「ねぇ、キミは一体何を怖がってるの?」
結局その後、三橋本人からも彼の事務所からも連絡はなかった。
すっかり彼の奴隷のように言いなりになっているマネージャーに彼を諌めることは無理だろうが、マネージャーの口から事務所の上層部に報告が行き、お偉方からのお説教があったと考えればなんら不思議なこともない。
ただ、三橋も希も各局引っ張りだこの人気俳優であるから、近いうちにまたどこかで共演の話が出るかもしれないが……その時は事務所に指示を仰ぐわ、と二宮が請け負ってくれたので希はさして心配もしていない。
「希、この後予定されてた通し稽古だけど、予定変更で明日仕切り直しってことになったらしいわ」
「明日ですか?……せっかくのオフだったのに……残念」
「そうね。でも主役が来られないんじゃ通し稽古の意味ないでしょ。残念だけど、半日で我慢してちょうだい」
この日の撮影が終わった後すぐに舞台の通し稽古に参加し、明日一日は久しぶりのお休みという予定だっただけに、希の表情はさすがに不満げだ。
と、それを横で聞いていた共演者の冴木は、「なに、希舞台出るの?」と興味津々という顔で会話に加わってきた。
「この撮影がカツカツに詰まってる中で舞台までやるとか、それ断るための方便じゃなかったんだ?どんな舞台?」
「簡単に言えば、愛する人のために犯罪を犯した男の逃走劇ね。甘い絡みは一切なし、最初から最後までシリアス一直線のアクション系ミュージカル。ま、私は端役だけどね。聞いたことない?」
「ああ……なんか一風変わったミュージカルだなぁって思ったアレかぁ。つかアクション?希、アクションできんの?」
ミュージカルと一口に言っても、歌って踊って楽しめるタイプのものもあれば、バイオレンス風味やサスペンス風のものもある。
希が取り組むのはややバイオレンス風味を組み込んだアクション系ミュージカルというもので、最初から最後まで出演者は休む暇なく走り回ったり声を張り上げたり。
彼女が演じるのは、逃走した主人公を追って捕まえる寸前まで行くものの、騙まし討ちにあって命を落としてしまうという女性軍人だ。
出番はそれほど多くなく、主人公との絡みもクライマックスの決闘シーンしかないのだが、きっちりした軍服と軍用ブーツを着用してのアクションとなるため、難易度も高ければ体力の消耗も激しい。
「冴木くん、この子の持久力を甘くみちゃダメよ?体力勝負のベテランエキストラの方が先にヘバったんだから」
「あはは、やっぱ並のオンナじゃないですよねぇ希って。で、そのスケジュールを狂わせてくれたっていう主人公クンは誰なんですか?」
「冴木君も共演経験あるわよね?ほら、アイドルやってる桐生彰君。なんでもコンサートの打ち合わせがずれ込んだらしくてね、どうしても出られないから翌日にってなったらしいわ」
「…………ああ、そうですか。あの桐生が、希の貴重なオフを潰したわけですか。お前ナニサマって感じですねー」
突然ガクンと冴木のテンションが落ちる。
希もフォロー不可能な話題だっただけに、内心「あーあ、やっちゃった」と思う程度だ。
二宮が言っていたように、冴木と桐生は共演経験がある。
バラエティなどならそれほど接触することもなかっただろうが、彼らが共演したのはゴールデンタイムに放送されたドラマの中だ。
主役の女性に想いを寄せられる鈍感男の役が桐生、その友人が冴木という力一杯絡みまくる役柄だったこともあり、そのドラマの告知などでは二人一緒に番宣に出演するなどの機会もあった。
何がきっかけになったのか、冴木自身もよく覚えていない。
ただ、あの真っ直ぐなワンコのような眼差しが癪に障った。
その感情が『嫌い』から『大嫌い』にレベルアップしたことで、今では彼の名前をどこかで見かけるだけでも機嫌が急降下するほどだ。
「希はアクションできるって二宮さんが太鼓判押してたけど、あいつはできんの?主役っつっても愛想振りまいてりゃいいだけのステージじゃないんだろ?」
「さあ……どうかしら。ジムで鍛えてるみたいな話はちょっと聞いたけど」
「はぁ?鍛えてるって今更?テニスがあのザマだったってのに、アクション系ミュージカルの主役なんて務まるわけ?舞台って一日限り?違うでしょ?初日から千秋楽までどんだけあると思ってんだよ。無理無理」
