<寝取られ男>アナトール
<凱旋歴一〇一二年一五月七日昼 王城、王都、東王国>
耳が、長い。
アナトール・デュ・ブランショを一目見た人間は、全員が同じ印象を抱く。
樹精族のように上に長ければまだ恰好も付こうというものだが、アナトールのそれはみすぼらしく下に垂れている。歳はまだ三十を幾つか過ぎた程度と言われていたが、異相の所為で年齢は、よく分からない。田舎の男爵家の八男に生まれついたが、幸か不幸か兄たちが相次いで早世した為に今では諸侯の末席に名を連ねていた。
そのアナトールが王城に特別な地位を占めていることは、王廷に関係する者なら誰でも知っている。
曰く、<王女摂政宮の懐刀>、<王女摂政宮の長い耳>。希代の謀臣として出仕するこの男はしかし、彼の主からはもっと親しみやすい仇名で呼ばれていた。
「殿下、お待たせいたして申し訳ございませんな」
「<寝取られ男>、よくぞ参った。待っていたぞ」
少しも悪びれた様子の無いアナトールに、王女摂政宮は怒った様子もなく親しく声を掛ける。胡散臭い小男に過ぎないアナトールに、この主君は随分と目を掛けてくれている。だからこその<寝取られ男>などという軽口だ。
実際にアナトールは婚約者を二回、寝取られている。が、その事を面と向かって指摘した者は、目の前にいる主君しかいない。
幼王の叔母にして、東パリシィア王国の現在の実質的な最高権力者。王女摂政宮、アレクサンドリーヌ・ド・パリシィア殿下は芳紀まさに十九歳。列強や諸侯の子弟からの求婚を全て撥ね退けて政務に邁進する女傑であると同時に、冗談も解する人物であった。
会議室には衛兵を除けば、宮とアナトールの二人しかいなかった。腹心であるアナトール以外の廷臣とは、宮はこのような距離感を取ることはない。
「で、だ。<首府>の様子はどうなっている?」
「さて。最悪、とは申しませんが、決して良くはございません」
アナトールは王女摂政宮から、<御伽衆>の束ねを一任されていた。<御伽衆>とは元は王室の貴人の耳を喜ばせる奇譚を蒐集するのが役割であったが、宮はこれを一種の間者の組織に作り替えさせている。
常に国内を彷徨うように移動する王廷に在っては、<首府>の動向は掴みにくい。宮は、アナトールに自分が留守中の<首府>の様子を調べさせ、定期的に報告させていた。
「まず、何と申しましても物の値打ちですな。“翼竜登りの天井知らず”という奴です」
「どの程度上がっている?」
「場末の定食屋でそれなりの晩飯を喰えば、貝殻銅貨で五枚は下りません」
衛戍の下級衛士の日給が、貝殻銅貨六枚である。これで下々の生活が成り立つはずがない。アレクサンドリーヌは美しい眉根に皺を寄せた。
「……それでは苦しかろう」
「それに伴って、治安も悪化しております。<冒険者>と称して地方から<首府>に流入する者も含め、ならず者に街が占領されているようなものです」
王女摂政宮とその側近たちは、以前から<冒険者>を問題視していた。
そもそもが<冒険者>などと名乗っているが、彼らはただの貧農の逃亡者で、喰いつめ者に過ぎない。国法によって“その都市に一年と一日暮らし、他から追及の無い者は都市の住民となる”と定められている所為で、際限なく街へ流れ込んでくるのだ。
「連中は徒党を組んで飯場を占拠し、それぞれに勢力争いをしております。<冒険者>とは名ばかりで、街の外にさえ出ようとしない者がかなりいるようですな」
「困ったことだ。<勇者>アルベルト殿も、冥府で悲しんでおられよう」
「左様にございますな」
十年前に消息を絶った<勇者>アルベルトは<冒険者>五名を引き連れて、偉大なクエストを達成した。このクエストに参加した者は<六英雄>として諸国でも語り草になっている。
「ともあれ、何か手を打たねばなるまい」
水を向けた主君に、アナトールは人の悪い笑みを浮かべた。
「なに、このアナトールめに急場しのぎの妙策がございます」