幼王
<凱旋歴一〇一二年一五月十五日昼 王城、首府、東王国>
<寝取られ男>アナトール・デュ・ブランシェは窓から見える眼下の街並みに目を細めた。
活気に満ちているとは言い難いが、それでも人々の営みは<首府>と呼ぶに相応しい水準にある。
恵まれた立地、と言って良い。
南北に流れる大河に浮かぶ中州を核に、東西南北に緩やかに広がる街並みは交通の要衝だ。
山奥の小豪族に過ぎなかったパリシィア家が諸侯の中で頭一つ抜きんでたのも、ひとえにこの地の有望さに目を付けた先見性にある。
東王国と名乗りながら、この国の王権はそれほど強くない。
割拠する諸侯の上にお飾りの王家が乗っかっていると冷笑する者もあるほどだが、実態はなお酷い。
各地に散在する王領に配する譜代の家臣団すらまともに擁しない脆弱な基盤で社稷を守り通せたのは幸運の産物に外ならなかった。傑物こそ輩出しなかったが、歴代の王は実に大過無く王廷を運営し、その結果として既得権としての王権は徐々に強まってきている。
その時代に、あの姫は生まれた。
才智、人徳、決断力。全てを兼ね備えた才媛は、その名をアレクサンドリーヌ・ド・パリシィアと言う。
先王存命の時代から妹姫として精力的に王を輔弼し、現在は王女摂政宮の要職にある彼女に<寝取られ男>は衷心からの忠節を捧げている。非才の身を全て投げ打って、彼女の目指す所へ到達しようというのがアナトール・デュ・ブランシェの生涯唯一の目標だ。
王権の、強化。
未だに“慣例で定まった同輩の中の首席”程度にしか王を見ていない諸侯たちを、黙らせる。
それはパリシィア家が一〇〇年かけても達成できなかった悲願でもあった。
アレクサンドリーヌは、それを成そうと言う。大それた夢だ。壮語と言っていい。
だが、その為の手を着々と打ちつつあるのもまた、事実である。
<首府>に注ぐリーニュ河の水利権を整備し、これまでそれぞれの諸侯が勝手に主張していた貨幣の鋳造権を“王家の名の下に”認定するなど、その活躍は目覚ましい。
その合間に戦争もした。
小競り合い程度の戦は部下に任せ、その間に外交でさっさと欲しい領土を分捕ってしまう。火事場泥棒もかくやという手腕である。こうして得たのは諸侯にとっては旨みの少ない、しかし王家が国家の陸運を掌握するのに不可欠な要地だった。先代、先々代らの功績と合わせ、アレクサンドリーヌは今や王領のほとんど全てを回廊状の領土で接続することに成功している。
アナトールは、その影の部分を担っていた。
「男爵閣下、お召しにございますか」
「ああ、呼んだとも。確かに呼んだ」
いつの間にかアナトールの背後に、小柄な男がひれ伏している。
歳の頃は四〇過ぎか。或いはもっと若いのかもしれない。
浅黒い顔は印象が薄く、すぐに記憶から抜け落ちてしまう。そういう種類の顔立ちだ。
「オブスキュリテ、お前も昨日の乱痴気騒ぎを見ていただろう。率直な感想を聞かせてくれ」
暗がりと呼ばれた男は頷きを返す。
彼こそがアナトールの腹心として<お伽衆>の束ねを任されている、一種の密偵であった。
「男爵閣下の投げた石は、水面を波立たせております。とはいえ、動揺しているのはほんの一握りですが」
「<鬼討ち>ヴィクトルと、<嘆き>のイシドール、か」
「後は<瘤>のブリュノー。動きは一番このブリュノーが早いほどです」
オブスキュリテの調べでは城から辞去したブリュノーは早速配下を集め、これまで不正に収奪した財産をどこかに隠す算段をはじめ、既に一部は城下から持ち出してさえいる。
「結構なことじゃないか」
「よろしいのですか」
密偵頭は、主人の満足げな顔に納得がいかない表情を浮かべている。
彼の理解では、アナトールは冒険者たちを相争わせて使い潰す算段のはずだ。莫迦で無能な方が好都合のように思える、そう言いたげだった。
「確かに、冒険者は莫迦だ。そしてそれを前提に私も話を進めて来た。
そういう面は、確かにある。確かにあるが……」
言いながら<寝取られ男>は酒杯を干す。安物のワインだ。
「彼らもまた、今では立派な王国の臣下なのだ。
であるからには、無能であるよりも有能である方が望ましいという面もある。何もおかしい所は無い」
「“慢心は竜を殺す”と申しますが」
「なに、私には慢心を諫めてくれる忠臣がいるからな。その点について心配はしていない」
軽口を叩く密偵頭に、アナトールも軽口で返す。
阿吽の呼吸は、オブスキュリテがアナトールの乳母兄に当たるからだった。
「とにかく、冒険者の動向には注意を払うように。首輪は付けたが、牙は抜けていない」
「御意」
そう答えると、暗がりはまた来た時と同じく音もなく姿を消す。
彼は、優れた斥候でもあった。
「ああ、そういえば」
アナトールは窓の外を見遣る。悠久のリーニュ河の水面を舟が進んでいく。
「王陛下に、呼ばれていたんだったな」
気付いて、まるで慌てるそぶりもない。
アナトール・デュ・ブランシェにとって忠節を誓う王国とは即ちアレクサンドリーヌのことであり、幼王のことではない。敢えて嫌われる必要もないが、彼の為に敬意を払う必要も微塵も感じていない。
<寝取られ男>とは、そういう男であった。
○
「王陛下、臣アナトール・デュ・ブランシェ、参上仕りました」
王は珍しく玉座の間にいた。
