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覚悟

<凱旋歴一〇一二年一五月十七日朝 <跳ねる鱗魚>亭、首府、東王国>


 一般的に“初心者の剣の稽古”と言えば、それはまず素振りのことを指す。

 鉄の塊である剣の重さに慣れ、必要な筋肉を付ける。繰り返される動作は次第に無駄な要素を削ぎ落とし、最も力の必要ない軌跡を描くように変化して行く。

 これはナイフでも大きく変わらない。

 ルイもはじめ、そうした鍛錬を想像していた。

 如何にかの<神速>ヨーゼフが師とは言え、全く常道から外れた訓練方法などありはしない、はずだ。

 だが、それは、淡い期待に過ぎなかった。


 右頬、胴、左脇腹。胸先、左太腿、左腋。

 流れるように繰り出されるナイフの剣先を、ルイの視線は追うことすら出来ない。感じるのは風圧と、微かな痛み。相対する<神速>ヨーゼフの繰り出す剣戟に、ルイはただじっと立ち尽くすしかない。

 いや、まずじっと立ち尽くすこと自体が困難なのだ。恐怖で竦みそうになるのを堪え、剣の軌道を見ようと目を見開く。

 これが、師となったヨーゼフが最初にルイに課した訓練だった。

 <跳ねる鱗魚>亭の裏庭で、身揺るぎもせずただひたすらに剣風に晒される。


斥候(スカウト)に最も大切なものは、目であり、耳であり、勘だ」


 そう言ってヨーゼフはルイを前にナイフを振るい始めた。

 ルイにも、一本のナイフが渡されている。「もし打ち返せるようなら、打ち返して来い」ということらしい。だが、今のルイにはそんなことは思いもよらなかった。

 汗が止まらない。

 厳冬の朝であるというのに、だ。

 幼くも利発な頭は、既に何通りもの死をルイに視せている。斬られ、裂かれ、打たれ、突かれ、血の海に斃れる自分の姿は妙に生々しい。動いてもいないのに、吐息に鉄錆に似た臭いが混じる。

 師と、目が合った。

 笑っていない。まるで対峙しているのが大切な人の仇でもあるかのように、師の目は冷たい。

 背中の毛が弥立(よだ)つ。

 まだ、死ねない。死にたくない。


 ○


 師弟の鍛錬を、<剛腕>ダヴィドは行儀悪く胡坐(あぐら)をかいて見つめている。

 <神速>ヨーゼフは、力自慢の自分を難なく倒した剛の者だ。その動きは、何かの参考になる。そんな風に考えてこの鍛錬を見はじめたのだが、それは大きな誤りだった。

 全てが、違う。

 一つ一つの動きの速さ、その組み立て方。数日前に戦った時よりも、切れがあるかもしれない。

 これを自分の中に取り入れることは、出来ない。

 ダヴィドはそう判断し、今はただありのまま見つめている。


「若、こちらでしたか」


 いつの間にかドミニクが横に立っていた。

 顔が、疲れている。色々と調べていたのだろう。

 今この<首府>は、凄まじい速さで動いている。冬の凍てつく寒さの下で、噂や蜚語が飛び交う。ダヴィドは、そういった情報の中から本当に必要なものを洗い出すようにドミニクに指示していた。


「どう見る」ダヴィドが尋ねる。視線は、目の前の鍛錬から動かさない。

「いい訓練です。英雄の動きを体感するのですから。まずもって、目が鍛えられる」ドミニクは元役人らしい断定的な口調で応じた。

「さて、それだけかな」

「と、いいますと」

 ダヴィドが真面目腐った顔になる。

「鍛えられるのは、目や耳だけじゃない。度胸だ」

「度胸、ですか」

「そう。戦いの中で一番大切なものだ」

「そんなものですか。私には分かりかねますが」

「あれは、勝つ為の稽古ではない。生き残る為のそれだよ。英雄殿は荒事が近いと見ているのかな」

「近いかどうかは分かりかねます」

 ドミニクが答えた。


 時期はともかく、荒事は確実に起きる。より冒険者風に表現するなら“出入り”ということになるだろう。王城であのいけすかない<寝取られ男>から騎士叙任が内示されてわずか数日で、<首府>の冒険者たちは新しい諸々の問題に関心を持ち始めていた。

