婚約破棄を宣言されたので、王子をリングに上げて差し上げましたわ
「ゴルディアーナ・ヴァン・ベルクヴァルト! 貴様との婚約を、今この場を以て破棄する!」
王立学園の卒業記念パーティー。その喧騒を切り裂いたのは、エルヴィン第三王子の高らかな宣言だった。大広間のシャンデリアが、勝ち誇る彼の顔を白々と照らし出す。
彼の隣では、聖女セレスティーヌが儚げに身を震わせていた。潤んだ瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
「……っ、殿下。わたくしのことは、どうぞお気になさらずに。ゴルディアーナ様にも、きっと何かお考えがあったのでしょうから……」
指先で目元を拭うその仕草。あまりに計算され尽くした、あまりに「可憐な被害者」の演技。
王子の背後に控える取り巻きたちが、一斉に拍手を送る。あるいはゴルディアーナへ、軽蔑に満ちた視線を投げつける。エコーがかかったかのように、代わり映えのしない罵声が大広間に満ちていく。
その中心で、ゴルディアーナは静かに立っていた。
二〇一センチの長身。二五六パウンドの強靭な肉体。公爵令嬢のドレスに包まれているはずのその姿は、周囲の貴族たちを見下ろす巨岩のようだ。
彼女は微動だにしない。王子の弾劾を聞き流しながら、ただ一点、虚空を見つめている。
「貴様がセレスティーヌに行った数々の嫌がらせ、もはや弁明の余地はない! この聖なる乙女を虐げた罪、その身で購うがいい!」
王子の声が裏返る。正義に酔いしれ、己が物語の主人公であると信じて疑わない顔。その言葉に重みはなく、どこかから借りてきた台詞を並べているに過ぎない。
やがて、弾劾の嵐が止んだ。
大広間を支配するのは、断罪の結末を、悪女の落涙を期待する残酷な沈黙。観客たちの視線が、一斉に彼女へと突き刺さる。
ゴルディアーナは、おもむろに視線をエルヴィンへと移した。
期待された絶望も、見苦しい怒りもない。彼女はただ、深く、重く、心底退屈そうにため息をつく。
「——台本なし、段取りなし。三流ですわね」
◇◇◇
高く、乾いた音が一つ。ゴルディアーナが右手の指を鳴らす。
その瞬間、大広間の無数のシャンデリアが一斉に光を失った。
「ひっ!?」
「な、なんだ!?」
「殿下をお守りしろ!」
絶対の暗闇。悲鳴と怒号が交錯し、優雅な卒業パーティーは一瞬にして混沌の底へ突き落とされる。
ズズズ、と。足元の石床が重い地鳴りを上げる。床の中央が四角く切り取られ、天井へ向かってせり上がっていく。同時に、広間に並べられていた豪奢な椅子が勝手に滑り出した。
「きゃああっ!?」
「な、動く、椅子が、勝手に——」
椅子は四角い高台を囲むように次々と整列する。逃げ惑う貴族たちの膝裏を座面が正確に打ち、強制的に腰を下ろさせる。取り巻きの令息たちも、悲鳴を上げていたセレスティーヌも、抗う間もなく観客席の住人へと変えられていく。
ただ一人、エルヴィン第三王子だけが、せり上がった四角い空間——キャンバス地のマットが張られ、三本組のロープで囲まれた特設リングの中央に取り残されていた。
どこからともなく、蝶ネクタイ姿の男がリング上に立っている。
手にはマイク。姿勢は正しく、視線は鋭い。彼がいつ、どこから、どうやって現れたのか。誰にも分からない。ただ、そこに「いる」。男はマイクを口元へ寄せ、プロフェッショナルとしての完璧な間を取る。
そして、肺の底から息を吸い込み、暗闇を切り裂く絶叫を響かせた。
「——青コーナーッ!」
「王立学園首席——ではなく次席! 騎士団名誉団長——ただし名誉!」
