「なんか性質の悪いウイルスみたいなヤツだよね」
『冴木さん、あたし……桐生さんからの告白、断りました。あんな、誰かに操られちゃってるような桐生さん、見てられません……』
泣き出しそうな声で……実際は後から後から流れてくる涙を懸命に拭いながら、菜々美はそう冴木に告げていた。
事情はよく知らない、だが何かを抱え込んでいるような希を守ろうと、冴木や和泉が動いていることは知っている。
だったら、自分が聞いた桐生からの話を伝えておくべきだと、彼女は半ば無理やりマネージャーから聞きだした冴木のアドレスにメールを送り、折り返し面倒くさそうにかかってきた電話でその夜のやりとりをかいつまんで話した。
それに対して、冴木はふっと小さく苦笑しながら
「……あんたさぁ、本当に希のこと好きなんだな。その気持ち、ちょっとだけ認めてやってもいいよ」
とだけ告げると、前と同じようにさっさと通話を打ち切ってしまった。
「ってなことがあったんだけど」
「……サエ、お前なぁ……泣いてる女の子相手にそれはちょっと酷いんじゃないか?もうちょっとこう、慰めてやるとか、礼くらい言ってやるとかさ」
「そんなことして惚れられたらどうすんのさ。相手は傷心中なんだから、ころっといくかもしれないだろ」
「う、うーん……真壁ちゃん、どう思う?」
「そうねぇ、それもアリかもしれないけど」
そもそも、菜々美は当初冴木に憧れを抱いていた。そうして当然のように隣にいる希を羨み、自分もああなりたいと空回りを続け、それを応援し続けてくれた桐生に絆されたのだ。
(私の部分を抜きにしたら、小説のストーリーって大体そんな感じだったのよね)
いきなり主演に抜擢された新人女優である菜々美が憧れたのは、同じ事務所の先輩である冴木智之。
だが彼に辛くあたられ、何度も失敗し続ける彼女を励まし慰め続けた桐生にいつしか心惹かれるようになり、そしてヒロインとヒーローは結ばれる。
後になって遅きに気付いた冴木を置き去りにして。
「ま、彼女もかなりメンタル強くなったみたいだし、後は桐生君の巻き返し次第だと思うわ」
「巻き返しねぇ」
「それなんだけど二人とも。昔から付き合いのある出版社の人に聞いた話だと、ついこの前編集局の廊下でつい数十分前に不採用にしたばかりの記者崩れの男と桐生君らしきイケメンが口論してたんだって」
履歴書を持ってやってきた男は、出版社同士の裏の情報ルートで『要注意人物』としてマークされていた本人だった。
その男は、以前大手出版社の週刊誌部門に勤めている記者のゴーストとして何度か芸能記事を提供しており、つい最近とあるアイドル事務所から抗議を受けるきっかけとなった記事も彼が提供したらしい。
結局その出版社自体に出入り禁止を申し渡されてしまい、こうして今度は表舞台に立つ記者として面接を受けに来たということのようだ。
そんな男とアイドル桐生に繋がりなどあるものか、と最初こそさっさと警備員に連絡すべく内線電話を取り出した彼だったが、次第にヒートアップしていく二人のやり取りを耳に挟んでその手を止めずにはいられなかった。
『甘いなぁ……真っ直ぐなだけじゃ芸能界を渡っていくことなんてできないんだよ、桐生君。現に、あの女は強かに男を味方につけながら生き抜いているじゃないか。そういうの、君が一番嫌いなタイプだと思ったけど?』
『確かに、そういうタイプは嫌いだ。けどホヅミさん、真壁さんって本当にそんな性悪なのかな?あの真っ直ぐで純粋な菜々美ちゃんが心底慕ってる、そんな人が……』
『あーあ、せっかく色々と教えてあげたっていうのに。意外と使えないなぁ、君。生意気なあの女にちょっとはダメージを与えられるかと思って、期待したんだけどなぁ』
嘲笑うような男、ショックに耐えるように眉根を寄せる桐生。
ああそういえばこの日はアイドル誌の取材があるんだった、と彼が思いだした時には既に駆けつけた警備員達によってホヅミという男が拘束され、連れ去られてしまっていた。
「ってなわけで、その男は今後一切記者としての名乗りを上げられないように、各出版社への出禁を言い渡されたって話。けどまぁ、前の出版社でゴーストやってたって前歴もあるわけだし、ツテがあるなら潜り込んでまた悪さをやらかさないとは言い切れないけどな」
「なんか性質の悪いウイルスみたいなヤツだよね」
「ウイルスかぁ……対抗できるワクチンがないってのは痛いな」
和泉はそう言うと、黙り込んでしまった希の顔を覗き込むように首を傾げた。
