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離縁なんて許さない



 イリアは自室の机に座り、結婚請願書の白い紙を前にして迷っていた。


 羽根ペンを握ってみるが、どうしてもサインできない。心の奥でふくらむのは、ためらいばかりだった。


(このまま、本当に結婚して……大丈夫だろうか)


 彼はリゼットと結婚したときと同じように、義務を果たそうとしているだけではないのか。


 最初はその義務すら放棄していたのだから、イリアにとって喜ぶべき歩み寄りなのに、ためらうのはやはり、フェイランの傷ついた目を見てしまったからだ。


 とうとう、羽根ペンを投げ出した。胸が苦しくて、どうにもサインする気になれない。


「イリア様、お庭へ出かけられますか?」


 そばに控えていたエルザが話しかけてくる。


 さっさとサインを書いて、フェイランのもとへ届けたかっただろうに、嫌味のひとつも言わず、どうしたことだろう。


「あなたの仕事を邪魔してるわけじゃないの」

「陛下の心を動かしたのは、イリア様だけです」


 イリアは面食らってしまった。


「何を言うの」

「これまでの無礼、大変申し訳ございませんでした。陛下がこれ以上傷つくお姿を見るのは忍びなく、田舎から来た側妃様がすぐに見限られるようにと、わざと……誤った礼をお教えしましたことも」


 エルザはまぶたを伏せて頭を下げた。


「……そうだったの」


 すっかり驚いたイリアだが、エルザが急に態度を改めた理由にようやく気づいた。


「エルザ……あなたには、肩身の狭い思いをさせてるわね」


 エルザほどに卒のない仕事をする侍女なら、側妃の面倒を見るなど、屈辱だろう。今まで、それに気づかず、ねぎらうことはなかった。


 結婚請願書を見て、少しはエルザも認めてくれたのかもしれないと、イリアは素直に謝罪した。


 エルザはいつものように無表情で返事をしなかったが、肩にショールをかけてくれた。細やかな気づかいに、イリアは礼を伝えると、バルコニーから庭園へと足を踏み出した。


 朝露に濡れた芝生を歩くと、ひんやりとした空気が少しだけ心を落ち着ける。


 イリアはふと、足を止めた。


 青々と繁る樹木の葉の奥に、フェイランが立っていた。彼はイリアに気づくと、静かに歩み寄ってくる。


「このようなところで……どうされたのですか?」


 フェイランは城内でさえあまり歩き回らない。まして、執務室から遠い庭園に来る理由は見当たらなかった。


 彼はわずかに口もとをゆるめて笑った。


「あなたに会いに来たのだ」

「……陛下、そんな、恐れ多いことを」


 イリアがすぐさま身を引いて頭をさげると、彼はサッと彼女の手をつかんだ。


「……書いたか?」


 すぐに、結婚請願書のことを言っているのはわかった。イリアは小さく息を飲み、ためらいながら答えた。


「それが……陛下……陛下にお願いがございます」

「聞こう」

「……私は、陛下の幸せを願っております」


 イリアは顔をあげ、フェイランを見つめた。まぶしい朝の光を浴びる彼は穏やかな目をしていた。


 彼は変わった。どうしてかはわからない。しかし、だからこそ、イリアは言わなければいけなかった。


「陛下は、人を愛することができるお優しいお方です。ですから……、リゼット様と今一度お話になられて、愛する方と結婚してください」

「いま……何を言った?」


 フェイランは衝撃を受けた顔をしていた。


「……はい。出過ぎた真似をしていることはわかっています。どのような処分も甘んじて受け入れます。ですが、私は陛下にどうしてもお幸せになっていただきたいのです」

「だから、あなたはどうするのだ」

「……お許しいただけるなら、父のもとへ帰してください。私は……愛する方を思い、ひっそりと生きてまいります」

「愛する男とは誰なのだっ! 言え、イリア!」


 フェイランは眉間にしわを寄せ、その整った顔を嫉妬と怒りで歪ませた。


 その姿はまるで、手に入らないものを力ずくで奪おうとする獣のようだった。彼がこんなふうに感情を見せるとは思ってもみなかった。


「それは……申し上げられません」

「なぜだ……」


 フェイランはうなり声をあげると、あっという間にイリアを抱き寄せ、強く強く抱きすくめると唇を重ねた。


「離縁する気か? そんなことを言うな、イリア」

「離縁も何も、私たちは……」

「私の心をこれほど乱しておいて、あなたは何もないというのかっ」


 心臓が跳ね、体中に血が一気に駆け巡った。イリアは目を見開いたまま、息を忘れた。


 そのとき、背後でガサガサと木の葉が揺れ、どこからか、かすかな花の香りがした。


 この香りは、どこかで嗅いだことのある香水の匂い。まさか──


「リゼット……、なぜここに」

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