように少しバツがわるそうな声音で、囁きかけた。
「…………今更、とかって言われそうなんだけどさ……」
「なに?」
「その、桐生とセツナが会ったっていう『たったそれだけ』の女子高生?ってのに、僕も会ったことある、かもしれない」
「…………は?」
反射的に顔を上げた希の視線から逃れるように、冴木は無理やり彼女の頭を抱え込んで肩に押し付ける。
ごめんってば、と謝る声は殆ど吐息だ。
出来心だった、と冴木はまずそう告白した。
それだけ聞くとまるで浮気したかのような台詞だが、それだけはないから!僕は希のことしか『女』に見えないから!といつになく必死で否定されたため、彼女も何も言えず頷いて先を促した。
冴木が『彼女』と出会ったのは、和泉がパーソナリティをつとめるラジオ局のエントランスだった。
そのエントランスには窓際にテーブルと椅子が置かれてあり、外からはミラーガラス仕様になっていて中が見えないこともあって、打ち合わせなどで使われることがよくあるのだが、冴木もここをお気に入りにしており、時折和泉と談笑する姿を遠目からスタッフ達が微笑ましそうに、もしくはうっとりと見蕩れながら見守っていたりする。
その日もそこに座っていた時のこと、和泉を待つ間にお茶でもと考えた彼は何気なくその辺のスタッフに「お茶くれる?」と頼んでしまった。
普段ならそんなことは絶対にしないのだが、ここに来る直前まで愛しの奥様といちゃいちゃしていた幸せオーラが溢れていたため、いつにない『サービス精神』が働いたのだろう、と当人は振り返ってそう語る。
「で、お茶を運んできたのが『バイト』だって名乗るジョシコーセーだったんだよね。なんでか、僕の好きな銘柄の紅茶淹れてきてさ。おかしいよね、僕テレビなんかじゃコーヒー好きで通ってるのに」
コーヒー好きと名高い冴木智之は、実はプライベートでは無類の紅茶党である。
どうしてそれを明らかにしないのかは不明だが、彼は彼なりに『表」と『裏』を使い分けているのかもしれない。
とにかく、徹底的に公にすることを避けている『紅茶好き』をその彼女は知っていて、しかも好きな銘柄まで把握していたとしか思えないその行動に、冴木は一気に幸せ気分も吹っ飛んで目も前の相手に警戒心を抱いた。
『へぇ、僕がコーヒー好きだってかなり有名だと思ったんだけど……キミ、知らないの?』
『えっ?……あぁ、そうでしたね!冴木さんが紅茶飲むのってプライベートだけなんでしたっけ。すいません、気が利かなくって』
『だから、飲まないって。誰、そんな誤情報流したの。僕は正真正銘、コーヒー党なんだけどなぁ?』
とにかく、これいらないよ。と冷ややかな視線でお盆を持ったままの少女を追い払うような仕草をすると、少女は「そんな、だって、設定が」とぶつぶつ呟きながら、漸く異変に気付いたスタッフに引きずられていった。
「…………【ヒロイン】云々発言に、根拠のない自信、そして僕の裏好みを把握してた妙な知識……それを『設定』とか言ってたこととか合わせると、同じ人物って考えるのが自然なんだよね。って言っても、容姿とか特に特徴あるわけじゃないから答え合わせはできそうにないけど」
「でも、それって……」
「うん。希と同じように、中二病バリバリな夢を見たって考える方が自然かな」
でもね、と冴木は付け加える。
「スカウトされるにせよ、芸能人とお近づきになるにせよ、運とタイミングってあると思うんだ。希もヤマシナも、柚木だってそうだろ?そのジョシコーセーが何をどう勘違いしてるのか知らないけど、そいつはただ単にその運にもタイミングにも恵まれなかった、それだけじゃないのかな」
「そう、なのかしら」
「そうだよ。でもって今後もし、これ以上面倒なこと起こそうとするようなら、法的なお仕置きが必要になるだろうけど。ま、そうならないように願っとくしか僕らには出来ないんじゃない?」
「そうね」
もしその少女が同一人物だったとして、もし希と同じように『ネット小説』を読んだ記憶を持っているのだとしたら。
だとしても。
希にできることは何もない。
彼女は彼女なりに悩んで、考えて、そして決断してきたのだ。薄情だと言われようとも、その勘違い系女子高生に何らかのアドバイスをしてあげたり、手を貸してあげることなどする義理などないし、そのつもりもない。
希は、まだほんの小さな命が息づいているぺたんこのおなかに手を置き、軽く撫でる。
ここにいるのは、希がこれまで時に泣いたり歯を食いしばったりしながら芸能界を生き抜いてきて、その過程で問われた様々な決断の末に結ばれた、大事な命。
愛する人に、愛されている証……と言ってしまうと、途端に陳腐に聞こえてしまうだろうが。
「……ねぇ、智之」
「ん?」
「芸能人同士の夫婦って、お互いがそれぞれ活動してると上手くいかない例が多いみたいだけど。ほら、すれ違いとか賃金格差とか」
「はぁ?なにそれ。それを言ったら僕ら、めちゃめちゃ遠距離だし希の方が稼いでますけど?」
「いえ、あの、だからね。私、この子が生まれて落ち着くまでお仕事セーブしようかなって思ってるの」
子供が生まれたら……否、妊娠中であっても活動的に仕事をこなす芸能人は日本でもアメリカでも多い。
特に最近では妊娠中に記念としてヌードを撮影したり、ママになったらなったで子育て中の様子などを報告したりと、ママタレ・女優などの話題には事欠かない。
が、古臭いと言われても希は家庭を大事にしたかった。
自分が両親の愛情をそれほど実感することなく、幼い頃に家族を亡くしてしまったから余計に。
「それにね、日本とアメリカの遠距離結婚っていうのも、そろそろ解消したいし。安定期に入ったら、日本に戻ろうかなって思って……きゃっ」
「もう希っ!なんでそんなに可愛く僕のこと煽ってくれてんの!」
「ちょ、んっ……んぅ、」
正に食らいつくようにという言葉に相応しく、冴木は希に覆い被さった。
唇を奪い、舌を絡め、唾液すら啜り、ぴちゃくちゅとわざと音を立てて貪り続けた後は、頬を辿って首筋に舌を這わせる。
「や、ダメだってば」
「わかってる、わかってるよ。けどちょっとだけ。いやあの、僕もそれほど持ちそうにないし……えっと、だからね」
キスだけで我慢するから、一緒に寝て?
そんなことを言われて、ダメだと拒絶できるわけがなかった。
あと一話。