「そういうわけだから、かなりキツいと思うけど真壁ちゃんも充分気をつけて。雑誌の記事に関しては止められても、ネットとか口コミとかSNSとか止めらんないパターンもあるから」
「……ん、大丈夫。気をつけるわ」
「希の『大丈夫』はあてにならないからなぁ……僕、二宮さんにも連絡しとくよ」
信用ないのね、と寂しげに笑う希を見下ろしながら、立ち上がった冴木は当然でしょと笑い返す。
こんななんでもない優しい時間がずっと続けばいいのに、と和泉は願った。
その数日後、その願いが無残にも砕かれることなど、現時点では誰も知らない。
『サエ、今身動き取れるか?……真壁ちゃんが、例の男に刺された。今、病院にいる』
そんな連絡が、深夜の冴木の携帯に入ったのは和泉と『あの男には気をつけろ』という話を希に聞かせた数日後のこと。
普段通り二宮の車で自宅マンションに帰ってきた希を、待ち伏せしていた男が突然ナイフで襲った。
そしてそれを庇って身を挺した二宮を突き飛ばすようにして、希が自らその凶刃の前に身を晒したのだという。
「希、なんでそんなこと……」
『俺、その話を聞いた時真っ先にさ……真壁ちゃんらしいって思っちゃったんだ。だってそうだろ?家族の温もりをしらない彼女にそれを教えたのは、二宮さんだ。兄であり姉であり親でもあったあの人を、彼女が庇わないはずないよな?』
「……ん。で、直也さんはなんでそういう情報先に知ってるわけ?」
『え、俺?ただ単に、真壁ちゃんの最終着信履歴が俺だったってんで、警察に型どおりの聴取受けただけ。つかその後処理でまだもうちょっと動けそうにないんだ。サエ、行けそうか?』
そこまで聞いて、冴木は部屋を飛び出した。
念のためにと、マネージャーの携帯に外出すること、希が襲われたことでその見舞いに行くことなどをメールで送り、もしもの時のマスコミ対策もよろしくと書き添えておく。
医師や看護士など病院で働く者にも守秘義務というものは適用されている。
みだりに患者やその家族、見舞い客などのことに関しては口外してはならない、それは病院関係者には当たり前の決まりごとであるはずだ。
だがどういうわけだか有名タレントの誰々さんが入院しただの、お付き合いの噂のあった某女優さんが見舞いにきただのと、そういった個人情報がマスコミに駄々漏れになることが往々にしてある。
それは医療関係者の守秘義務に関する認識が甘いのか、それとも他の患者や見舞い客がマスコミやネットにリークしているのか。
今回の場合ももしかしたら、と考えた冴木は事務所を通じて先手を打っておくことにしたというわけだ。
「希は?」
「…………手術、終わって。今、寝てるわ」
「そっか。で、二宮さんはこんなとこで何してんの?付き添ってあげればいいのに」
「……今ちょっと猛反省中だから。それが終わったら行くわ」
希は担当タレントであると同時に、二宮にとっても大事な家族だ。
二宮には遠方に住まう血の繋がった家族がいるが、それとはまた別に希の家族でありたいと思い続けている。
自分が見出し、新人の頃から手を携えて階段をゆっくりと上ってきた相棒……そんな彼女を付けねらう男がよりにもよって希の血縁であるなど、二宮には到底許しがたい事実だった。
だからこそ自然とその凶刃の前に身を晒せたのだが、実際に刺されたのは守ろうと誓ったはずの希だったのだ。
運よくナイフの軌道は心臓を大きく外れ、左の脇腹を刺し貫いただけで済んだけれど。
おびただしい血を流して倒れ伏す希の姿を見た、そのショックから彼は未だ立ち直れていない。
血の気がすっかり引いて、壮絶に情けない顔になっている二宮を見下ろして、冴木は「ねぇ」と話しかけた。
「今日のところは、僕にその役目譲ってくれない?その間に好きなだけ反省しててくれていいからさ」
「……マコさんは?」
「無事。ついでに言うと、血の気引きすぎて点滴中。処置室ってとこにいるらしいから、終わったら来るんじゃない?」
「そう、無事だったの……良かった」
「はぁ?良かったって?」
途端、冴木の声が剣呑なものに変わる。
「狙われたのは君だろ?なんで庇おうとしたマネージャーを更に庇ってんのさ。大体、格闘技のプロに認められるくらいハイスペックなんだったら、犯人蹴飛ばしてでも止めりゃ良かったんだ。何をおとなしく刺されてんだよ」
「それは、その……咄嗟のことだったし、抵抗するより先に庇わなきゃってことだけしかなくって……」
