魔法の《定食屋》 (3)
「なあ」
マスターが、コーヒーサイフォンから目を逸らさずに私に声をかけた。
「今日、大会だったんだろ?」
唖然としていた私の体がぴくり、と僅かに震えた。
「コンクールとは名ばかりの、小さな演奏会ですけどね」
バッグから顔を見せるフルートに目をやり、頷く。
世間の吹奏楽部員たちは、今頃全国大会に向けての最終調整をしていることだろう。
だけど、私が通っている高校は音楽科。音楽専攻である私たちは例え部活に所属していても、アマチュア大会である全日本コンクールには出場する事が出来ない。
その代わり、出場条件のない小さなコンクールにいくつかエントリーをしていた。
今日は、その数あるコンクールの一つ。
同時に、私にとって絶対に負けられない相手が参加している大会の日だったのだ。
「音楽科って事は、みんながみんなプロ並みなんだろ? 俺ぁ音楽には詳しく無いが、すげぇ拍手とかもらえたんじゃないのか?」
マスターたちは、私がプロのフルート奏者を目指している事を知っている。
二年前、全く同じ精神状態でこの店の扉を開けた時から、ずっと知っている。
私が今も頑張れているのは、このお店があったからと言っても良い。
今の高校に合格した時は、マスターたちは自分のことのように喜んでくれた。
高校に入って、周囲のレベルの高さ――壁に突き当たった時、マスターは何も言わずにとろけるようなクリームコロッケをサービスしてくれた。
海外から有名な楽団が来日した際、加賀美さんはチケットを取るのを手伝ってくれた。
二人と、このお店があってくれたからこそ今の私がいると言っても過言ではない。
「……拍手は、貰えました。最高の演奏が出来たと思います」
ソロパートも貰えたし、それに見合うだけの練習もした。
部活のメンバーのほとんどは、サブの楽器の練習の為に部活に所属しているようなものだけど、それでも全力で、妥協せず今日の為に練習してきた。
だけど。
だけど……!
「負けちゃい、ました」
顔を伏せ、震える声で呟く。
気まずい沈黙が店内を覆った。
きっとマスターは「やっぱり」とでも言った表情をしていることだろう。
とてもじゃないけれど、私は彼の表情をうかがう事は出来なかった。
周囲を支配するのは、バーナーがサイフォンに満ちたお湯を沸かす音。
お互いに発する言葉が見つからず、ただ時間だけが流れて行った。
何分過ぎただろうか。
加賀美さんは戻って来ない。
お湯が沸いていない所を見ると、長く感じているだけで何十秒も経っていないのかもしれない。
「信じられます?」
先に口を開いたのは私だった。
「負けたんです」
最初は囁くような声だったのに、段々と私の語気は増していく。
「負けちゃったんです」
先ほどの沈黙が嘘みたいに思える。
「音楽でご飯を食べようとしてる私が――」
溜めこんでいた感情を抑えていた壁が、ひび割れて行く。
「私たちが――」
まるで、決壊したダムのように言葉の渦が溢れてくる。
「私より年下で――」
くやしさが、自分自身の未熟さへの怒りが。
「それも、普通科通いの――」
世界の理不尽さが。
「《たった一人の高校生》に!」
今、私の心の中にある全てのイヤな感情が言葉の濁流となって、荒れ狂っていた。
気付けば、私はまた泣いていた。
ここに来る前に涙は流したはずなのに。
顔をくしゃくしゃにして叫んでいた。
そう、私たちは負けたのだ。
今日のコンクールに人数制限は無い。吹打弦を問わず、楽器を扱うのならば誰でも参加が出来た。
三味線奏者の学生もいたし、街の吹奏楽団も参加していた。
その中にはプロとして収入を得ている大人たちも混じっていたし、市主催のお祭りとは言え非常にレベルの高い物だった。
プロに負けるのならば諦めがついただろう。
けれど、優勝をさらったのはプロの大人たちでは無く、たった一人で参加した女子高生。
それも、私と同じフルート奏者だったのだ。
「おかしい。おかしいよ。あんなに頑張ったのに。やっとソロパートが貰えたのに。何で、何で……」
