魔法の《定食屋》 (4)
この後に短めのエピローグがあります。
今晩中に掲載しますので、纏めて読みたい方は朝までお待ちください。
「ケーキ、ですか?」
「お前さんにはこれがステーキに見えるってのか?」
「いや、見えませんけど」
店内の優しい照明を浴び、きらびやかに輝く橙色の宝石。
ケーキと言うのは分かるが、私の頭から疑問の音色が途絶える事は無い。
どうして、定食屋にケーキが?
何故、夕食時に。
そして、そもそも。
「シブーストって、何ですか?」
私の目の前にあるモノは何なのだ。ケーキではないのだろうか。
「フランス洋菓子の一種です。カスタードとメレンゲの層でフルーツを包んだお菓子を、発案者の名前を取って《シブースト》と呼ばれるようになったんですよ」
答えてくれたのは加賀美さん。営業用の笑顔のまま、先ほどまでのゆったりした口調が嘘のように朗々としている。
「まァ、手間がかかるから普通のケーキ屋じゃあまり見かけないな」
「フランス洋菓子の専門店ではメジャーなんですよ」
「な、なるほど」
スイーツなどとは無縁の、音楽漬けの生活をしている私には遠い世界の話だった。
「ケーキにも、色々あるんですねー」
きっと、ピントのズレたことを言ってしまったのだろう。マスターが苦笑いを浮かべた。
それほどまでに、目の前の《シブースト》は私の理解とはかけ離れたものだったのだ。
少なくとも、私の知るケーキとは全く違う。
まず、スポンジが一切ない。
一番上には、こんがりとしたカラメル。
スプーンで叩いてみるとカツカツとした手ごたえ。どうやら、極薄の飴のような物らしい。
カラメルを上に頂くのは、二センチほどの白いムース状の層。
加賀美さんの話から想像するに、卵白だろう。
メレンゲの下にはたっぷりのオレンジ。
ぎゅうぎゅうに敷き詰められた果肉は、今にもはじけて甘い果汁を飛び出させてしまいそうだ。
そして、層はまだまだ続く。
オレンジをメレンゲで挟むのは、ぷるっぷるのカスタード。
舌の上でとろりとトロけてくれる事が見ているだけで想像できる。
最後に、一番下にはタルト生地。渾然一体とした幾種類もの層をがっしりと受け止めている。
琥珀、白、橙、黄色。
見ているだけで飽きない色彩。
口にする事が罪に思えてしまう程だ。
ふと顔を上げてみるとマスターは仕込みを、加賀美さんは食器の手入れをしていた。
食事中は自分から口を出さない、この店のルール。
急かされる事は、無い。
自分のペースで、思うまま、好きなように食べ物を堪能できる。
「いただきます」
誰にともなく呟き、慎重にカラメルにナイフを入れる。
薄板は、パキリと軽い音を立ててメレンゲの層へと食いこんでいった。
そのままナイフはオレンジを突き抜け、カスタードを裂き、タルト生地を割る。
最後に残ったのは、純白のお皿にナイフが当たる固い感触。
一口大に切り取った《シブースト》をフォークに乗せて凝視する。
名画に泥を塗ってしまったかのような背徳感。
美しいものを破壊し、全てを征服したかのような高揚感。
そして、今まさに口の中に広がるであろう味に対する期待感。
何かに急かされるように、私の左手が「早く、早く」とフォークを口へと運ぶ。
十五センチ。
十センチ。
五センチ。
三センチ。
一センチ。
そして――
「…………っ!」
私の頭が、真っ白になった。
最初に届いたのは、カラメルの甘みと苦み。
薄い板状にかぶせられたカラメルが舌で潰され、メレンゲのふわふわとした甘みが包み込む。
泡のようなメレンゲが口の中で解けた直後、カスタードのトロける食感が口の中に広がった。
「ん……っ!」
そして、次に襲いかかったのは、強烈なオレンジの香り。
軽く、咀嚼する。
「ふぁっ……」
果肉が、弾けた。
砂糖漬けにされた甘い、甘いオレンジ。
香りと、強い甘みが、メレンゲの優しさと手を組み、融合する。
「はぁっ……ん!」
それだけでは済まなかった。
ただ甘くておいしいだけでは、私はここまでおかしな声を上げなかっただろう。
想像もしていない、思わぬ伏兵が潜んでいたのだ。
それは、酸味。
オレンジ本来の酸味が甘味と合わさり、口の中で全く別の味へと変化したのだ。
メレンゲとカスタードだけでは優しいだけだ。
