「甘く見ないでね、これでも喧嘩慣れしてるの」
「やあ、真壁さん。間をおかずにまた共演できるなんて、運命的だと思わない?」
爽やかな笑顔でそう言った若手イケメン俳優の顔をを見て、希は内心『うげっ』と女優らしからぬ声をあげた。
あくまでも内心だけで。
希は人当たりが良く、わりと誰とでもそつなく付き合うという印象を持たれがちだが、彼女自身人に対する好き嫌いがないかというと勿論そうでもない。
ただそれが、冴木のように極端でもわかりやすくもないというだけだ。
彼女が『嫌い』だと感じるのは、思い込みで突っ走り人の話を聞かないタイプだ。
そういうタイプには何を言っても無駄、下手に干渉すると悲劇のヒロイン(もしくはヒーロー)になったつもりでその悲劇に酔ってしまうのだから、本当に始末に終えない。
さて、目の前で爽やかに笑うこの男に話を戻そう。
この男、名を三橋 龍之介という。
人気絶頂、とまでは言い過ぎでも今をときめく人気イケメン俳優、という評価はおおむね正しい。
最近ありがちな『なんとかライダー』のヒーロー経験者で独身、特に目立ったスキャンダルも晒されておらず交際報道もない。
爽やかで人当たりも良く、雑誌の取材やCMの依頼が立て続けに舞い込む。
そして、前クールで希が演じた寝取られ妻の夫役……つまり、若い新入社員と浮気する最低夫を演じたのがこの三橋だ。
「三橋さん、お疲れ様です。前クールのドラマ、意外と評判良かったみたいですね。何かそちらにも反響ありました?」
後半の『運命的』という言葉はあえて聞かなかったことにして、希はさりげなく話題を変える。
彼女の言うとおり、前クールでやったドロドロの不倫ドラマは放送時間の平均から考えると意外と視聴率が取れたらしい。
その背景には、これまで定着していた爽やかイメージを塗り替えるがことく『浮気夫』『DV加害者』を演じた三橋の演技力、そしてこちらもそれまでのイメージとは違う『耐え忍ぶ妻』の役を演じきった希への評価が高かった、という事実が存在するのだと二宮あたりは絶賛していたが……撮影中もこのマイペースさを崩さない三橋に振り回されっぱなしだった希にしてみれば、「絶対に続編は作らないで欲しいですね」と言うのが精一杯だ。
希の急な話題転換にも嫌な顔ひとつせず、三橋は「そうなんだよね、なんか嬉しいよ」と照れくさそうに笑う。
「正直、あれって女性の敵だと思われてもおかしくない役だったでしょ?でもファンから来るメールなんか読んでると、『狂気に魅入られた』とか『演技に引き込まれた』とかいい評価ばっかりでね。ああいう役どころもアリかな、ってマネージャーと言ってたところなんだ」
「……そういえば撮影中も生き生きと演じられてましたもんね。勢いあまって【妻】の背中を本気で蹴倒すくらいには」
「あれ、もしかしてまだ根に持たれちゃってる?いやあ、あの時はほんっとごめんね。【夫】の気持ちになりすぎちゃって」
もしかしたら三橋本人にもDVの素養があるのではないか、と撮影中にそう感じたことが数回ではなかった。
確かに演技に力が入りすぎて、という怪我や事故は希も身に覚えがあるし、相手を責める気もない。
だが彼は、「ごめんごめん、やりすぎちゃった」と爽やかに笑うだけで全てを収めようとした。
そして今も「根に持たれちゃってる?」と悪気なく笑ってそう言えている。
それが厳しい芸能界を渡っていくためにあえて鈍感に振舞っている、というキャラ作りならまだ良かったのだが……どうやら素で鈍感であるらしい彼は、女優であり女性である希にもしかしたら重篤な怪我をさせたかもしれない、という危機感を全く抱いていないらしい。
(そういうとこ、個人としても同じ芸能人としても嫌なのよね)
「……構いませんよ、もう終わったことですし。それにたいした怪我もしませんでしたから」
「そう言ってもらえると助かるよ。やっぱり真壁さんとの共演って楽だなぁ」
「そうですか?演技上はかなり厳しいですよ。今回は刑事役ですし、三橋さんはテロリスト役ですからね」
「おっと、これはお手柔らかに」
「ふふっ、さてどうしましょうか?」
本音を隠して笑いながら、希は心の中だけで今回の『共演』内容について皮肉っていた。
(構いませんよ、全然ね。そのかわり今回は思いっきり踏みつけさせてもらいますけど)
