密約
<凱旋歴一〇一二年一五月十六日昼 ブリュノーの塒、首府、東王国>
石造りの部屋は奇妙な沈黙に支配された。
明り取りの窓から時折吹き込む寒風の細い音以外、何も聞こえない。
窓辺には凝った作りの花瓶があり、花が一輪、活けられている。
イシドールは沈黙を楽しむように暫く花の色を愛でていたが、ブリュノーに向き直ると口を開いた。
「手を、組む?」
「ええ、私たち二人で手を組むんです。もちろん、大っぴらにはしませんよ。内々の“密約”です」答えるブリュノーが蛇に似た目を細める。
忍び笑いにまで湿り気を帯びている様だ。
「よく分からないな。オレたち二人で手を組むことに、何の意味がある?」
「これはまた手厳しい。こう見えても私はそれなりの情報網を持っている。荒事向きの人間も、貴方の所よりは多少抱えているつもりです。全く役に立たないということはありませんよ」
「そういうことじゃない。お前さんの所の組織がしっかりしている、ってことは理解しているんだ。聞きたいのは、“オレたち二人だけ”が手を組むことの意味だよ」
イシドールの疑問は、そこだ。
手を組むこと自体に異存は無い。というよりも、少しでも勢力を確保する為にここに来たのだ。<鳥撃ち>はじめ他の親分衆に断られ、ここでも袖にされれば今日の苦労は全く水の泡になる。
そこに来て、この甘言だ。裏が無いと思う方がおかしいだろう。
何と言っても目の前のこの男は、<鬼討ち>ダヴィドの誘いは蹴っているのだから。
「今回、騎士に叙されるのは四人です。<鬼討ち>ダヴィド、<嘆き>のイシドール、<東大路>のフィデール翁、そして不肖この私。不思議な人選ですが、実に巧妙でもある」
城に呼ばれた親分衆の中にはこの人選に反対する者も当然いた。
隊商護衛に実績のある<鳥撃ち>は不服を申し立てていたし、多かれ少なかれ奇異の念は抱いたようだ。確かに、不思議な人選だった。王国への功労、という点から考えれば全くおかしい。
率いる組織の規模も出自も立ち位置も全てがちぐはぐだ。
人足稼業が二人、情報屋が一人、そして<東大路>のフィデールに到っては、ごろつき、博徒の頭目だった。
「巧妙? 冒険者の実態に詳しくない<寝取られ男>が適当に選んだだけ、じゃないのか?」
敢えて莫迦な質問をぶつけたイシドールにブリュノーは苦笑を浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。そのまま明り取りまで近付くと、外を眺めた。
「<寝取られ男>はね、貴方、そんなに優しい男じゃありませんよ」
「そうかね」
「ええ」
つまり、と<瘤>は続ける。
「“騎士”に任じた四人の誰も、手を組まないような人選にしてあるのです」微かに怒りを含んだ声だ。どうやら莫迦の振りに少し苛立っているらしい。
「だがこうして、オレたちは手を組もうとしている」
「だからこそ、意味があるのですよ。相手の裏を掻く。基本です」
果たしてそうかな、とイシドールは思う。
手を組むこと自体は悪くない思い付きだ。誰かの裏を掻く、という効果が実際にあるかどうかは知らないが、組まないよりは組んだ方が選択肢の幅が広がるという点だけは間違いない。
但し、<寝取られ男>がこのことを予測していない、と考えるのは止した方が良さそうだった。
対面した印象から言って、「四人とも手を組まないように仕向けた」と思わせて実際に任意の組織、つまりはイシドールとブリュノーに手を組ませることくらいはやってのける男だと感じた。
政治。
要するに、政治なのだ。
イシドールとブリュノー。この二人は手を組む。そして、冒険者騎士の筆頭として名が挙がるであろう<鬼討ち>ヴィクトルを陰に日向に牽制する。<東大路>のフィデールが何か目論んでも、情報収集に長けたブリュノーが動き回って事前に潰すだろう。その際にはイシドールが兆術を使って支援するかもしれない。
こうして<寝取られ男>アナトールは一切手を加えずに、冒険者の中に一種の緊張を作り出し、上に歯向かえないようにすることが出来る。
何が巧妙かといえば、イシドールにはその思惑通りに動くしかない、ということだろう。
他の手段、例えば独立独歩の道を選んで孤高を貫けば、早晩ヴィクトルの風下に立たねばならない。ヴィクトルもイシドールも同じ人足稼業に手を染めているからである。全く同じ理由で、ヴィクトルと手を組むことは有り得なかった。
<東大路>のフィデールと手を組むこともまた、出来ない。そもそもあの頑固で偏屈な老人が誰かと手を携える所など想像すらできないのだ。
となれば、結局はブリュノーとの密約は遅かれ早かれ結ばねばならない。
そしてそのことにブリュノーも気付いている。気付いていながらああいう言い方しか出来ないのは、それでもイシドールを、“兆術師”を警戒してのことだろう。
魔術を知らない人間にとって、魔術とはそれほどに胡散臭い存在なのだ。
「いいだろう、こちらに異議は無い」イシドールは頷いて見せる。
「光栄です」とブリュノーが微笑む。人好きのする顔だが、底意を知っていればその口元にすら悪意が見て取れてしまう。蛇が笑えばこんな様子だろうか。
密約は密約だ。
だが、ブリュノーはイシドールがこの約束を反故にすることを余程恐れているらしい。上等な涜皮紙まで用意して、作るのは契約書に似た盟約の覚書だった。
「こんなものを作ってしまっていいのか? 誰かに見られでもしたら厄介だぞ」
「見つかれば厄介ですが、そうなる前に燃やすなりしてください」
盟約、とは言っても大したことは定めていない。
精々が相互扶助といった程度の内容だ。だが、こういった契りが交されること自体、冒険者の組織同士では稀なことだった。きちんとした覚書まで交わす以上、これはほとんど義兄弟の契りと似た拘束力を持つと言っても良い。
「ああ、それと」控えに署名をしながら、ブリュノーはイシドールの方を見据える。
「こういう間柄になったのです、一度“兆術”という奴を見せて頂きたいのですがね」
そう来るだろう、とはイシドールは心の何処かで思っていた。
ブリュノーにはこの盟約に差し出すものがある。
情報だ。
それに対してイシドールに何も求めないはずがない。
「確かに、道理だ」イシドールは含みのある笑みを浮かべると、窓辺の花瓶を指差した。
ブリュノーもそれに釣られるように活けてある赤い花を見つめる。
その瞬間、花が散った。
風は吹いていない。イシドールも、ただ指差しただけだ。
先刻、花を見つめた時にイシドールにはこの兆しが見て取れていたのだった。
「これが“兆術”だ」
イシドールの言葉にブリュノーは満足げに頷き、手を差し出す。
握り返しながら、<嘆き>のイシドールはこれから先のことを思った。
全く、楽しいことになる。
役者はみな曲者揃い。飛び入り歓迎、といったところか。
幕引きがどんな形になるのか、神ならぬ身にはまだ視えない。
だが、ろくでもないことになることだけは確かなようだった。