「第三王子ッ! エルヴィンーーッ!」
リングの真上にだけ、スポットライトが突き刺さる。光の中心で立ち尽くす王子へ、視線が集中する。
パチ、パチパチ。
パラパラと、まばらな拍手が起きた。リングアナウンサーの声量と熱気は、間違いなく超一流のそれである。しかし、いかにプロの技術をもって装飾しようと、肝心の素材が薄すぎた。全力で捻り出した煽り文句が、かえって王子の微妙な立ち位置を浮き彫りにしている。
当のエルヴィンは、突然の光に目をしばたかせている。
自分の置かれた状況も、なぜ拍手がこんなにも寂しいのかも理解できていない。ただ、何かが決定的に自分をコケにしていることだけは感じ取り、不満げに顔を歪ませる。
◇◇◇
リング上のエルヴィンを照らしていた一筋のスポットライトが、唐突に消滅する。
再び、完全な暗闇が大広間を呑み込んだ。
次の瞬間。
腹の底を激しく揺り動かす重低音が、虚空から叩きつけられる。
ドゴォン、ドゴォンと連続するティンパニの打音。それは大地の底から湧き上がる地鳴りのように、石造りの広間全体を物理的に震動させる。
そこに、重厚な合唱が重なり合っていく。
地を這う男声の低音と、天井を貫く女声の高音。恐ろしく荘厳で、逃げ場のない審判の日を突きつける旋律が、凄まじい音圧となって響き渡る。
音の波が空気を震わせ、観客席に縛り付けられた貴族たちの顔から一気に血の気を奪い去る。誰もが息を呑み、圧倒的な音響の暴力に身を縮こまらせている。
広間の最後方。もっとも遠い位置にある豪奢な両開き扉を、ピンスポットライトが真横から射抜いた。
重々しい軋み音を立てて、巨大な扉がゆっくりと内側へ開いていく。
開かれた隙間から、白く濃いスモークが足元へと流れ出す。スモークは床を這い広がり、花道となる空間を瞬く間に白く覆い尽くしていく。
逆光の中、スモークの向こう側にそびえ立つ影。
二〇一センチの巨体が、悠然とそこに立っている。
彼女が一歩、足を踏み出す。
硬質なブーツの音が、合唱とティンパニの轟音の隙間を切り裂いて鋭く鳴る。
カツン。
その歩みは、ひたすらに遅い。一歩ごとに長い時間をかけ、自身の存在の重さを空間に刻みつけていく。
花道を歩き出した彼女の姿を認め、客席の貴族たちが恐怖を振り払うように叫び声を上げる。
「悪女め!」「出ていけ、この恥知らず!」「殿下の御前だぞ!」
悲鳴と怒号が入り混じった罵声が、四方八方から飛んでくる。
ゴルディアーナは足を止めない。ゆっくりと、確実な歩調で前へ進む。暗闇の中、彼女の口元が微かに吊り上がる。
客席から飛んできたワイングラスが、足元で砕け散る。破片がスモークを散らすが、彼女は視線一つ落とさない。丸めた手袋や銀の匙が投げ込まれても、一切の反応を示さない。
ただ前だけを見据え、優雅に歩みを進める。
周囲を取り巻く罵声の渦は、彼女が近づくにつれてさらに音量を増していく。
ゴルディアーナは目を細め、静かに呟く。
「ブーイングの質は悪くありませんわね。……少し声量が足りませんけれど」
リングの傍らには、一人の男が立っていた。
漆黒の燕尾服に、汚れ一つない純白の手袋。乱れのない姿勢。彼は誰に呼ばれたわけでもなく、いかなる説明もなく、そこに存在している。
ゴルディアーナがリングサイドへ到達する。
男——執事のメルセデスは、彼女の姿を認めると、一糸乱れぬ動作で深く一礼する。そして、純白の手袋で覆われた両手で、リング最下段のロープを丁寧に持ち上げる。
ゴルディアーナはわずかに顎を引き、当然の権利を行使するようにロープの下をくぐる。
