024.香道家<new>
まだ神々が人に寄り添ってくださった神話の時代。神と仲介者である神使と人とが、一つの宴を催すこともあったという。
其処で人は神々から教えを授かったのだ。文字から始まり、詩歌や茶の湯、聞香などなど、数多くの叡智が授けられ、共に楽しんだ。
当たり前の話だが、神々と我々人とは能力が大きく違う。神の抱く巨大な御力を前提とした作法は、人には到底不可能で、人は人の作法を確立していく。同じように、神々から力を賜った神使たちも神力を前提とした作法を持っていた。
ざわりと空気が揺れる。
此方が感情を揺らすことなど、最初から分かっていたのだろう。探るような眼差しで翁が観察していた。
我々は翁の視線なぞ目に入らぬほどに、少年の所作に釘付けになっていた。
一目見た時から立ち振る舞いに優美さを感じていた。歩く姿、座り方、手の指の動かし方一つ一つが洗練されており、柔らかだった。
先日の茶会でも見事な御点前で、されどまだ人の世のものだった。
だが、今日の聞香の作法は違った。人のそれとはかけ離れていたのだ。
「……」
部屋の中は静寂だけが満ちていた。
香が薫る。香木の香だけが動いていた。
人ならば、漂う薫りを香炉の中に空気ごと閉じ込め、満たした薫りに心を傾け、その香を聞いて楽しむ。
彼は違う。一見、聞香炉の中を見つめているだけだ。
だが、心力の動きを見れば、ふわりと柔らかに香を包みこんでいるのだ。香の薫りは、心力に包まれて導かれる。常であれば、留まることなく消えゆく香が、散ることなく引き寄せられる。
風で操っているのかと思い、聞香炉の中の灰の動きを見るも、揺らぐことはなかった。薄い雲母の板で作った銀葉の上に置かれた香木の欠片もピクリとも動いていない。
立ち昇る煙すら自然の揺らめきで、薫りだけが少年の周囲を漂っているように見えた。
ふと、少年の表情が緩む。その姿は、まるで香の語り掛けに耳を傾けているかのよう。
歓喜の声を聞いた気がした。否、ハッキリと声だと確認したわけではない。
だが、確かに感じたのだ。
喜びの感情が周囲に広がり、喜びが暖かな感情となって自身の中に広がるのを……
尋常じゃない。尋常じゃないが、酷く心が満たされた。
これまで感じたことのない世界を垣間見た気分だ。
その時、思い出す。古の神代の時代、当時を知る人が記した回顧録があったことを。紐解いた記憶を思い返せば、とても洗練され、美しい作法だったと、受けた感動を語っていた。
具体的にどんな作法だとは記されていなかった。が、その優美さを存分に語る文字の流れに、叶うならば自分も一目見て見たいと思っていた。
きっと……私は、それを今、目の当たりにしているのだろう。
香の薫りが少年の心力に絡む。話を聞いて欲しいと請うかのような其れは、幻想的で美しい。
次元が違った。
彼の作法を知ってしまった以上、香の大家などと称するのも烏滸がましい。
香道とは何かという根本的なところから、音を立てて崩れていく。
(嗚呼……)
あの回顧録の記述は正しかった。だが、誤っている。
足りないのだ。
今、目の前で実演された所作を、神の使いである神使が行ったのであれば、言葉になぞ言い表せないに違いない。それでも、記したかった気持ちは、今ならば痛いほどわかる。
分かる、分かるが……無理だ。
この素晴らしさを語る言葉があれば教えを乞いたい。
(嗚呼、嗚呼……)
言葉が出ない。目に焼き付けるように、少年の所作を見続ける。
一瞬でも見逃すことなど出来ようはずがなかった。
今ならばわかる。あの回顧録は、見たものを後世に残したいと筆を執ったものの、書き示すことなど出来なかった成れの果て……嗚呼、なんと不完全なのだろうか。
だがしかし、だがしかし……私も同じ運命をたどるに違いない。
描き表せないと分かっても尚、この感動を後世に残さずにはいられない……
※私メモ※
20260427挿入したため、後日、これ以降のナンバリングを変更する