私はうわごとのように何で、何でと繰り返す。
何で、あんなに努力したのに。
何で、たった一人の高校生に。
何で、人は才能にそこまでの差があるのか。
ぐちゃぐちゃになった頭の中で、黒い感情が荒れ狂っていた。
「ずるいよ。どうして、どうして……」
「秋穂ちゃん」
ただ、うわ言のように繰り返す私の肩を、誰かが突然叩いた。
反射的に振り替える。
「涙、拭いて」
歪んだ視界に映ったのは、加賀美さんだった。
彼女が出しだすのは、清潔そうな白いタオル。
「あり、が、ひぐっ」
手を伸ばし、受け取る。
途端に広がる、冷たい感触。
固く絞られたタオルは、まるで氷水につけていたかのように濡れていた。
よく見てみると、加賀美さんの手首から先からは血の気が失われている。
「それで、鼻もかんでいいから、ね?」
にこりと笑う加賀美さん。
私は言葉も出せずに、ただ彼女の言葉に従うだけだった。
■
十分後。相変わらず店内に私以外のお客さんはいない。
マスターはバーナーの火を止め、加賀美さんと一緒に私が落ち着くのを待っていてくれた。
今は改めて、コーヒーを入れ直している所だ。
泣き止み、鼻をかみ、顔を洗い終えたは私は、ゆっくりとコーヒーが出来上がるのを待っている。
フィルターから、フラスコへと黒い雫が落ちていく。
とぽとぽ、とぽとぽと。
気付けば、オンボロビルの定食屋は、香ばしいコーヒーの薫りで満たされていた。
「ほら、できたぞ」
「……うん」
「あら、私の分は?」
カウンターから差し出されたコーヒーを見て、意外そうに加賀美さんが呟いた。
「無ぇよボケ」
二人のやり取りをみて、口元が緩む。
「あれ、どうした?」
カップに手を付けない私に対し、マスターが不思議そうな声を上げた。
「熱いの、少し苦手なんです」
「知ってるさ。もちろん」
申し訳無さそうに漏らす私に、マスターはにやりと笑い返す。
――そりゃそっか。
何しろ二年近く通っているのだ。
私の好みくらい熟知していてもおかしく無い。
「まずは嗅いでみな。飲むのは後で良い」
こくりと頷き、指で取っ手をつまむ。
カップを顔に近づけると、湯気が肌を湿らせた。
ゆっくりと、息を吸い込む。
まず、最初に感じたのは《衝撃》。
「ふぁっ……!」
鼻を突きぬけ、頭の中にまで強い芳香が駆け巡った。
甘さと、香ばしさの混じった香り。痺れるような感覚。
思わず、奇妙な声が飛び出てしまう。
だけど香りは不快では無く、どこか心を落ち着かせる優しさがあった。
例えるなら日本茶のような、ほっとさせてくれるような。
「たまんねぇだろ?」
「……はい」
鼻を、頭を、全身をくすぐる様な強いにおいに我慢できず、カップを口に付ける。
砂糖もミルクも入れないまま、とりあえず一口だけ口に含んでみた。
やっぱり熱い。
火傷しそうなほどに、熱い。
けれど。
「おい、しい」
苦味は、ほとんど無い。どちらかと言えば酸味の方が強い。
それだけではなく、砂糖も入っていないのに甘みさえ感じる。
甘みと、酸味、僅かな苦み。
無糖でも全然飲める味だった。
香りも、鼻で嗅いだ時よりはるかに強く感じられる。
葡萄を思わせる、どこかフルーティな香り。
少なくとも、私の知っているコーヒーとは全くの別物だった。
「すげぇだろ? 後味も残らねぇし、ビックリだよな」
心底楽しそうにマスターの笑い声。
彼の言った通り、私の口の中は何も残っていなかった。
口寂しくなり、ついついもう一口飲んでしまう。
この店はいつもそうだ。
熱いのは苦手なのに、私の体は勝手に食べ物を胃に収めてしまう。
例え口を火傷しても、例え口内で皮がめくれてしまったとしても、どうしても私は止める事が出来ない。
変なクスリでも入っているのではないかと錯覚してしまうほどだ。
「ねぇ、マスター。私のぶ――」
「無ぇって言ってんだろうが」
「ケチ」
ぴしゃりと言い放つマスターに、口をとがらす加賀美さん。
いつもの変わらないやり取り。
私は、いつもこうやって彼らに元気をもらうのだ。
「さて、落ち着いたみてぇだし、そろそろメインディッシュと行くか」
