離縁なんて許さない
*
イリアは自室の机に座り、結婚請願書の白い紙を前にして迷っていた。
羽根ペンを握ってみるが、どうしてもサインできない。心の奥でふくらむのは、ためらいばかりだった。
(このまま、本当に結婚して……大丈夫だろうか)
彼はリゼットと結婚したときと同じように、義務を果たそうとしているだけではないのか。
最初はその義務すら放棄していたのだから、イリアにとって喜ぶべき歩み寄りなのに、ためらうのはやはり、フェイランの傷ついた目を見てしまったからだ。
とうとう、羽根ペンを投げ出した。胸が苦しくて、どうにもサインする気になれない。
「イリア様、お庭へ出かけられますか?」
そばに控えていたエルザが話しかけてくる。
さっさとサインを書いて、フェイランのもとへ届けたかっただろうに、嫌味のひとつも言わず、どうしたことだろう。
「あなたの仕事を邪魔してるわけじゃないの」
「陛下の心を動かしたのは、イリア様だけです」
イリアは面食らってしまった。
「何を言うの」
「これまでの無礼、大変申し訳ございませんでした。陛下がこれ以上傷つくお姿を見るのは忍びなく、田舎から来た側妃様がすぐに見限られるようにと、わざと……誤った礼をお教えしましたことも」
エルザはまぶたを伏せて頭を下げた。
「……そうだったの」
すっかり驚いたイリアだが、エルザが急に態度を改めた理由にようやく気づいた。
「エルザ……あなたには、肩身の狭い思いをさせてるわね」
エルザほどに卒のない仕事をする侍女なら、側妃の面倒を見るなど、屈辱だろう。今まで、それに気づかず、ねぎらうことはなかった。
結婚請願書を見て、少しはエルザも認めてくれたのかもしれないと、イリアは素直に謝罪した。
エルザはいつものように無表情で返事をしなかったが、肩にショールをかけてくれた。細やかな気づかいに、イリアは礼を伝えると、バルコニーから庭園へと足を踏み出した。
朝露に濡れた芝生を歩くと、ひんやりとした空気が少しだけ心を落ち着ける。
イリアはふと、足を止めた。
青々と繁る樹木の葉の奥に、フェイランが立っていた。彼はイリアに気づくと、静かに歩み寄ってくる。
「このようなところで……どうされたのですか?」
フェイランは城内でさえあまり歩き回らない。まして、執務室から遠い庭園に来る理由は見当たらなかった。
彼はわずかに口もとをゆるめて笑った。
「あなたに会いに来たのだ」
「……陛下、そんな、恐れ多いことを」
イリアがすぐさま身を引いて頭をさげると、彼はサッと彼女の手をつかんだ。
「……書いたか?」
すぐに、結婚請願書のことを言っているのはわかった。イリアは小さく息を飲み、ためらいながら答えた。
「それが……陛下……陛下にお願いがございます」
「聞こう」
「……私は、陛下の幸せを願っております」
イリアは顔をあげ、フェイランを見つめた。まぶしい朝の光を浴びる彼は穏やかな目をしていた。
彼は変わった。どうしてかはわからない。しかし、だからこそ、イリアは言わなければいけなかった。
「陛下は、人を愛することができるお優しいお方です。ですから……、リゼット様と今一度お話になられて、愛する方と結婚してください」
「いま……何を言った?」
フェイランは衝撃を受けた顔をしていた。
「……はい。出過ぎた真似をしていることはわかっています。どのような処分も甘んじて受け入れます。ですが、私は陛下にどうしてもお幸せになっていただきたいのです」
「だから、あなたはどうするのだ」
「……お許しいただけるなら、父のもとへ帰してください。私は……愛する方を思い、ひっそりと生きてまいります」
「愛する男とは誰なのだっ! 言え、イリア!」
フェイランは眉間にしわを寄せ、その整った顔を嫉妬と怒りで歪ませた。
その姿はまるで、手に入らないものを力ずくで奪おうとする獣のようだった。彼がこんなふうに感情を見せるとは思ってもみなかった。
「それは……申し上げられません」
「なぜだ……」
フェイランはうなり声をあげると、あっという間にイリアを抱き寄せ、強く強く抱きすくめると唇を重ねた。
「離縁する気か? そんなことを言うな、イリア」
「離縁も何も、私たちは……」
「私の心をこれほど乱しておいて、あなたは何もないというのかっ」
心臓が跳ね、体中に血が一気に駆け巡った。イリアは目を見開いたまま、息を忘れた。
そのとき、背後でガサガサと木の葉が揺れ、どこからか、かすかな花の香りがした。
この香りは、どこかで嗅いだことのある香水の匂い。まさか──
「リゼット……、なぜここに」