気だるげに玉座に背を預ける様にはとても十一歳とは思えない怠惰さが滲んでいる。
「よく来たな、ブランシェ男爵。苦しゅうない」
幼王、小アンリは肥え太った顔をアナトールに向けた。
眼はどろりと濁っている。子どもらしい快活さは、微塵もない。
「王陛下がお召しとあれば、このデュ・ブランシェいずこなりとも」
「その割には、いささか時間が掛かったようだな」
「さて、そのようなことはないと心得ますが」
どちらも、相手に関心がない。
空虚な会話は周囲に控える文武の臣を肝を冷やすばかりだ。
「それで、だ。ブランシェ。多忙な男爵を呼んだのは、重大な相談があるからだ」
「相談、でございますか」
「左様。新しき<王都>の名を、な」
アナトールは内心で舌打ちをする。
そんなものは勝手に決めればいい。王女摂政宮が慈悲で王に決めさせることにした案件だ。
余程莫迦な名前でも挙げない限りは自由にさせる腹積もりである。
だが、幼王の案はアナトールの想像をはるかに上回っていた。
「余は、“アレクサンドリア”が良いと思うのだがな」
「なっ!」
アレクサンドリア。
アレクサンダーの都、という意味だが、誰もそう取りはしないだろう。
パリシィア王家で王冠を頂いた人間の中に、アレクサンダーの名を持つ者は、いない。
この場合、このアレクサンドリアという名前の意味は。
「王国と余の為に日々尽くしてくれる叔母摂政宮を労おうと思って、な」
「陛下、しかしそれは」
アレクサンドリーヌの都。
常識に照らせば、この名はそう解釈されるべきである。
諸国はこれを王陛下自らの発案とは思いはしないだろう。王家に間隙があると見れば、即座に離間工作をしかけてくる。そんな莫迦げた工作を相手にしている暇は無い。
「名実ともにこの<首府>、いや王国を差配しているのは叔母摂政宮ではないか。顕彰して何が悪い」
「陛下!」
思わず怒鳴ってしまってから、アナトールは幼王の冷笑に気付く。
まんまと一杯喰わされたらしい。
「全く、本当にブランシェは叔母摂政宮に忠実だな。余もそなたのような腹心が欲しいものよ」
「怖れながら陛下、私の忠心は王国に向けられており」
「良い。そのようなお為ごかしは要らぬ」
まるで可愛げがない。
こういうところが摂政宮と比べられるということが、分かっていないのか。
「アレクサンドリア、の名は戯れではない。余の本心である。かといって、浮世のしがらみでそれが叶わぬことも承知しておる」
「そのお言葉を賜り、このブランシェ安堵致しました」
「うむ。名は、“ユーギア”と致そうと思う」
ユーギア。
舌の上に転がす。語呂は、悪くない。
「我らパリシィア一門の家祖、ジャン=ジャック・ド・パリシィアの岳父に当たるユーグ・ダナンの名を頂戴して、な。これならば精々文句を言っても西王国の連中くらいだろう」
「良き名かと心得ます」
「お前にそう言って貰えると心強いぞ、ブランシェ」
心にもないことを、と口に出さずに毒づく。
十一歳でこれだけ口が達者ならそれなりの王になるのかもしれないが、性格が悪過ぎる。
「まぁ、種馬の戯言よ」
「陛下、ご自身を種馬などと」
「王などな、ブランシェ、種馬に過ぎん。その王が如何にあるかよりも血を残すことこそ肝要だ。パリシィア家はそうして細々と命脈を保ってきた。表向きのことは賢い叔母摂政宮とお前に任せる」
本当にそうしてくれれば、どれだけ有り難いか。
王女摂政宮をアナトールが輔弼し、王はお飾りとして振舞って頂く。
それが出来ないからこそ、こうして焦りながらの改革を進めている。
その原因自らに立場を否定されては、はらわたが煮えくりかえりそうになるというものだった。
「そう言えばブランシェ、戯言ついでに尋ねたいのだが」
「何でございましょう」
「お前、冒険者を騎士に取り立てるそうだな」
アナトールはさっと周囲に視線を巡らせた。
誰だ、王の耳に要らぬことを吹き込んだ奴は。
「噂だ、噂。誰から聞いたわけでもないぞ。で、まことか?」
「はっ。騎士四名と、従士二十二名を取り立てようと」
「なるほどなぁ」
偉そうに腕を組み、幼王が思案する。
でっぷりした身体と相まって、その姿は多分に喜劇的だ。
「余も、直臣として一人二人召し抱えたいな」
「なりません」
声を上げたのは、アナトールではない。
幼王に侍従する<官僚派>の筆頭、ラ・ミューレ子爵だ。
「しかしな、ラ・ミューレ」
「なりませんぞ、陛下。冒険者などどこの馬の骨とも知れぬ連中を、直臣になど……」
そう言って声を荒げるラ・ミューレをアナトールは冷ややかに見つめる。
子爵などと名乗っているが、ラ・ミューレの家は八代遡ればただの商人だ。帝国で財を成したニシン商人がラ・ミューレという土地を買って勝手に子爵を名乗ったのがはじまりだった。
「ああ、ともかく、だ、ブランシェ。余の直臣に相応しい冒険者がおれば、推挙するように」
「陛下!」
「畏まりましてございます」
ラ・ミューレの言葉を遮り、取りあえずの約束をしておく。
飽き症の王のことだ、三日もすれば忘れるだろう。
玉座の間を後にしながら、アナトールは深いため息をついた。
精力的に働きながら、暗澹たる気持ちはなかなか晴れない。
廊下の明り取りの外では、また粉雪が散り始めていた。