「神よ、感謝します」
雨の中、男は走る。びちゃびちゃと、水を跳ね上げながら。
そして、どうしてこうなった、と心の中で何度も何度も繰り返す。
彼はただ、愛しい人と幸せになりたかっただけなのに。
この世でたった一人、命をかけて守りたいと願った彼女が心無い男に害されそうになっていた、だからただ必死でそれを阻止しようと動いただけなのに。
割って入って、彼女を背に庇って、殴られて、殴り返して。
「そこから先は崖だ。観念しろ、人殺しめ」
目の前には切り立った崖。振り向けば追っ手。もう、逃げ場はない。
ゆっくりと、冷ややかな笑みさえ浮かべながら近づいてくる軍服の男……否、男装した女軍人を、彼は絶望的な眼差しで振り返った。
「俺は……殺してない」
「何を今更」
正確に言えば『殺した覚えがない』のだ。気がついたら、先ほどまで殴り合いをしていた男が死んでいた。
彼女が悲鳴をあげ、ああ死んだのかとぼんやりする頭で考えている間に、駆けつけた憲兵に捕まった。
本当に『殺した』のなら当然罰せられなければならない。
だが頭は、泣きながら謝っていた彼女のことで一杯で。今も泣いていないか、心無い男に迫られていないか。そんなことばかりが気になって。
気がついたら、逃げていた。
見張りについていた憲兵から剣を奪い、追っ手を傷つけ、もしかしたら殺し。
罪を重ねている自覚もなしに、彼女に会いたい一心で逃げ続けた。
追ってきた女軍人は、彼の罪を高らかに歌う。彼がいかに罪深いか、法の下に罰せられるべきか。
それを聞いた彼は絶望に心を黒く染める。
ああやはり、あの時傷つけた憲兵は死んだのか。罪深き自分に庇われた彼女は、実家の力によって遠くへ遣られてしまったのか。
絶望を、悲哀を、切なげに歌いきった彼は、顔を上げる。
「なら俺は、もっと遠くへ行かなきゃいけない。彼女に会えるまで、どこまでも遠くに」
「愚かな。お前の命運はここで尽きる。私がはいそうですかと道を譲ると思うか」
「思わない。…………だが!」
通してもらう、と彼は逃げている間も手放さなかった罪深さの象徴である剣を掲げ、女軍人に斬りかかった。ひらりとかわされつんのめりそうになっても、今度は背中側から向かっていく。
「……心底愚かな……この私に向かってくるとは」
彼女は憲兵達の上に立つだけの実力があった。だが『女』というだけで出世の道を絶たれ、捨て駒のようにこうして追っ手を命じられてしまった。だからここで、彼を逃がすわけにはいかない。
彼女は、剣を抜いた。殺すためではなく、止めるための剣を彼に向ける。
振り下ろした一撃は重く、受け止めた彼は足を滑らせてその場に膝を…………つくどころか、ずでんといい音を立てて前のめりに突っ伏してしまった。
しかもその反動で手にしていた剣は『崖下』に滑り落ち、ざわりと空気が大きく揺れる。
「あれ、ここってこんな演出?」
「シッ、まだ続いてるんだからちょっと黙ってて」
よりにもよってクライマックスの最も盛り上がるシーン。
初日、しかも初回公演の最前列中央で成り行きを見守っていた二人の男は、突然目の前に滑り落ちてきた模造剣にぎょっと目を剥き、こんな演出アリかと舞台に目を戻す。
女軍人は、微笑んでいた。無慈悲な、戦いの女神のように。
「罪人よ、お前にはその格好がお似合いだ。虫けらのように這い蹲り、泥水を啜り、踏み潰される。……だが面白くない。我が部下を死に至らしめた剣を崖下に取り落とすとは。あれは、部下の形見。しばしそこで這い蹲っていろ、形見の剣はご家族にお返しせねばならん」
剣を手に提げたまま、彼女は威風堂々という足取りで舞台端にまで歩み寄ってくると、崖下を覗き込むように客席を見下ろした。どこか遠くの席から、きゃあという黄色い歓声があがる。
「ふむ、運よく中途の木に引っかかっているな。これならば手を伸ばせば取れそうだ」
そう呟いて、彼女は手を伸ばす。真っ直ぐ、最前列中央の『彼』に向かって。
座席前に屈みこんで模造剣を手に取った『彼』は、それを両手で捧げ持つと真っ直ぐに腕を前に伸ばした。相手に差し出すのではなく、あくまでも剣が引っかかっている木の役割を演じるように。
「神よ、感謝します」
彼女は、笑った。『彼』もまた、そんな彼女を見て同じように笑った。
「舞台千秋楽、お疲れ様でした!」
「ありがとうございます!……いやほんと、ミュージカルって大変ですね。今回のことで色々と勉強させてもらいました」
