「敵は正面入り口にあり!」
「さあ、ここから先は戦場ぞ。いついかなる時も気を抜けぬ、四方八方より敵が攻め来る。姫、それでも我の手を取り共に歩むと申してくれまいか。我の傍を離れぬと誓ってくれまいか」
希が退院する日がやってきた。
冴木や事務所サイドの予想通り、当初希に同情的なニュースを報道していたテレビも、とある週刊誌一誌が独占スクープと称して彼女の複雑な生い立ちからデビュー前の生活、更に今回罪を犯した親戚の男の家族のインタビューまで赤裸々な記事を載せたことで、風向きは徐々にバッシングの方向へと傾きつつあった。
とはいえ小説であったような酷いバッシングはなく、ただ『被害者』であるはずの彼女の家庭環境などに関してあれこれ論ったり、希のアンチをゲストに呼んでおもしろおかしく話題にしたりと、あくまでネタという方向性で視聴者に印象付けようという流れが生まれた、という程度ではあるが。
まだ朝も早い病院の窓口。
本来は営業時間前であるというのに特別に職員が対応してくれたお陰で、目立たないうちに退院できる、はずだった。
だが菜々美が言っていたように情報はどこからか必ず漏れるもので……正面玄関の前には既に、何人ものカメラマンやレポーター達が今か今かと彼女を待ち受けている。
二宮は車を回しに裏口から出ており、希も当初は裏口から出るはずだった。
だが彼女自身が、「マスコミを避ける意味なんてないですよ」と渋る二宮を説得し、そして当然のような顔をして迎えに来ていた冴木と共にあえて正面のエントランスから外に出ることに決めたのだ。
いつもとは違う凛々しい表情で手を差し出す冴木を真っ直ぐに見つめ返し、希は「はい」と頷きその手を取った。
「貴方様に嫁ぐと決めたその時より、わたくしの命は貴方様のもの。わたくしの運命は貴方様と共に。さあ、参りましょう。卑しき敵の待つ、正面入り口へ」
「……その正面入り口ってのがいまいち締まらないんだけど。でもまぁいいや。今の言葉、忘れないでよ?」
以前共演した時代劇のセリフを応用した芝居がかったやりとりを打ち切り、冴木は握った手を名残惜しそうに放すと、代わりに彼女の背に軽くその手を添えた。
「いざ行かん、敵は正面入り口にあり!」
「もうそのノリはいいから。行くなら早く行くわよ」
「へいへい」
じゃれあっている間にも、敵は目の前に迫っていた。
「真壁さん!退院おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「入院中、ニュースなどはご覧になりましたか?」
「いえ。リハビリ以外はほぼ寝たきりでしたから」
「逮捕された被疑者がご自分の親戚だったということをご存知でしたか?」
「いえ……突然のことでしたし、顔をじっと見る余裕もありませんでしたので」
敵陣の只中にたった二人で飛び込んだ希と冴木は、あっという間に取り囲まれた。
我先にとマイクを突き出そうとするレポーターの所為で、希は何度か怪我をした脇腹を押されそうになり、そのたびに身をよじってかわしては他のレポーターに激突する、の繰り返しだ。
「その被疑者ですが、一部週刊誌では真壁さんがデビュー前に被疑者の家族とただならぬ関係を持ったと……」
「ちょっと」
「な、っ!?」
それまで黙って希を庇うことだけを優先していた冴木が、たまりかねたように男性記者の手を掴んで「この人、痴漢です」と上に掲げた。
それまで矢継ぎ早に質問を投げかけていたレポーター達も、一瞬何のことかと口をつぐむ。
そのタイミングを逃さず、冴木は男の手を掲げたまま周囲の『敵』達をぐるりと見回した。
「意図したわけじゃないだろうけど、そんなにぐいぐい押し合いへし合いしてたらボディタッチしちゃいますよね?現にこの人の手、胸に触ってましたし」
「それは、っ!」
「それに貴方達がお仕事熱心なのはわかりますけど、ここにいるのって怪我人ですよ?退院はしたけど抜糸はまだなので、そんなに力いっぱい迫ってこられたらもしかすると傷口開いてスプラッタになるかもしれませんよね?ですからどいてもらえませんか?」
冴木の視線は、声は、どこまでも平坦でどこまでも冷ややかだ。
ここでこれ以上の追求は許さない、そう纏った空気が告げている。
勿論、百戦錬磨のレポーター達がいち芸能人の脅し程度で退散するはずないのだが、冴木も退散させるつもりなどさらさらなかった。
ただ、希が一言告げる時間があれば、それで。
「先ほどもお答えしましたように、入院中はニュースどころか雑誌すら読む時間はありませんでした。ですので、皆さんの質問に現時点でどうお答えしていいかもわかりません。近日中に改めて会見の場を設けさせていただきますので、今日のところはお引取り願います」