「ふぅん?相手の顔見て、自分が刺されりゃ丸く収まるとか自己犠牲に走ったんだと思ったんだけど」
「それはないわよ、さすがに……だって私、あいつのことだいっきらいだもの」
幼い頃両親を亡くし、揉めに揉めた上ようやく引き取り先が見つかったと言われて向かった家は、酷く歪な匂いがした。
表面上はいい家族を演じてはいるが、ワンマンな父親はしょっちゅう接待と称して甘い香水の匂いを振りまいて帰ってくるし、気位の高そうな母親は『あんな親にはなるな』と息子を躾けているし、生意気な息子は突然やってきた異物である彼女を妙に敵視するし。
そのうち思春期に入って段々と成長してきた希に目を留めた父親、そんな父親に詰め寄らんばかりに毎晩のように喧嘩を仕掛ける母親、何故あの子に勝てないんだとことあるごとに比較され続けすっかり僻んでしまった息子。
そんな家を出たくて、希はわざと遠く離れた街の高校を受験した。
親の遺産の殆どは食い潰されていたが、それでも僅かに残った彼女名義の通帳を持って、保証人不要のボロアパートを借りて。
二宮が声をかけてくれるまで、彼女は一人だった。
彼も、そして時々引きずるようにして連れて行かれた彼の実家の家族達も、皆温かかった。
だからこそ、咄嗟に彼を守ろうと動いてしまったわけだ。
麻酔が覚めたばかりでぼんやりとした視線を天井に向けている希は、ベッド脇の椅子に座る冴木の方に首を向けようとして、ズキンと走った痛みに顔を顰める。
そして仕方なく視線を天井へと戻し、呟くように彼女がこれまで隠し続けてきた『秘密』を言の葉に乗せた。
「私ね……マコさんにスカウトされた時、白昼夢を見たの。こことよく似た、こことは違う世界に生きている自分の夢を」
その世界で生きていた彼女は、とあるネット小説というものに嵌まっていた。
芸能界を舞台にしたその小説は、ある日突然大型ドラマ企画の主役に抜擢された新人女優が、何かと立ち塞がってくるライバル女優をも踏み台にして、ナンバーワン女優の座と愛するヒーローを勝ち取る、そんなストーリーだった。
そしてハッと気付いた彼女は思った。
そのストーリーに出てきたライバル女優の名は【真壁希】でその性悪マネージャーの名が【二宮】
今の自分と、そして目の前にいるスカウトマンとも重なるじゃないか、と。
「昔から、こことは違うところにいる自分の夢をたびたび見ることはあったわ。けど、ネット小説の登場人物と自分が重なるなんて、そんな荒唐無稽なこと誰にも話せないでしょ?だから、ちょっと怖かった」
頑張って、ハイスペックと誰もが言うほどに実力をつけた。今でも努力は惜しまない。
ある程度の自信を持って【ヒロイン】を迎えたというのに、ストーリーは知っているものとはどんどん違っていって。
それは嬉しい誤算だったかもしれない。だが同時に、恐ろしくもあった。
ストーリーがどんどん変わっていく、自分が変えていく。
それは本当にいいことなのか?自分の存在が、原作とは違った意味で【ヒロイン】の障害になってはいないか?
怖かった。誰にも相談できずに、ただ震えるしかできない自分が情けなかった。
外では強い自分を演じるしかできなかったが、部屋に一人でいるとたまらなく怖くなる時がある。
「その小説には、【冴木智之】も【和泉直也】も【桐生彰】もいるわ。三人ともヒロイン……【柚木菜々美】に恋をするの。最終的に選ばれるのはヒーロー【桐生彰】だけどね」
「……この僕が桐生に負けるとか、そもそもあのガキを選ぶとかありえないんですけどー?」
心底嫌そうにそう返して、冴木は椅子から立ち上がった。
一歩前に出るだけでベッドの柵に足がかしゃんと当たり、彼はその柵に掴まってかがみこむようにして希と視線を合わせる。
「正直、そういうハクチュウム?とかいう中二病な話に取り合うつもりはないんだけどさ。……けど希、二次創作って知ってるよね?」
「え?……ええ。原作となる作品の登場人物を使った派生作品のことよね?」
「そういうウィキ先生に載ってそうな模範解答はいいから。……とにかくさ、その小説とやらの二次創作だって考えてみたら?だったら好き放題に動いてもいいわけだし、ストーリーが変わるのも普通なわけでしょ」
それに、と彼はもったいぶって一度言葉を切った。
ゆっくりと、端正なその顔が近づく。
「【冴木智之】と【真壁希】が恋をする、そんなストーリーだってアリだと思わない?」
しっとりと重なった唇は、彼がそれまで飲んでいたイチゴミルクの味がした。