砂糖漬けのオレンジだけでは、甘くて酸っぱいだけだ。
強い甘さのオレンジを、優しい甘さと食感で包んでこそこの調和が生まれるのだ。
もはや、声さえ出なかった。
無言で、何度も、何度も噛む。
スイーツをこんなにも咀嚼したのは初めてだと思う。
ただ、噛まなけばいけない理由があった。
それは、一番下に敷かれたタルト生地。
クッキーのようにサクサクとした噛み心地。
噛めば、噛むだけ味が変化する。
私が最初の一口を飲みこめたのは、たっぷりと数十秒以上経ってのことだった。
飲みこんだ後も、私は何も感想を言えなかった。
ただ、あまりの衝撃に目を閉じ、じたばたと全身を動かすことしか出来なかったのだ。
断言する。
人間、本当においしいものを食べた時は、無言で悶えることしか出来ない。
言葉にならないのだ。
美味しいと言う言葉でさえ表現できない衝撃が、この世界にはある。
「……」
心を落ち着かせる為に、コーヒーを一口すする。
僅かに熱の逃げたコーヒーは、少しだけ味が変化していた。
抑えられた苦みと、強い酸味が口の中の甘さを洗い流す。
最後に、残ったのは――《無》。
口の中は、完全にニュートラルに戻っていた。
――ニュートラル? うぅん、違う。
ゼロになった味覚は、《求めて》いた。
たった今襲いかかった《味》を。
ナイフを持った腕が、無意識にシブーストへと進む。
刃がカラメルを割り、タルトを砕く。
フォークを持った腕が、勝手に動いていく。
苦味、甘み、酸味、甘み。
パリパリ、フワフワ、トロトロ、プチプチ、サクサク。
飲みこんだ後は、酸味の強いコーヒーで口の中をリセット。
そして、再びシブースト。
気付けば、私の目の前のお皿にはブルーベリーソースしか残っていなかった。
――しまった。付け忘れたっ!
激しい後悔。一生の不覚。
きっとこのソースを付けていれば、さらに未知の世界へと旅立てていたかもしれないのに。
「馬鹿だ。私は、銀河統一級の馬鹿だ」
「いや、大袈裟すぎんだろ。面白すぎるリアクションだなオイ」
思わず呟いてしまったであろうマスターのツッコミも、私には届かない。
それほどまでのショックだった。
月から生身で大気圏に突入すれば、こんな気分になれるだろう。ちなみに、自分でも何を言っているか分からない。
「ご、ごちそうさまでした」
思い切り手を合わせ、頭を下げる。
「ふふっ。気に入ったようね」
新しい氷水の注がれたグラスを手に、加賀美さんが私の側にやってきた。
「はい。凄く美味しかったです。マスターが作ったんですか?」
「ふふっ、もちろんよ。だって私は料理が出来ないもの」
いつの間にか、加賀美さんはいつもののんびりとした口調に戻っていた。
「彼ってね、若い頃はパティシエ志望だったの」
「へっ? でも、何で。え?」
ならばどうして定食屋をやっているのだ。
これほどまでのスイーツが作れると言うのに、どうして洋菓子職人の道を諦めてしまったのだろうか。
あのシブーストは、雑誌やテレビで紹介されたなんてレベルじゃ無い。
名店の味、と呼ぶにふさわしい物だった。
私の疑問を読みとったのか、加賀美さんの笑顔が何とも言えない表情へと変わった。
彼女が次に呟くのは、私の胸を抉る言葉。
心臓を杭で突き刺すような、言葉。
「負けたの」
ぞわり、と背筋が凍った。
「あるコンクールでね、一人の天才に、完膚なきまでにボロ負けしちゃったのよ」
マスターに顔を向けると、どこか困ったような笑顔を浮かべていた。
――私と、同じ?
これほどまでに人に衝撃を与えるスイーツを作れる人が、道を諦めた?
にわかに信じられない話だった。
「まあ人間、分相応が一番ってことさ。職人でメシ食うには覚悟が足りなかったってコトさな」
囁くように放ったマスターの言葉が、私の寒気を加速させる。
やめて。
それ以上、言わないで。
もう、口を開かないで。
だけどマスターに私の心の声が届く事は、なかった。
「才能ってヤツは、どうしようもないモンだ。どんなに努力しても敵いはしない。勝てねぇなら別の道を選んで、戦いから目を背けるしかないだろ」
どこか、諦めたような笑い。
私の胸が、疼く。
痛さとかゆさが一体となり、掻き毟りたくなる。
――どうして、どうして?