「私も何日目かに観に行ったんですが、そこでちょっと面白い噂を聞いたんですよ」
「なんですか?」
「初日の初演であった演出と、その後の演出が変わったって本当ですか?これ、初演を観に行ったファンの子達がツイッターで発言して以降、爆発的に広まった噂なんですけど」
「…………あー……俺の口からはあんま言いたくないんですけど……」
要はハプニング、ってことなんですよ。と桐生はラジオの向こう側から苦々しげな声で応じる。
クライマックスシーンだけあって演出的にありえないほど雨を降らせていたこと。
その水溜りに足をとられ、バランスを崩すだけのはずだったのに勢いあまって突っ伏したこと。
その反動で、大事な小道具を舞台の下……客席に落としてしまったこと。
相手役の機転でその剣は部下の大事な形見ということになり、崖下からそれを拾い上げるという演出をアドリブで行ったことで、それが幻の名シーンだと話題になってしまったこと。
「俺、主役なんですけど?って感じですね。そんだけ存在感のある女優さんなんで、食われちゃっても仕方ないんですけど。てか俺、あの人に勝てたことないし。稽古でも容赦なく打ち込んでこられるから、腕なんか筋肉痛だわ痣だらけだわ。とどめにあのアドリブでしょ?その後はもう必死でしたよ。転ばないように、靴底に滑り止めつけてもらったりね。あ、ここ笑うとこなんで笑って笑って」
「……ねぇ希、貴方桐生君に何か恨まれるようなことしたの?この言われ方、ありえなくない?」
「…………いえ、心当たりないんですけど。っていうか涼子さんにもそう聞こえましたか……」
「そうね、稽古の時から時々卑屈な目してるなぁって思ってたけどまさかここまでとは思わなかったわ。前はもうちょっと、なんだかワンコみたいな素直で真っ直ぐな目してたわよ」
菜々美や冴木と同じ事務所である二階堂涼子は、あの舞台でヒロインである女性の姉を演じていた。
桐生演じる主人公が犯罪を犯してでも守りたいと誓った女性、だが彼が罪を犯したことでその影響が家に、そして妹に及ぶのを恐れた姉は妹を遠くの親戚へと預けてしまう。
出番はそう多くはないが、愛しい人を探しに来た主人公とのやりとりもあるため、桐生との絡みはそれなりにある役柄だ。
そんな彼女が、桐生の違和感に気付いた。
時折希を見る時の卑屈さを隠さないその視線や、立ち合いで負かされた時に見せる恨みがましい眼差し、何度も何度もリテイクを食らったその立ち合いのシーンで、段々と諦めの色を濃くしていく双眸。
「こういうのって何て言ったかしら?……そうそう、『これアカンやつや』だったわね」
「……その言葉教えたの水嶋君ですね」
関西出身者ではないくせに、誰が聞いても力いっぱい怪しげな関西弁を操る男、水嶋セツナ。
そのおちゃらけた態度とは裏腹に、人当たりが良く世渡りも上手い彼は共演者などからも評判が高い。
かくいう希も『仲良し』とは言わないまでもそこそこ交流は持っている。尤も、心から信頼しているというわけではなかったが。
「…………劣等感、ですかね?」
ぽつり、と呟かれた言葉に涼子は何かに思い当たったように「あぁ……」と零した。
「菜々美ちゃんのことね?桐生君、彼女のことかなり気にしてるみたいだったし。大事にしたい彼女がよりにもよって自分の敵わない相手に構ってもらいたくて必死になってる、なぁんて。確かに男の立場としては情けないわよねぇ」
「涼子さん、涼子さん、それ誰かに聞かれたらまたあることないこと書かれますよ?」
「あら、むしろ光栄だわ。『女優R、アイドルK君を「情けない」と酷評!』とかこんな感じ?」
そう言って、涼子は声を上げておかしそうに笑った。
(週刊誌はともかく、桐生君に関してはまんまその通りっぽいから困るわよね)
テレビでの『真壁さんのこと好きです』発言以降、菜々美はしばらく謹慎させられていたのかメディアへの露出が途絶えた時期があった。
そこへ声をかけたのが、希の所属事務所だ。
芸能界ではよくある『不仲報道の後の仲良しアピール』をやってしまおうという提案に乗り、なんと姉妹役で希と菜々美のCM共演が実現したわけである。
時間にすると三十秒という短い間だが、二人は仲良く言い合いしながら冷蔵庫を開け、全開にした扉の左右からそれぞれ同時に違う味のヨーグルトを取り出し、ぱくりと口に入れる。
