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神砕きの残光  作者: 爽夏=sayaka=
第一章:藤の刀
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026.富志箸

富志箸(ふじはし)を訪れて一週間余り経つだろうか。佳晴は、非常に充実した毎日を過ごしていた。

貞宣の持つ豊富な書物に囲まれ、自由に紐解き、貞宣と文芸談議に花を咲かせる。あるいは、貞宣の食客である各方面の大家たちと茶の湯や歌合を楽しみ、絢爛たる知識の沼に浸りきっていた。

同じような、あるいは自身よりも造詣の深い複数の人たちと、古典文学から書に香道にと、幅広い知識を研鑽し合う。

そんな経験は初めてで、とても刺激的で魅力的で、この深い沼に惑溺していたと言っても過言ではないだろう。

富志箸での佳晴は、貞宣の無聊を慰めることだけを求められていた。そのため、大層厚く遇されており、身の回りの世話係なども数名専任で付けられるほどである。

そんな中、真太が何か言いたそうに此方を見ているのには気付いていた。

されど、他人の目があるところでは、従者然とした慇懃な態度を崩さなかったため、後で後でと話し合いを先延ばしにしていた。

分かっている。佳晴も分かっているのだ。

忍び込むように悪夢が襲う。夜になると眠るのが怖く、まんじりともせずに過ごすこともあった。

その恐怖を振り払うように、あるいは忘れるかのように、更に知識の沼に陥る。

慣れない旅に疲れていた。

満足に食事が出来ず、野宿ばかりで安心して寝ることも出来ず、野盗や獣に襲われる不安にさいなまれる毎日に比べ、今は如何だろう。

知的好奇心が刺激され、文化的で高尚な趣味に没頭し、食事を始めとする日々の生活の些事を全て他者に賄ってもらえる。なんとも満たされた日々ではないか。

(進まなくてはいけないのは分かってる)

何かが駆り立てるように自分の背中を押している。

それでも、どこか本心では、背中を押されて進んだ先の自分が見えなくなっていた。

ふと社で読んだ書物と同じ題名のものを見つけ、懐かしく思い手に取った。表紙をなぞり、当時を思い出しながら紐解くと、脳内にあの人の姿が鮮やかに思い出された。


「家を再興し、民を守れる力を得たいのです」


あの時、意気揚々と宣言した自分を思い出して、背中に冷たいものが走った。

彼女の慈愛に満ちた微笑みが、慈しみに満ちた眼差しが、頭を撫でる手の感触が蘇り、慌てて書物を閉じた。

息が荒い。心の臓がバクバクと音を立てて、耳鳴りがする。

トロトロと心力が小太刀に流れて、あの時の自分が今の私を見つめていた。何も言わず、ただ見つめている。

(分かってる……わかっているんだ)

誰に言うとも無しにただ繰り返す。いや、あの時の自分に言い訳してるのかもしれない。

あの時の私は旅というものを知らなかった。空腹を知らなかった。外で寝る恐ろしさを知らなかった。暗闇が(もたら)す本能に訴えるような恐怖を知らなかった。

無知だったからこそ踏み出せたのだ。

今の私は、それを知ってしまった。知ってしまったのだ。

お前は知らなかったではないかと、目の前にいるあの時の自分に叫ぼうとしたとき、グラリと世界が揺らめいた。小太刀に吸い込まれる心力の調整が上手くできない。

水の中にいるかのように、何処かおぼつかなくて、藁にも縋るように手を伸ばしたが、果たして腕が動いたのだろうか。

いや、私は何を掴むつもりだったのだろう。

何を掴めると思ったのだろう……

「佳晴殿!」

貞宣の声がグワングワンと耳の中を反響して、世界が黒く染まった。

そこから記憶がない。目が覚めたら、障子が橙色に近い朱い光で染まっていた。

「倒れた……のか?」

ゆっくりと起き上がる。枕元には、硝子で出来た水差しと碗が置いてあった。なんとも贅沢な事ではないかと、思わず笑いがこみ上げそうになる。

ふと、障子が陰った。作法に則り膝をつき、障子の縁に手がかかって、音もなく開く。

「……」

起き上がってると思わなかったのであろう。ハッと息を飲むような音が聞こえた気がしたが、気のせいだったと思うくらい一瞬で、此処のところ見慣れてしまった従者然とした姿に戻った。

「ご無事で何よりでございます」

部屋に入ると起き上がった佳晴の身体に薄手の羽織物を羽織らせる。なんとも甲斐甲斐しく世話をする姿が、旅の時の真太と結びつかず違和感が酷かった。

だからだろうか。反射的に印を結び「『遮蔽』」と呟いていた。傍らにある小太刀に心力が喰われ、辺りに膜が張る。

「……」

「……」

沈黙だけが横たわっていた。反射的に外からの視線を遮断したものの、何をしたいのかまでは、自分でも分かっていなかった。

いや、違う。たぶん分かってる。きっと、いつもの軽快な口調で、馬鹿にしたような口調で、明確な何かを突きつけられたかったんだろう。

溜息一つついた真太は「大丈夫か?」と静かな声で聞いてきた。

答えられなかった。大丈夫と見栄を張ることも、駄目だと本音を零すことも出来なかった。道を示して欲しいなどと、依存するかのように全てを委ねることなど、出来るはずがなかった。

「……」

何も答えられない佳晴を前に、真太は仕方ねぇなと作りものじゃない不器用な笑みを浮かべた。

「若様、アンタはどうしたい?」

「私は……理想と現実を知ってしまった」

「あぁ」

答えにならない答えに、真太は分かってるとばかりに頷いた。

「理想は、まだ此処にあるんだ。それは本当なんだ」

何かに言い訳するかのように、握り込んだ拳を胸に押し当てる。それだけは、信じて欲しかった。

「あぁ、そうだな」

やっぱり真太は頷いた。

「……で、アンタはどうしたい?」

答えることが出来なくて黙り込む。ジッと自分を見る眼差しを感じていた。

虫の声が部屋に響く。いつの間にか、障子を染めていた朱い光は消えていた。

どのくらいたったであろうか。

「若様、そろそろ解除した方がいい。不審に思われる」

廊下の気配を探っていた真太が静かに告げる。

「え?」

「若様、『遮蔽』の解除だ」

それをしたら一人きりになりそうで怖かった。

そう思ったところで、身体の芯から重くなった。どうやら、先に心力の限界が来たらしく、小太刀がカチカチと鳴って、『遮蔽』が強制解除されてしまったようだった。


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