どうしてそんな酷い事を言うのだろう。
だったら、私は何だと言うのか。
自分より年下の子に負けたプロ志望。
圧倒的才能の差、努力では埋められない歴然とした壁。
彼は、認めろとでも言いたいのだろうか。
現実を、実力を、才能を、世界の残酷さを。
認めて、諦めろとでも言いたいのだろうか。
「私は」
気付けば口に出していた。
そして、一度漏れた言葉は止まらなかった。
「私は、目を背けません」
だって。
だって。
「音楽が、好きだから。夢を、諦めたくないから。だから、才能だとかそう言うモノを認める訳にはいかないんです」
震える、声。
私が顔を伏せているせいで、マスターたちが表情で私を見ているのかは分からない。
私は怒っているのだろうか。
一流と言える実力を持ちながらパティシエを諦めたマスターに。
《才能》を持ちながら、夢を簡単に投げ捨てた大人に。
「私は、諦めない。まだ、限界を感じてないから。負けたくない相手がいるから」
少なくとも、今日私たちに土を付けた相手は《本物》だ。
悔しいけれど、彼女の演奏を聴いた私は感動で涙を浮かべていたのだ。
コンクールが終わった直後は、敗北感に打ちひしがれるほどに彼女の演奏は優れていた。
「足掻いて、足掻いて、負けて、絶望して――」
だけど、今は違う。
彼女に追いつきたい。彼女を超えて見せたい。
心からの思いを抱いていた。
「それでも這い上がって――」
音楽で食べて行くことが私の夢だ。
だが、プロになった所で夢を叶えたとは言えない。そこはスタート地点にしか過ぎないから。
「夢って、そう言う物だと思うんです」
きっと、プロになれたとしても何度も今日と同じ思いをするのだろう。
才能の差、実力の差、自分の限界。
だけど、何度打ちのめされても私は絶対に立ち上がって見せる。
「だから、私は前だけを見続けます」
今日と、同じように。
「……って、あ」
言い切った途端、気恥しさで頬が熱を持つのを感じた。
「ご、ごめんなさい!」
私は、なんて偉そうなことを言ってしまったのだ。
私よりずっと年上の大人二人に、なんて青くて偉そうな台詞を吐いてしまったのだろうか。
「あ、あの。ケーキごちそうさまでした!」
後悔が、羞恥が、つま先から頭のてっぺんまで支配する。
私は二人の顔を見る事も出来ずに、財布から小銭を出して逃げるように立ち上がった。
「お金、ちょうど。ここに置いておきます!」
そのままバッグを引っ掴み、ドアまで駆け出す。
「あぁ、そうだ。お譲ちゃん!」
ドアの取っ手を握った時、マスターの大声が狭い店内に響き渡った。
驚きとともに体が硬直する。
「一つだけ言わせてくれ」
すぐにでも店を飛び出したい気分だったのに、私は彼の言葉を待つことにした。
小生意気な子供に対する罵倒が飛んでくるのだろうか。
それとも、夢を諦めた事に対する良い訳でも放つのだろうか。
どちらにせよ、一つだけ確かな事がある。
《もう、このお店には来れない》と言うことだ。
とんでもない事を口にしてしまったのだ。
二人には合わせる顔が無い。
けれど、マスターの言葉は私にとって予想外で。
そして、当たり前と言えば当たり前の言葉だった。
それは――
「また、何かあったら絶対に来いよ。ウマいモン食わせてやっから」
思わず、振り返る。
マスターは、笑っていた。満足そうに。
もちろん、加賀美さんも。
「って言うか、何も無くても来て頂戴ね。待ってるから」
普段と変わらない、のんびりとした口調には、間違いなく優しさが込められていた。
どうしてだろう。
胸が、燃えるように熱い。
瞼が、震えるようにうずく。
また、涙がこぼれそうになった。
悔しい訳でもないのに、悲しい訳でもないのに。
理由は簡単だ。
嬉しい、から。
だから、私は思い切り息を吸い込んでこう答えた。
「はいっ!」 と。
勢いよく、ドアを開けて裏路地へと飛び出す。
逃げ出す為ではない。
明日へと、未来へと、夢へと進む為に。
人間、本当においしいものを食べると、身もだえすることしか出来ないのは事実です。
是非、モデルになった某名店のシブーストを食べていただきたい。