「真壁さん、あとひとつとだけ……!」
「どうぞ、お引取りを。ここは病院です、皆さんがここにいては患者さん方のご迷惑となります」
今度は希が、帰れと要求を突きつけた。
そんなことくらいでマスコミは引き下がらない、それがわかった上で冴木と希の二段構えでやんわりと警告を発したのだ。
恐らく、カメラの中には生放送実況中のものもあるだろう、その波に乗せられれば一部の賢明な視聴者は共感してくれるかもしれない、と。
どうにか乗り込めた車内で、冴木は事務所でハラハラしながら待機中のマネージャーに連絡を取り、生放送の局がなかったか確認していた。
「あった?ああやっぱりね。で、反応は?……ふぅん…………なかなかいい反応じゃん。わかった、ありがと。今から希の自宅行ってー、後は計画通りね。あ、二宮さんがそっち行くって言うから、ちゃんとお・も・て・な・し、してあげるんだよ?じゃーねー」
(前から思ってたけど、サエくんのマネージャーさんって胃薬愛用してるんじゃないかしら)
この気まぐれな男のわがままを毎日のように聞かされるのだから、到底並の神経では務まらない。
そう思っていた彼女は、実際に『平凡そのものです』という顔立ちや経歴のやや気が弱そうな男に会って、どういうことだと首を傾げてしまった。
強風がきたらぱたんと倒れてしまいそうなほど細く、とてもじゃないが冴木の気まぐれに十何年も付き合い続けられるわけがない、と。
その疑問をぶつけた時、冴木はおかしそうに含み笑いしながらこう言った。
『ここだけの話、うちのマネージャーってエムっ気あるんだよね』
その時は「ああそうなの」と適当に流したものだが、今となってはもしかするとそうなのかもと肯定の方向に意識が向いてきた。
そうでも考えないと、あのか弱そうな中年男がこの見た目以上に活動的でパワフルな我侭王子に付き合えるはずないのだから。
「希ってば。おーい、起きてるー?」
耳元で呼びかけられて、意識が現実に戻される。
いつの間にか車は自宅マンションの駐車場に停まっており、運転席の二宮も心配そうに後部座席を振り返っていた。
「やっぱり退院を強行するのはちょっと早かったかしら……まだ顔色も悪いし、マスコミが食いついてくるのはわかってたけど、まさかあそこまで酷いなんて」
「ストップ、二宮さん。言っちゃ悪いけど、芸能レポーターなんてあんなもんでしょ。特に男女がらみのネタには、観光客の来ない池の鯉みたいな勢いで食いついてくるもん」
「……ごめんなさい、冴木君。その例え、意味わからないんだけど」
「だーかーらー、観光客が来なかったら池の鯉も死なない程度にしか餌もらえないでしょ?そういうとこに気まぐれに行くと、そりゃもうすげぇ必死な目してパクパク口開けながら寄ってくるわけ。わかる?」
「…………ええと、なんとなく」
わかればよろしい、と冴木は得意げに話を打ち切る。
いつの間にかうちのマネージャーまでペースに巻き込まれて……と遠い目をしながら希は、冴木が以前は二宮に対して敬語だったことを思い出した。
(ああ、なんだそういうこと。マコさんもサエくんの身内認定されたってわけね)
それまでは『友人のマネージャー』という希を挟んだ関係性だったため一歩引いていたが、希に向けられた悪意に揃って対抗しているうちに直接的な好感なのか、友情なのか、そういった感情を抱いたのだろう。
本当に、冴木智之という男の感情の動きはわかりにくい。
「それじゃ希、私はこれから諏訪さんと打ち合わせしなきゃいけないから。冴木君、後はしっかり頼むわよ?」
「ははっ、僕を誰だと思ってんの。一時は助演男優賞候補にも挙がった俳優デスヨ?」
「はいはい、言い方が悪かったわ。よろしくお願いね」
「……タレントとマネージャーって口調まで似るもんなのかな。今の、希にそっくり」
こっちのはむかつくけど、と続くあたり冴木らしいのだが、二宮は気にした様子もなく二人を降ろすとさっさと走り去ってしまった。
ちなみに『諏訪さん』というのがエム疑惑が濃くなった冴木のマネージャーの名前である。
車を降りた途端、冴木の顔つきが変わった。
女性である希が羨ましくも妬ましいと思うほどに整った細眉を心配そうに下げ、気遣うように背を支えながら殊更ゆっくりとした足取りでマンションの正面へと歩いていく。
「サエくん、裏口はこっち……」
「そっちは、あいつがいたところだろ?まだ本調子じゃないんだし、無理はしない方がいいよ。あの病院にいたやつらも張ってる可能性あるし、ね?」