「……そこまで主役を酷評されちゃうと、観に来てって誘えなくなっちゃうわね。まぁいいけど」
(本当は誘おうと思ってたんだけど……仕方ないわね。由羅ちゃん達だけでも誘おっかな)
『友人』と言っても始終べったりと一緒にいるわけでもなければ、休みを合わせて遊びに行くことも殆どない。
だがそれぞれの出演作品には必ず目を通すし、友人ならではの忌憚のない意見が聞けるということで事前にチケットを用意しておくこともある。
今回の舞台ではメインの役どころではないものの、主人公を追い詰めるというある意味一番美味しい役であるため、主役が桐生だというリスクを考慮に入れた上で冴木も誘うつもりだった。が、こうもへそを曲げられていては、誘うに誘えない。
仕方ないかと諦めかけたその時、「アレが主役だなんてムカつく」とダメ押しの一言を発した冴木は、しかし視線を希に戻してニヤリと笑った。
「ムカつくからさ、舞台観に行ってやるよ。初日の最前列、中央二席キープでよろしく。直也さんも誘っとくから」
「いいけど、前から三列目までは水がかかるわよ?」
「それなんのアトラクション?面倒くさい舞台だなぁ」
「チケットと雨合羽、セットで用意しておいてあげるわよ。それでいい?」
「しょーがないなぁ。そこまで言うなら面倒だけど行ってあげましょ」
はいはい、と苦笑しながら希は楽屋で控えてくれているだろう二宮に電話をかけ始めた。
冴木も和泉に「スケジュール空けといてよ」とメールを打ち、改めて彼女の横顔をじっと見つめた。
ドラマでは、夫婦役を演じている二人。だがこの夫婦というのは上層部を納得させるための仮のもので、本当は二世帯型に分かれたマンションの一室で、別々に寝起きしているのだ。
彼は彼女の父に拾われたことで恩義を返そうと娘である彼女を守ろうとし、彼女はそんな彼に守られっぱなしになるまいと頑なに彼を拒んでいる。
とあるシーンで、焦れた彼は彼女にこう問いかける。
『貴方は一体、何を怖がっているんですか?』
(ねぇ希、キミは一体何を怖がってるの?)
真壁希は、彼がプライベートな部分まで踏み込むことを許した、数少ない友人の一人だ。
彼にとっての優先順位第一番目は親友の和泉だが、異性の中では希がダントツで彼の中を占めている。
好きかと聞かれれば素直に頷くが、それが恋かと問われると彼は曖昧に誤魔化してしまう。
意識してるとか、恋してるとか、彼にとって希はそういったレベルで語れないほど大事な存在であるからだ。
希は『友人』という言葉で片付けてしまうが、冴木はちょっと違う。
その気になればその友人ラインを簡単に踏み越えられる、心を預けても構わない、彼にとっての彼女はそういう重要な位置づけにあった。
だからこそ、彼は焦れる。ドラマの【彼】と同じように。
薄く引かれたライン、そこから先には決して踏み込ませてはくれない希の態度に。
彼女が頑なに守ろうとしている『何か』が何なのかわからないまま、だがそれに桐生や菜々美が関わっているらしいことはなんとなく察して。
だから余計に、苛立って仕方がない。
「あ、そうだ。この前した約束、忘れないでよ。先にNG出した方が夕飯奢りってヤツ」
「はいはい、私が負けたのよね」
「うん、そりゃもう見事なコケっぷりだったよね。コントだったらウケてたよ」
『先にNG出した方が夕飯奢りね』
『いいわよ、忘れないでね』
撮影開始直後にそう約束した二人は、目立ったハプニングもなく順調に撮影を続けていた。
が、今日になって希がとんでもないボケをやらかしてしまった。
よりにもよってシリアス全開なシーン、彼女を問い詰めようと追いかけてくる彼から必死で逃げる場面で彼女は、ヒールを絨毯に引っ掛けて勢い良くその場にダイブしてしまったのだ。
これには同じ画面に映っていた冴木はもとより、画面向こうにフェイドアウトしていた冴木の同僚役の女性ですらも爆笑し、一時その場は何の番組だと問いたくなるほど明るい笑い声が響き渡った。
幸い希に大きな怪我はなかったが、ストッキングは破れヒールも折れついでに頬にかすり傷という状況に彼女は、
『どうせだから怪我のシーン、先にやってしまいませんか?』
と監督に提案したのだから、やはり冴木の言うように『並のオンナじゃない』のだろう。
