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冷徹な陛下が隠していた心の傷

***



 朝靄の残る中庭を、白い鳥が横切っていった。


 イリアはその姿を見送りながら、冷たく濡れた石畳を歩いていた。フェイランの寝室から戻るところだった。


 ただ同じ部屋で夜を過ごす──それだけの日々が、もう何日続いているのかわからない。今では、最初の夜のような緊張も、胸を刺すような羞恥も薄れていた。


「イリア様、いまだご懐妊の兆候はないのかと、王妃陛下が案じておられるようです」


 自室に戻り、ひと息つこうとソファーへ身を預けたところで、エルザが話しかけてくる。


「良き報告ができるよう務めております……とお伝えして」

「わかりました。そのように」


 相変わらず表情の乏しい侍女だが、その目からは、イリアを"子を産むための道具"と見下していることがありありとわかった。


 それなのに、それすらいまだに許されていないと知られたら、ますますないがしろにされるのではないだろうか。


 そろそろ、何か手を講じないといけないが、フェイランを思い出すと、これ以上の歩み寄りを急ぐ必要はないのではないかとも思えている。


 あの広いベッドの上で、彼は一度も振り返らない。それは拒絶にほかならないが、それでもイリアは、彼とほんの少し交わすあいさつ程度の会話ですら、心が落ち着いていくのを感じていた。


 まるで、穏やかな夢の中にいるようで、この生活を壊したくない、そんな思いもあった。


 エルザが無言でティーポットを置く。その動作は丁寧で、乱れがない。侍女としては格別に優秀だ。


 しかし、こちらを疲弊させる何かが彼女にはある。イリアは耐えきれず、口を開いた。


「エルザ……もう一人、侍女をつけていただけないかしら。あなたも、ずっとつきっきりでは疲れるでしょう?」


 エルザはティーカップを並べる手を止めず、淡々と答える。


「お気づかいは無用でございます。陛下からお世話を任じられたのは、この私だけです。ほかの者では務まりません」


 その声音には、“あなたのような側妃の相手など、誰がしたいものですか”とでも言いたげな棘があった。


 イリアは唇を噛みしめ、ここへ来た日のことを思い出した。


 エルザはわざと間違った礼を教えた。


 いずれ捨てられる側妃をあてがわれた腹いせか、フェイランの前で恥をかかせようとしたのは間違いない。指摘してやりたい衝動がのどまでこみ上げたが、どうにか飲み込んだ。


 言い返しても、みじめになるだけだ。そう自分に言い聞かせた。


 紅茶の香りが立ちのぼるカップを口もとに運ぶ。上等な茶葉のはずなのに、イリアの舌には苦く感じられた。


 沈黙が長く続いたのち、イリアは思い切って言葉を選ぶように口を開いた。


「……あなたは陛下のそばでずっと仕えているのでしょう?」

「はい」

「では……、教えてもらえるかしら。陛下はどのような方なの?」


 エルザは珍しく、少しだけ表情を曇らせた。


「……フェイラン国王陛下は、もともと王位に就くはずではありませんでした。王太子の弟としてのびのびとお育ちになり、書物を好まれ、剣よりも筆をとる方でした」


 意地悪で何も教えてくれないかもしれないと覚悟していたが、意外にもエルザはすらすらと答えた。


「ウルリック王太子殿下のご不幸は存じています」


 あのときはとてつもない騒ぎだった。


 エストレア王国の若き獅子と言われた、第一王子ウルリック・アーデン。有能で、民にも慕われていた。その彼が乗馬の事故で亡くなったのは、記憶に新しい。


「ウルリック殿下亡きあと、国王陛下ならびに王妃陛下が相次いでみまかられ、王位は突然、フェイラン殿下のものに。即位ののち、陛下はそれまでのご性分を捨て、誰にも心を開かれなくなりました」


 その言葉には、どこか哀れみが含まれていた。


 イリアは胸の奥が痛むのを感じた。


 そうだったのか。彼が傷ついているように見えたのは、近しい家族を短い間に失ったからなのか。


「リゼット王妃陛下とのご成婚で、陛下はますます……」


 そこでエルザは、言葉を切った。代わりにティーポットを持ち上げ、表情を戻す。


「いえ、余計なことを申し上げました」


 その声はどこまでも平坦で、いつものように冷ややかだった。まるで、何も聞かれたくないと拒絶するように。


 彼女も同じなのだろうか。フェイランのように、何かに傷つき、心を閉ざしている……。


 エルザは何を言いかけたのだろう。


 フェイランはリゼットとの結婚で、ますます……自分の殼に閉じこもってしまったのか。だとしたら、ふたりの間にはいったい、何があったのだろうか。


 イリアは居ても立ってもいられず、日が暮れるとすぐに、フェイランの寝室を訪ねていた。


 扉を叩いても返事はない。けれど、それにも慣れてしまっていた。


 そっと扉を開くと、ソファーにもたれるフェイランの横顔が見えた。手には公文書を握り、目を閉じている。テーブルの上には公文書の束がある。ほんの少し、休息を取っているのだろう。


 イリアはそっと部屋の中へと入る。ランプに明かりを灯し、今にもフェイランの手からするりと落ちてしまいそうな公文書をつかんだとき、彼のまつげがかすかに揺れた。


 起こしてしまっただろうか。身を引こうとして、イリアはハッと息を飲む。


 フェイランは泣いているようだった。涙を見せず、つらそうにまぶたを震わせている。悪夢を見ているのかもしれない。


 はやく彼を救い出したい。その思いが胸にこみ上げ、とっさにイリアは呼びかけていた。


「……陛下」


 フェイランがびくりと顔をあげる。その瞳に、痛みを隠すかのような動揺が走った。


「申し訳ございません……。あまりにも……おつらそうで、つい……」


 イリアの声は震えていた。とんでもない無礼を働いたのではないか。いくら優しいフェイランといえども、踏み込まれたくない領域を侵したのではと、ひるんだ。


 フェイランは目を伏せ、長く息を吐く。灯りの揺らめきの中で、その横顔はひどく儚げに見えた。


「この国は……私を選んだわけではない」

「陛下……」


 イリアは否定するように小さく首を振るが、彼は小さな声でつぶやくように言った。


「死んだ兄の代わりに、私はここにいるだけなのだ。国の形を保つためだけに、私は王という称号を与えられた」


 その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。


 イリアは胸の前で手を握った。どんななぐさめの言葉も見つからなかった。ただ、彼の孤独を見てしまった痛みだけが胸に残る。


「……もし、ほんの少しでもお心が楽になるなら、私に聞かせてください」


 フェイランの目はうつろだった。しかし、一度まばたきをすると、正気に返ったような輝きが浮かんだ。


「あなたに背負わせるものはない」


 その声音には、優しさとあきらめが混じり合っていた。


 彼は公文書をテーブルの上に戻すと、ゆっくりと立ち上がり、いつものように奥にあるベッドへとひとり向かった。


 イリアはそれ以上何も言えず、黙ってあとを追った。

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