「そう、ね」
いつもは目立たないように裏口から出入りしているのだが、建物の陰になったその隙をあの男に突かれてしまった。なので正直、彼女自身も事件現場となった裏口を通ることには抵抗があったのだが。
(でも正面に行ったら、スクープ狙いの記者がどこかに潜んでるかもしれない)
今回のことで、希の自宅マンションはニュースなどで何度も視聴者の目に晒されてしまった。
マンション名や所在地などは明かされずとも、今はネットというある意味恐ろしい情報伝達手段がある。
マンションの住人や近所の人らが面白がって『それ、ここ→』とでも写真つきで投稿すれば、女優真壁希の自宅があっという間に全国区……否、世界規模で広まってしまうのだ。
そういう事情もあって、恐らくテレビ関係はマンションまで追っては来ていないだろうとわかるのだが、記者というなら話は別だ。いくらでも潜める物陰はある、そのひとつひとつからカメラのレンズが狙っていると考えたら、それだけで身が竦みそうになる。
項垂れる希を庇うようにしながら、冴木は彼女の自室まで寄り添っていく。
このマンションはプライバシーに配慮したつくりになっており、一度建物の中に入ってしまえば外からその動きを見ることはできなくなる。
尤も、高感度の赤外線カメラなどを使われれば、熱源の移動くらいは察知されてしまうだろうが。
それでもどうにか部屋にたどり着くと、それまでのスローな動きが嘘だったかのように希は手早く荷物を纏め始めた。
小物や洋服、鞄や靴などから日用品までは、二宮が事務所の女性何人かと一緒に箱詰めしてくれてある。
化粧品などは入院した際必要だからと病院に届けてもらってあるし、今纏めるのはさすがに他人が手をつけにくい下着類や、持って行くのかどうかわからない書籍や雑誌類だ。
置いていくわけにもいかない下着類は全て纏めて鞄に詰め、山のような雑誌や本類を前に途方にくれている冴木に、あれはいる、これはいらない、とてきぱきと指示を出していく。
「ねぇ希さぁ……いっそのこと、僕んち来る?」
「はぁ?なにいきなり」
「いやだって、都内でいい物件なんて中々見つからないでしょ?二宮さん一人ならなんとかなっても、希はほら時の人なわけだし。どうせ情報漏れるのも時間の問題なんだから、だったら僕んちくればよくない?うち、セキュリティしっかりしてるし警備の人常駐してるから安全だよ?多分」
「多分って」
熱烈に勧誘するわりには最後は適当、というのが実に冴木らしい。
希もそうできれば、と思わないでもなかったが……。
「残念。引越し先はうちの社長の自宅なの。旦那様が長期出張されるらしくてね、社長と娘さんだけじゃ寂しいからってしばらくお呼ばれされることになった、ってわけ。あそこの客間、ここの荷物全部入れてもまだ余りあるくらい広いんですって」
「ああ、あの政治家のオバハンみたいな社長さんね。なら仕方ないかぁ……」
男言葉に張りのある声、ぴしっと着こなすパンツスーツに革靴。
並みの男より男らしい、かっこいいと評判の事務所社長は、生物学上紛れもない女性である。
しかも既婚者で、旦那様は証券会社に勤めるエリートなのだとか。
あてが外れた冴木は、小さく舌打ちをしてから作業を再開させた。
そしておおかたの荷物がまとまったところで、彼はくるりと部屋の主を振り返る。
「終わったよー」
「お疲れ様。ティーパックで悪いけど、紅茶でも飲む?」
「いらない。でも頑張ったご褒美はちょうだい」
「…………」
その瞳が何をねだっているのか、彼女にはすぐにわかってしまった。
「…………時間、ないわよ?」
「大丈夫、最後まではしないから。それはほら、今度改めてじっくりね」
「何言って……、ん……っ」
重なってきた唇は熱く、触れるだけだった病室でのキスとは違い、積極的に舌を潜り込ませてくる。
舐めて、絡めて、吸い上げて、
希の息があがってきた頃にようやく離れたそれは、顎のラインを辿るように首筋に下り、痕をつけないように慎重に舐めたり軽く噛んだりして戯れながら徐々に下におりていく。
骨ばった手が胸の上に乗せられたところで我に返った希が抗議の声を上げようとするが、苛立ったような冴木の囁きに遮られてしまう。
「さっき、記者のおっさんに触られてたでしょ。見てたよ、あいつちょっと揉んでた。そういうの、テレビに映ってりゃいいのに」
(テレビといえば、生放送の反応ってどうだったのかしら……聞いてないわよね?)
だがそれを今聞くのは、どうも無理なようだった。
次話で本編を一度区切ります。