重厚な公爵令嬢のドレスの裾を翻し、二〇一センチの巨体が優雅にリングの内側へと滑り込む。公の場における完璧な令嬢の所作と、規格外の体躯が一つに重なる、異様な光景がそこにある。
キャンバス地を踏みしめ、ゆっくりとリングの中央へ進み出る。
彼女が両腕をふわりと左右に広げた。
その瞬間。
空間を支配していたティンパニと合唱の旋律が、完全に停止する。
音が消え失せた。息を呑む音すら聞こえない、重く冷たい沈黙が大広間に満ちる。
静寂を切り裂き、リングアナウンサーの絶叫が爆発した。
「——赤コーナーッ!!」
声量が先ほどとは全く違う。マイクを通した音声が空気を直接叩き潰すほどの圧を持って響く。
「身長二〇一センチ! 体重二五六パウンド!!」
息継ぎの瞬間すらも熱を帯び、空間の緊張感を際限なく高め続ける。煽り文句のすべてが、目の前の巨大な令嬢の圧倒的な格を示している。
「その一挙手一投足は淑女、しかし結末は常に破壊!!」
スポットライトが真上から突き刺さる。まばゆい光の束が、リング中央のゴルディアーナを暗闇から鮮烈に切り取る。
「"優雅なる破壊者"!! ゴルディアーナ・ヴァン・ベルクヴァルトォォォーーーッ!!」
耳をつんざく絶叫のコールが広間を震わせ、やがて消える。
後に残るのは、絶対の沈黙。
誰も拍手をしない。罵声すらも恐怖に呑み込まれ、客席の誰もが声を出すことすらできない。ただ、己の無力さを思い知らされた観客たちが震えている。
ゴルディアーナは眩い光を全身に浴びながら、静かに微笑む。
◇◇◇
いつの間にかメルセデスが差し出していたマイクを、ゴルディアーナは優雅な手つきで受け取る。
「——本日の挑戦者は第三王子だそうですわ」
傍らのリング上に立つ男へ、ほんの一瞥をくれる。ただそれだけ。すぐさま正面の客席へと向き直った。
「さて、観客の皆さま。先ほどから随分と静かですわね」
広間を支配するのは、圧倒的な光景に呑まれた重い沈黙。椅子に座らされた貴族たちは、凍りついたように息を潜めている。
「悪女と罵るなら、もっと本気でどうぞ? わたくし、生温い憎悪は肌に合いませんの」
ざわ、と。客席のあちこちで動揺が波及していく。恐怖に縛られていた観客たちの表情に、戸惑いと、確かな反発の色が蘇り始める。
「——声が足りませんわ。ブーイングすらまともにできない方々に、一流の興行をお見せするのは心苦しいのですけれど」
「ふ、ふざけるな!」
「どこまで我々をコケにする気だ、この悪女め!」
せきを切ったように、広間の四方から再び激しい罵声が飛び交う。彼女は用済みとなったマイクを傍らのメルセデスへと手渡し、蘇った怒号と敵意の渦の中で満足げに微笑んだ。
◇◇◇
いつの間にか、リング上には白黒のストライプシャツを着た男——マツイさんが立っていた。彼はいかなる説明もなくそこに存在し、無感情な瞳で両者の意思を確認する。高く、澄んだゴングの音が大広間に鳴り響いた。
どこからともなく、実況の声が空間を満たす。
「さあ始まりました、大広間特設リング! 放送席の実況は私ガルシア・メンドーサ、解説のオルテガさんとともにお送りします!」
「……よろしく」と、低い声が応じる。誰もその出所に疑問を抱かない。
エルヴィンが動く。細身の体を弾き出し、固く握った右拳を真っ直ぐに突き出した。乾いた打撃音が弾ける。王子の拳が、見下ろす巨体の顔面を正確に捉えていた。ゴルディアーナは一切の防御行動をとらない。まともに被弾し、その首が大きく横へと弾き飛ばされる。
「入ったァ! 王子殿下の右ッ!」