「メイン、ディッシュ?」
藪から棒に、マスターが奇妙な事を口走った。
「おうよ。コーヒーだけで五百八十円なんて暴動モンだろ。俺なら暴れるね」
「あら、暴れるなら私も付き合うわ」
世の中の喫茶店に喧嘩を売っているような発言。
逃げて。全国の高級喫茶店、全力で逃げて。
「あれ? でも……」
ふと、疑問に思う。
料理が出てくるのは単純に嬉しい。
嬉しいのだけど……
「マスター、料理なんてしてない、ですよね」
「おう、してないな」
今日の彼はただコーヒーを淹れてくれただけだ。
冷蔵庫も開けず、鍋も包丁も握らず、食材に触れてさえいない。
「なのにメインディッシュですか?」
「おう。そうだ」
親指を立ててウィンクをするマスター。暑苦しいことこの上ない。
「ウチはメシ屋だ。メシ屋に来て食いモンが出てこないとか、死人が出てもおかしく無いだろ」
「私だったら、へし折ってちょん切っちゃうわね」
「「何を!?」」
何やら恐ろしい発言に、私とマスターの声が重なった。聞かなかった事にしておこう。
「それで、何がでてくるんですか?」
加賀美さんの危険な発言は放っておいて、マスターへと聞き返す。
コーヒーのお陰か、気付けば私の気分は随分と落ち着いていた。
「コーヒーってのは胃が荒れるからな。ケアする為にぴったりなモンがウチにはあるんだよ」
楽しそうな顔。だけど、マスターは動こうとしない。
何かを作るのではないのだろうか。
それとも、もう出来あがった物が用意されているのだろうか。
幾つもの疑問符が私を襲う。
「加賀美、準備はできてるか?」
「はいっ!」
朗らか声と共に、加賀美さんが立ち上がった。
マスターの問いかけに応じた加賀美さんは、今までのダメ店員とは別人のようだ。
ほんわかとした喋り口からは想像もできない毒を吐くお姉さんから、見る人に元気を与えてくれる笑顔の眩しい看板娘へ。
「お届けするわ、《魔法の料理》を」
そう言って彼女が取り出したのは、一枚のハンカチ。
彼女は大きめのハンカチを広げると、コーヒーカップの隣の何も置かれていない空間へと被せた。
一体、何が起きると言うのだろうか。
期待と、緊張で胸が高鳴る。
「お待たせ致しましたっ。こちら、本日の《オススメ》です」
ハンカチが、めくられた。
「え」
同時に、私の喉から変な声が出た。
「えっ?」
ハンカチの下から出てきた物が、信じられないモノだったから。
加賀美さんが行った手品などはもはやどうでもいい。
どうでもよくないけど、どうでもいい。
「え……?」
さっきから、私の口からは「え」しか出てこない。
だって、そうだろう。
私の目の前にある《食べ物》は、四角くカットされた物だった。
冷たいお皿の上に乗る《それ》は、多くの人々が好きなもの。
確かに、《それ》には調理の必要はない。
準備して、冷やして置いておくものだからだ。
だけど、おかしい。
《こんなもの》が、定食屋にあるはずがないのだ。
《それ》は甘い、甘い宝石。
タルト生地の上に、幾層にも重ねられたムースとクリーム。白と橙の断面図が美しい幾何学模様を描き、見ているだけでも満足してしまう。
一番上には、蓋をするかのように、こんがりと焼かれたカラメル板。
間にぽつぽつと挟まっているのはオレンジだろう。
飾り付けは小さなミントが一枚。
お皿の脇には、ブルーベリーと思しきソースが備えられ、彩りに華を添えている。
「えーっと、これって」
何なのかは知っている。
知っているけれど、問わずにはいられない。
だって、だって。
だって、コレは――
「《オレンジのシブースト》でございます。カラメル部分は固くなっておりますので、ナイフとフォークでお召し上がりください」
加賀美さんが、どこからかデザート用のナイフとフォークを取り出し、お皿へと重ねる。
間違いない。
私の見間違いでも、
冗談でも、
伊達や酔狂でもネタではなく。
「えぇぇぇぇぇぇぇ!?」
《今日のオススメ定食》は――
紛うことなく――
ケーキだった。
続く。今週中に更新予定。
次回で終わりかと思われます。