とにもかくにも撮影自体は怪我の功名でスムーズに進んだものの、約束は約束ということらしい。
希もそれに異論はないらしく、わかったわと素直に頷いた。
「すぐと言いたいとこだけど、この後他局だから……っと、希は明日半日空いてるよね?ならちょうどいいや。直也さんと飲みに行く約束してるからさ、希もおいでよ」
「ちょっと待ってよ、せっかくのオフなのよ?それが半日になったってだけでも辛いのに……」
「飲み会は仕事じゃないでしょ。それにさ、どうせお休みだったって希の場合は寝てるかゲームしてるかどっちかじゃん。他のヤツらも誘っていいからさ、パーッと飲もうぜ」
「その寝てる時間ってのが重要なの。……でもまぁいっか。それじゃ由羅ちゃん誘ってみるわね。サエくんは水嶋君に連絡お願い」
確か数日はお休みだったはずだから、と希は手早く由羅にメールを送る。
冴木も「仕方ないか」と呟きながら水嶋に誘いのメールを送り、和泉には予定変更を知らせておく。
基本、大勢でわいわいやるのが好きな和泉はすぐに『オッケー』と返してきたし、水嶋からも『是非に』とノリ気な返事が届いたことで冴木はふぅっと一息ついて、まだメールに悪戦苦闘中の希から少し距離をおいた。
冴木は、和泉とは違って大人数でわいわいやるよりも数人でこじんまりと、静かに飲む方が好きだ。
気の許せる相手となら冗談交じりに良く喋る彼だが、ふと気がつくとぽつんと一人で離れたところに立っていることがある。
そんな時は、希も和泉でさえも冴木に近寄ろうとはしない。
彼が望んで一人になっていることがわかっているからだ。
ぽつん、と離れた場所に椅子を置き、台本をめくりながら何かを考え込んでいる。
そんな冴木をちらりと横目で確認し、希は不意に小説のワンシーンを思い出していた。
それは、ちょうど希が今演じている役どころにヒロインである柚木菜々美が抜擢された後のこと。
刑事としての凛とした顔、そして仮初の妻としての戸惑う女心、その二面性を演じ分けることができなくて悩んでいた彼女は、スタジオの隅で台本を読み込んでいる冴木に相談しようと近づく。
『相談があるんです』と声をかけた彼女に冷ややかな視線を向けた冴木は、『邪魔』と一言告げると視線を台本に戻してしまった。
ヒロインは傷つく。せっかく少し仲良くなれたかもしれないと思い始めた先輩に、邪魔だとあしらわれて。
泣くまいと唇を噛み締め、それも痕になるからと慌ててやめ、困り果てて項垂れる彼女の前にタイミング良く歌番組の打ち合わせを終えたヒーローが登場する。
真摯に慰めるヒーローと、遅れて失態に気付いて駆けつけた冴木。
だが冴木には割り込むことができず、寄り添う二人にただ静かに背を向けるしかできなかった。
このシーンまで、ヒロインの心は冴木に傾いていたように描写されていた。
人の好き嫌いが激しい先輩の意外な一面を見るたびに憧れ、惹かれていっていたヒロイン。
しかし調子に乗って踏み込みすぎたところで、冷ややかにあしらわれ深く傷ついてしまう。
そこをヒーローに慰められ、ひたむきな想いを向けられ、彼女の想いは一気にヒーロー桐生に傾いていくのだ。
だがこれはヒロインが悪いだろう、と希はそう考える。
(台本を読み込んでる相手に近づいて、いきなり相談持ちかけるんだもの。ナイでしょ、これは)
さらりと読み流しただけでは冴木が悪者に見えがちだが、そのシーンの前半には確かに『真剣に台本を読み込む冴木』という言葉が出てくる。
役者が真剣に台本を読んでいる時、ちょこちょこと近寄って相談事を持ちかけるなど言語道断。
『邪魔』は言い過ぎでも、そこは無視されても仕方のない状況であるはずなのだ。
「真壁サン、いつまでメール打ってんの?終わったらちょっとこっち」
「はいはい」
おいでおいで、と視線を向けないままに手招きされ、思わず苦笑する。
(彼が顔を上げるまで、気付いてくれるまで待ってれば良かったのに。そうしたら)
そうしたら、ヒロインは冴木と結ばれたかもしれない。
冴木はかませ犬にならなかったかもしれない。
そんな『たられば』は、既に完結している小説にとっては無意味なものだった。
そして、既にストーリー自体が変わり始めているこの世界においても。