「……いい拳だ。しっかりと当たっている」
エルヴィンは止まらない。反撃を警戒するそぶりすら見せず、がむしゃらに踏み込んで追撃を放つ。二発目。三発目。みぞおちへ重い連撃が突き刺さる。ゴルディアーナの巨体が一歩、後ろへ退いた。
ゴルディアーナが押し返す。王子の腕を掴み、ロープへ振る。跳ね返ってきたところへ肩から体当たり。エルヴィンの体がマットに叩きつけられる。
「ショルダータックル! 王子殿下、吹っ飛んだァ!」
しかしエルヴィンは転がりながら立ち上がる。歯を食いしばり、拳を構え直す。
王子の掌から火球が生まれる。ゴルディアーナへ向けて放つ。炎が弧を描いてリングを横切り、ゴルディアーナの腹に直撃する。衝撃で彼女の体がロープ際まで押し込まれた。
「魔法攻撃ッ! 火球が直撃ィィ!」
「……ルールにはないが、マツイさんが止めないならアリだ」
マツイさん、無表情で腕を組んでいる。止める気配はない。
エルヴィンが畳みかける。もう一発、火球。さらにもう一発。ゴルディアーナはコーナーに追い詰められ、腕を上げてガードする。火の粉がドレスの裾を焦がす。
「いけるぞ!」
「押してる、殿下が押してるッ!」
激しい罵声を上げていた貴族たちが、身を乗り出してリング上の攻防を見つめている。あの巨躯を誇る悪女が、王子の拳と魔法を浴びて確実にダメージを蓄積している。もしかして、殿下が勝つのではないか。
エルヴィンが大きく振りかぶる。全体重を乗せた、渾身の一撃。ごっ、と鈍い音が響き渡り、ゴルディアーナの顎を深く打ち抜いた。彼女の顔が激しく跳ね上がる。効いている。間違いなく、王子の全力が彼女の肉体を揺さぶっている。
しかし、彼女は倒れない。深く沈んだ膝でしっかりとキャンバスを踏みしめ、弾かれた顔をゆっくりと正面へ戻す。そして、頬を赤く腫らしながら——愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「……ようやく、興行の形になってきましたわね」
◇◇◇
ゴルディアーナの右腕が軽くしなり、裏拳がエルヴィンの頬を打つ。パァン、と乾いた音が響く。ただそれだけで、王子の体が宙に浮き、後方のロープまで激しく吹き飛ばされた。ロープに激突して跳ね返り、無様に崩れ落ちそうになるのを彼は必死に堪える。自身の渾身の連打と、無造作な一撃が同じ威力。絶望的な格差が大広間の全員に可視化される。
ゴルディアーナが歩み寄る。ロープにもたれて崩れかけた王子の顔に、ブーツの底を押し当てた。そのまま、ゆっくりと左右に擦る。丁寧に。念入りに。令嬢が靴を磨くような、優雅な所作で。
「顔面ウォッシュゥゥ! 容赦がない!」
「……靴の手入れは淑女の嗜みだからね」
王子は震える足でロープにもたれかかり、血走った目で叫んだ。
「ふざけるな、これは正式な断罪だ!」
「おおっと、王子殿下何か叫んでおりますッ!」
ゴルディアーナは追撃を見送り、リング中央で優雅に小首を傾げる。
「それで? 罪状は何かしら。具体的にどうぞ? 観客の皆さまも聞きたがっていますわ」
「そ、それは……セレスティーヌが言っていた! お前が彼女を虐げたと! それに、領民が苦しんでいるという噂も聞いたし、だいたいお前はかわいげが……!」
「……ガルシアくん、これはダメだ。カンペを読んでるだけだよ」
「し、しかし殿下も必死に言葉を絞り出しており……」
「……そういえばこの王子、例の獣人サーカスの後援者だったな。あの演者を使い潰した興行の」
「興行は演者あってのもの。それを消耗品扱いした人間が、今リングに立っている。皮肉だね」