そんな息のあった共演の裏側では、実はヨーグルトが苦手だという菜々美が涙目になりながら笑顔を作る練習をしていたり、どちらの味が食べやすいかと真剣に考えながら希が何個も食べ比べしていたり、そんな微笑ましいエピソードもあったりする。
実際がっちり握手で仲良しアピールをしたわけではないが、その日以降なんとなく二人はアドレスを交換し、たまに近況を連絡しあったりする関係で落ち着いている。
猛アピールした菜々美の方は物足りなさそうだが、今は連続ドラマの話を貰ってそちらの役作りに悪戦苦闘中であるらしい。
最初こそ希のスペックの高さにネガティブモードを発動していた彼女も、生来の負けん気の強さと一途さをようやく取り戻しつつあるようだ。
で、そんな彼女が落ち込み中の時からなにかと近くにいることがあった桐生は、真壁希という強敵にやられそうになっている菜々美に庇護欲をそそられたらしく、この子は守ってやらなければとヒーロー意識が芽生えつつある……のはいいことなのだが、その反動で希に敵対心を抱き始めているというのは明らかに不当で、余計なおまけである。
小説内では、ヒロインである菜々美に脅威を感じた希が、ヒーローである桐生を落とそうとして逆に落とされ、そんな彼女を桐生が冷ややかに拒絶するという流れだった。
だがそれは希の媚びた態度や菜々美への非協力的な態度が桐生の逆鱗に触れたからであって、今のようにむやみやたらと敵対心を燃やされた挙句『勝てないから』と卑屈になられるのは全く予想外のことだ。
つまり、どうしてこうなった、と嘆きたいのは希の方なのだ。
「ちょっと冴木さんっ!これどういうことなんですかっ!?」
「あーもう煩いなぁ。耳元でそんなでっかい声出さなくても聞こえてるってば」
「じゃちゃんと答えてください!この記事!なんで客席の冴木さんの顔、ドアップで写ってるんですか!?公演中は客席真っ暗じゃないですか、なのにこんな綺麗に写るなんて」
「ありえない、って?ふん、僕を疑う前に日本のテクノロジーの進化を呪うんだね。今はフラッシュをたかなくても暗がりで綺麗に撮影できるカメラなんて普通にあるんだよ。バーカ」
「……もう、なにやってるのよ二人とも」
呆れたように涼子がつっこんだことで、言い合いしながら部屋に入ってきた男女二人は視線を涼子に……そしてすぐにその隣にいた希に向けた。
「希さんっ!これ、これ見てください!」
「ちょっと、希にそんなの見せる気?前の騒動忘れたわけじゃないでしょ」
「冴木さんだって無関係じゃないんですから、黙っててください!」
状況はよくわからないが、菜々美がキレて大変だというのだけは希にもわかった。
これ、と差し出されたのは以前菜々美が公共の電波を使って告白劇をやらかすきっかけになった、件の写真週刊誌。
嫌な予感を覚えつつ開かれたページを見てみると、桐生がラジオで愚痴っていた例の初演大コケ事件が巻頭カラーで取り扱われていた。
『悲劇!超人気アイドルを襲った芸能界の冷たい洗礼!!』
そんな相変わらずセンスの欠片もない見出しに続き、よりにもよって初演のクライマックスシーンで転んだ桐生を見下ろす希の写真、そしてそんな彼女がアドリブで客席にいた冴木から剣を受け取っている写真が載せられ、しかも見詰め合っているように見える希と冴木の横顔には満足げな笑みが浮かんでいる、という正に『狙いすました一枚』であるのだから堪らない。
これでは、記事の煽り通りに『希と冴木が結託して桐生に恥をかかせた』ようにも見える。
これを見た菜々美はまたも噴火寸前といった様子で激おこぷんぷん丸状態となり、事務所に帰ろうと通りかかった冴木をマネージャーから掻っ攫うように拉致して、ここまでやってきたのだそうだ。
「確かに、あの公演の後で降らせる雨の量は大幅に減らされたし、多少演出も変わったけど……初演でわざと雨を多く降らせたとか、滑りやすい靴に指定したとかってどうなのかしら……サエくんのために最前列中央のチケットを確保したってことだけは事実なんだけど」
「これ、僕も共謀して桐生を貶めたってことになってるよね。つまり僕もこれで【悪役】の仲間入りってわけだ。ねぇどうする、希。もう付き合っちゃおうか?」
にまり、と彼は意地悪く笑った。
何しろ仕掛けた『罠』が見事に発動したのだ、内心嬉しくて堪らない。
そんな彼の内心などもちろん知らない希は、「そうねぇ、どうしようかしら」と適当に答えながらぼんやりと自分と桐生を写した写真を眺めた。
どうしてこうなった、ともう一度心の中で吐き捨てながら。