 序列、勢力、同盟、そして対立。

 これまで独立独歩を謳って来た組織が突然誰かの風下に立つ、などというのは可愛げのある方で、遥か昔の諍いを持ち出して再燃させようと言う動きもある。

 まず動いてみて相手の出方を探る、といったやり方でしか最早相手の胸の内を読めなくなっているのだ。


「我らが<鬼討ち>ヴィクトル親分は」

「<大樹折り>の叔父貴を盛んに動かして、他の組織との接触を図っています」

 ドミニクは言った。

「<東大路>や<瘤>といった大物はともかく、<鳥撃ち>辺りはかなり好意的なようです。“同じ乗るなら牛より竜”といったことでしょう。<嘆き>のイシドールも派閥を作ろうと動き回っている様ですが、これはことごとく失敗しています。あまり人気がありませんからね」


 人気がないイシドールと比べ、<鬼討ち>ヴィクトルの威勢は大したものだった。

 非公式にではあるが、いくつかの小組織はヴィクトルの傘下に加われないかと打診してきている。

 それを捌いているのは、<大樹折り>だ。<剛腕>ダヴィドではない。

 ダヴィドは、この喧騒から一人、隔絶されている。


「噂は、本当だと思いますか」

 尋ねたのは、ドミニクだ。

「どうだろうな」

 はぐらかしながら、ダヴィドは苦笑を浮かべる。

 噂とはつまり、<鬼討ち>の引退についてだ。

 <鬼討ち>ヴィクトルは騎士叙任と同時に現在の大親分としての地位を後任に譲る、という噂は今<首府>で最も関心の集まる話題だった。


 本来、騎士であることに対する義務というものはたった一つしかない。

 年間に四〇日間を限度とした、軍役である。

 陪臣召集(アリエール・パン)によって呼び集められた騎士や諸侯は、王の命で戦場に向かう。とはいえこれは毎年四〇日必ず召集されるわけでもないし、呼ばれたとしても軍役免除金さえ支払えば、出征を免れることが出来た。

 では、騎士の仕事とは何か。

 拝領した領地の経営や社交、そして王廷への出仕だ。

 <鬼討ち>ヴィクトルは騎士となったからにはその本分を果たすべく、王廷に足繁く通うことになるだろう、というのが大方の共通した見方だった。であるからこその、冒険者引退だ。


 となれば、後継者が問題となる。

 実力の<大樹折り>、人気の<剛腕>というのが、街の人々の予想する候補者だ。

 その噂の渦中の人物が、この時期に何もせずにのんびりと剣の稽古を見つめている。このことは、すぐにでも噂の種にされるだろう。

 “後継者は、<大樹折り>で決まり”

 恐らく明日明後日にはそういう話が出来あがるに違いない。

 そして、実際にそうなるだろう、とダヴィドは考えている。

 でなければこの時期にヴィクトルがダヴィドと接触しない理由がなかった。


「いずれにせよ、もうすぐ分かることだ」

「それは間違いありません」

 東王国を含めた大陸東岸の広い地域で、一ヶ月は二十日と定まっている。それが十五度繰り返されて、一ヶ年。閏年でない今年は余月(あまりづき)もないので、あと三日で年が変わる。

 新年と共にヴィクトルは騎士に叙され、そして。



「ドミニク、オレは覚悟を決めたぞ」

「左様ですか」

「何の、とは聞かないのか」

「聞くまでもないでしょう」

 それもそうだ。

 <神速>ヨーゼフを客として迎え入れることを打ち明けた時点で、ドミニクは察しているはずだった。


 稽古の方に、動きがあった。

 ルイが、反撃を試みたらしい。

 流れるような連撃の隙を突いた一撃はしかし、あっさり読まれてヨーゼフにナイフを弾かれる。


「流石は、<神速>殿だな。容赦がない」

「そのヨーゼフ殿をして、これまで成しえなかったことに若は挑まれる」


 冒険者ギルドの設立について、ドミニクはこの僅かな期間に情報を集め、ダヴィドに報告していた。

 北から流れて来た冒険者は、ヨーゼフのことを覚えている。

 ある者は過ぎた夢を思い出すように、またある者は手酷いペテンを罵るようにヨーゼフの名を語った。


「いいじゃないか、望む所だ」

 ダヴィドが、立ち上がる。

「新雪は一番に踏むのが一番気持ち良いからな」

 その表情は、確かな覚悟に彩られていた。

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