放送席の声が容赦なくリングに降り注ぐ。ゴルディアーナは一歩も動かない。怒りも同情もなく、ただ興行の質を見定める目でエルヴィンを見ている。
王子は空気が決定的に自分から離れたのを感じ取り、顔を真っ赤にして口を開いた。
「えっと、その、つまり——」
マツイさんが無言で手を上げた。王子に向けて、指を一本突きつける。
「……マツイさん、反則を取りましたね。弁明が冗長ということでしょうか」
「淑女の御前で不明瞭な発言。そりゃ取られるよ」
◇◇◇
ゴルディアーナは片手でエルヴィンの胸倉を掴み、そのまま軽々と彼の体を持ち上げる。宙に浮いた王子の足がバタバタと藻掻くのを意に介さず、彼女は優雅にワルツのステップを踏み始めた。
一回転。二回転。
重厚なドレスを揺らし、リングを舞う。
三回転目。ゴルディアーナはステップをピタリと止める。
空いた手でエルヴィンの顎を強引に掴み、顔を引き寄せる。そして、観衆の目の前で男の唇へ直接キスを落とした。
リップロック。生気を吸い取られるように、王子の目から急速に光が薄れていく。
客席の貴族たちの中で、何かが弾けた。
「落とせ! 落とせ! 落とせ!」
さっきまで悪女と罵っていたはずの観客たちが、総立ちになって熱狂的なコールを送る。自分たちでも理由がわからない。だが、抗いがたい熱のうねりが大広間を完全に支配している。
すかさずマツイさんがゴルディアーナに指を突きつける。反則のカウントが始まる。
ワン。
ツー。
その直後、ゴルディアーナはすっと唇を離した。反則のカウントがスリーへ届く寸前での解除。
「おっとォ、カウントを前にロックを外したッ!」
「……淑女が大衆の前で接吻ですからねぇ。そりゃあ反則も取られます」
支えを失ったエルヴィンが、糸の切れた操り人形のようにぐらりと揺れる。膝が折れ、ロープに絡まって辛うじて立っている。意識はある。だが、もはやまともに動ける状態ではない。
ゴルディアーナが倒れかけの王子へ歩み寄る。
その瞬間。
リングサイドに、セレスティーヌが立っていた。いつ客席を離れたのか。その両手には——どこから持ち出したのか、無骨な一斗缶が握られている。
聖女が振りかぶる。ロープ越しに、ゴルディアーナの後頭部へ一斗缶を叩きつけた。
鈍い金属音が大広間に響く。
ゴルディアーナの膝が折れる。片手がマットを叩く。
「なっ……! セコンドの乱入ッ! 凶器攻撃ィィ!」
客席が爆発する。
「今だ!」
「いけるぞ殿下!」
「立て、立てェ!」
エルヴィンがよろよろと起き上がる。焦点の合わない目に、一瞬だけ光が戻る。拳を握り直す。最後の力で——
ゴルディアーナが立つ。
ゆっくりと振り返り、リングサイドのセレスティーヌを見る。
一瞬の間。
聖女の顔が引きつる。
ゴルディアーナがリングの外に手を伸ばす。メルセデスが無言でパイプ椅子を差し出した。
ゴルディアーナ、パイプ椅子を片手で掲げ、ロープを越えてリングサイドに降りる。セレスティーヌが「ひっ」と後ずさる。
振り下ろす。
カァン! と甲高い金属音が広間を貫いた。
セレスティーヌが崩れ落ちる。「可憐な被害者」の仮面が、パイプ椅子の一撃で物理的に叩き割られた。
「セレスティーヌ、倒れましたッ! リングサイドに転がっております!」
「……さっきまで泣いてた聖女がこれだよ。一斗缶振り回して、パイプ椅子で沈んで。あの可憐な涙はどこに行ったんだろうね」
マツイさんがゴルディアーナに向けて指を立てる。それだけだ。
ゴルディアーナはパイプ椅子をメルセデスに返し、優雅にリングへ戻る。王子に向き直った。