希と冴木は、ドラマ上では初のW主演となる。
これまでどちらかが端役での共演だとか、舞台上での共演などは数多くこなしてきたが、二人そろってメインの役どころを演じるというのは今回が初めてのことになる。
主役である冴木の役どころは、警察のキャリア官僚。
寡黙で冷静沈着、ときに非合法な手段を使ってでも警察組織を守る役目を負った、陰のある男を演じる。
その相棒、そして妻役を演じる希。
役どころはノンキャリアの女性刑事で、犯罪現場で犯人との交渉を担当する所謂交渉人である。
性格はひたむきで生真面目、感情を心に溜め込みやすい……と、希よりもむしろ菜々美に向いていそうな役どころではあるが、『小説』本来の流れどおりであれば菜々美にオファーが来る設定なのだから、向いているのも当然。
彼女の成長のために用意された舞台、それがこの冴木とのW主演ドラマという場なのだから。
その辺の『冴木と菜々美との関係修復』に関して、希はもう既に諦めている。
元々のストーリーを知っていた希が、それでも冴木や和泉との関わりを絶たなかった。
彼らに対し、距離を置こうとしなかった。
それがこの決定的なストーリー崩壊の原因なのだとしても。
冴木が、和泉が、希を『身内』として気遣ってくれるように。希もまた、彼らを『身内』だと大事に想っている。
ヒロインが現れたから、『小説』内と同じイベントが発生したから、だからその通りに進めなくてはならない、とはもう思わない。
彼女自身、【真壁希】であって『小説内の真壁希』とは共通しない部分が多い。
そしてそれは、ヒロインにしても同じことが言えるのだ。
それはさておき、ドラマの話に戻ろう。
よくある刑事もののドラマと同様に、基本的に1話完結で毎回起こる事件の犯人が捕まるか、死亡するかでストーリーが次へと進んでいく。
その記念すべき第一回のゲスト犯人役がこの三橋であり、彼が起こした事件の現場に臨場した希が、勢い余って犯人である彼の背中を踏みつけてしまうというシーンが、シナリオ上確かに用意されている。
三橋も台本を読んでいるはずなのだが、どうせ演技だろうと暢気に考えているに違いない。
そう、これは演技なのだ。希はただ、台本どおり、演技指導のままに【犯人】を取り押さえるだけ。
(本気で踏んでも、演技に力が入りすぎちゃってー……で許されるわよね?)
当の本人が、こんな物騒なことを考えていたとしても、だ。
「人質を解放してください。関係ない人間を巻き込むことは貴方のポリシーに反するでしょう?」
手負いのテロリストが立てこもったのは、仕事帰りの会社員でほぼ満員状態のスポーツセンターだった。
彼はご丁寧にその中のたった一人……最も体格が良く、最も金を持っていそうな男を人質に指定し、そのほかの人間は外に出してから篭城を始めた。
だが要求は金ではない。
彼がターゲットに選んだ汚職疑惑のある某政治家の失脚、そして逃走用の車と渡航用のチケット、これが開放条件。叶えられない時は人質を巻き込んで自決する、という。
建物を遠巻きに包囲する、幾台ものパトカー。そして何十人と臨場した制服警官に、貧乏くじを引かされてしまった当直の刑事達。
物陰から銃を構えているのは特殊急襲部隊、そして何よりの貧乏くじとなったのが交渉を任された……と言えば聞こえはいいが、要は上が対応を決めるまでの時間稼ぎに選ばれた、交渉班所属の女性ノンキャリア刑事である。
「ふん、あんたらの考えは読めてる。さしずめ、自分との人質交換に応じろとでも言うんだろう?だが断る。そんなことをしても俺にはなんのメリットもないどころか、あんたら警察の人間じゃ人質の意味が違ってくる。……俺は射殺されるか捕まるか、そしてあんたは二階級特進……だろ?」
そんなことないですよ、と言わなければいけない立場で、シチュエーションで、しかし彼女は苦笑しながら「よくわかってらっしゃる」と否定せずに応じる。
その態度が何かの琴線に触れたのだろう、男は「いいだろう」とそれまでの態度を翻して彼女一人を建物内に入れることを許可した。
「俺を捕まえられればあんたの勝ちだ、自決せずに捕まってやる。それができなければ、死体が三つに増えるだけだが」
そんなことを言う犯人と対峙して、彼女は驚いた。