「……なかなか良いセコンドをお持ちでしたわね。過去形ですけれど」
その首を太い腕で抱え込む。腰を落とし、一気に巨大な体躯を反り上げる。
二〇一センチの高さから、さらに上へ。王子の体が完全に逆さまとなり、天井のシャンデリアへと迫る。
そこで、止まる。
「持ち上げたァァァ! 垂直ィィ! ……落とさない!?」
「……見せてるんだよ。観客に」
「まるで塔だ……! シャンデリアに届かんばかりの、二人分の人間の塔ですよォ!」
誰もが呼吸を忘れている。ブーイングもコールも消え失せ、視線だけが天井付近で静止した二人の肉体に釘付けになっている。静寂の中、ゴルディアーナがふわりと微笑む。
「——幕引きですわ」
重力から解放された巨岩のごとく、脳天からマットへと一直線に叩きつける。
「シャンデリア・ブレーンバスタァァァァ!!」
キャンバスが激しく跳ね上がり、衝撃音が広間を揺さぶる。
ゴルディアーナは倒れた王子を見下ろし——カバーに行かない。
代わりに、王子の真上で空気椅子の姿勢を取る。見えない椅子に腰掛けるように、優雅に足を組んで静止する。
マツイさん、動かない。
「レフェリー、カウントしませんッ! どうしたことかッ!?」
「……よく見てごらん。ギリギリ浮いてるよ。空気椅子だ。すごい筋力だなぁ」
リングサイドで、何かが動いた。
パイプ椅子で沈んだはずのセレスティーヌが、よろよろと立ち上がっていた。額から血を流し、「可憐な被害者」の面影はどこにもない。だが目だけが異様に据わっている。
その手には、まだ一斗缶が握られている。
誰も気づいていない。実況席も、観客も、ゴルディアーナも。
振りかぶる。投げる。
「リングの外から一斗缶が飛んできたァッ! 当たったッ! 空気椅子が崩れてッ——カバーだッ! カバーに入ったァ! レフェリーがカウント! みっつーーーッ!!」
カン、カン、カン、カン、カン!
澄んだゴングの音が、熱狂の結末を告げる。
◇◇◇
虚空から、穏やかな凱旋の調べが静かに流れ始める。オーケストラの弦楽器が紡ぐ柔らかな旋律の中、リングアナウンサーの声が大広間に響き渡る。
「勝者! ゴルディアーナ・ヴァン・ベルクヴァルトォォッ!」
歓声はない。ブーイングすらない。圧倒的な熱狂に一度は呑み込まれた貴族たちは、我に返って深い沈黙を落としている。恐ろしい現実を前に、誰一人として声を出すことができない。
リングの中央で、ゴルディアーナは客席へ向けて静かに一礼する。背筋を伸ばし、ドレスの裾をつまむ。先ほどまで王子の頭蓋を床に叩きつけていたとは思えない、公爵令嬢としての完璧な所作である。ゆっくりと顔を上げ、静寂に包まれた広間を見渡して呟いた。
「……本日の観客、少々上品すぎますわね。もう少し——荒れた興行を期待しておりましたのに」
踵を返し、ゆっくりと花道を下っていく。彼女が扉の向こうへ姿を消した瞬間。特設リングも、白黒シャツの男も、実況席も、オーケストラの響きも。大広間を支配していたすべてが、幻のように虚空へ溶けて消滅した。何事もなかったかのように、会場はもとの見慣れた卒業記念パーティーの光景へと戻っている。
冷たい石床の上には、気を失って転がったままのエルヴィンが残されている。その傍らで、額から血を流したセレスティーヌが膝をついている。しかし、周囲を取り囲んでいた取り巻きたちは、誰一人として動かない。
18分36秒 シャンデリア・ブレーンバスター→ティータイム固め
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