手負いのテロリスト……周囲の人間にも、家族にも、政府にも裏切られ続けてきた彼が、キラキラと楽しそうに瞳を輝かせて彼女を見つめていることに。
そして思った。…………またか、と。
勝負は一瞬。彼女の拳から身をかわした男の足を素早く払い、わずかにバランスを崩したところを上から押さえつけにかかる。
ぐいっと背中をローヒールで踏みつけ、反射的に伸ばされた手を掴んで手錠をカシャリ。
「はい、私の勝ち。甘く見ないでね、これでも喧嘩慣れしてるの」
お疲れ様でしたー、とあちこちから声がかかる。
この日のロケはこれで終了、後はスタジオで撮影する分が残っているが、そこに希の出番はない。
出番が終了する役者達はそれぞれマネージャーや付き人を伴って自由解散、スタジオに移動する役者・スタッフ達はワゴンに乗って出発となる。
「お疲れ様。さ、次は海外ロケの予告撮りよ。急いで行きましょ」
「はぁい。あ、でもマコさんお弁当……」
「ちゃんと受け取ってあるわよ。時間がないから移動中に食べてちょうだい」
この日のスケジュールはただでさえ一杯だったところへ、このロケで何度か些細なNGが出ているため思った以上に時間をとられてしまっている。
ここから他局のスタジオ入りして海外ロケの予告を撮り、それが終わったら舞台の稽古に合流。
朝から晩までぎっちり詰まった予定というのは役者的にはありがたいのだが、まともに食事が取れない、休憩が取れないというのが正直辛いところだ。
仕方ないかと諦めて二宮の車に乗り込もうとした希を、「真壁さん!」と三橋の声が呼び止めた。
(ああ、面倒ごとが……また時間が押していく……)
そう思っても無視することはできない。諦めて振り向くと、マネージャーらしき女性に肩を支えられた三橋が、恨みがましい表情で彼女を睨みつけていた。
「さっきの、すっげー痛かったんだけど。痣んなって残ってたらどうすんの」
「すみません、つい演技に熱が入ってしまって。私、格闘技習ってますからちゃんと手加減したつもりなんですけど、どうしても痛かったら病院行ってくださいね」
「はぁ?人に怪我させといてそんだけ?もっとちゃんと謝ってよ」
「ちょっと、龍之介……もうそのくらいで」
「なんだよ、マネージャーは黙ってろって」
爽やかな仮面を脱ぎ捨てたその下に隠れていたのは、正に傍若無人。
自分の時は軽く流して終わりにしたのに、人にされると腹が立つ。誰でも多かれ少なかれそんなところはあるだろうが、彼の場合はわかりやすすぎる。そして、攻撃的すぎる。
希が何事か言い返そうとしたのを遮って、二宮が車に乗るようにと指示してきた。
逃がさないとばかりに追ってこようとした三橋を……否、おろおろと落ち着きのない彼のマネージャーを、今度は二宮が冷ややかに見下ろす。
「前回、うちの大事なタレントに青痣つくった時、そちらの事務所から謝罪の言葉ひとついただいていませんでしたよね?なのに今回同じ状況になって、うちからの謝罪を要求されますか?」
「いっ、いいえ!そんな……」
「もし万が一痣以上の怪我を負っていた場合は、診断書を添えてご報告を。その時は丁重にお詫びに伺います、が……うちの希に限って、手加減を忘れることもないでしょう。あの子は格闘技のプロにも認められた体術を会得してますから。どこかの誰かさんのように、力任せに蹴り倒したわけでもありませんし」
始めたばかりの頃は、それこそ青痣だらけにして彼女は頑張った。
アクションにも挑戦してみたい、そのためには体力作りと平行して身のこなしや格闘技も学びたい、と。
冴木に言わせれば「無駄」と言いきられてしまうだろう努力のお陰で、彼女の役の幅はグンと広がった。
スタントに任せるのではなく、ギリギリまで自分で体当たりの演技をさせてもらえるようにもなった。
その彼女の努力を、一人の俳優の我侭で台無しにしたくない。
一度言葉を切ってから、二宮は薄っすらと嗤った。
希には決して見せない、光もあれば影も見てきた芸能事務所のやり手マネージャーとしての裏の顔で。
「タレントを甘やかし、奴隷のように従う。それもマネージャーとしての形のひとつ、なんでしょうね。少なくとも私は理解できませんが。……では失礼。急ぎますので」
それは即ち、「てめぇらのことには口出ししないからこちらにも口出すな」と言ったも同然だった。