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心を癒すは陛下のぬくもり



 夜になると灯りが次々と消え、王宮内は一段と冷えた。月も雲に隠れ、エルザの掲げるランプの灯りだけを頼りに、イリアは階段を昇った。


 ローブの下には、驚くほどに薄っぺらいリネンドレスしか身につけていなかった。


 夜更けに陛下の部屋を訪ねるのに豪華なドレスは必要ないと言われている気がして、胸がドクドクと音を立てている。


──世継ぎを産んだら、子を置いて去れ。


 リゼットの言葉が耳の奥で何度も反響する。そのたびに、心が締めつけられた。


 どんな理由であれ、側妃になる道を選んだのは自分だ。それならせめて、言いなりのままではなく、彼と向き合いたいと思っていた。


 しかし、こうしていざ、陛下の寝室を目の前にすると、そんなことはどうでもよく、今夜起きることに対する不安しかなくなっていた。


「イリア様、どうぞ中へお進みください。私はこちらでお待ちしております」


 今日一日、エルザと過ごしたが、彼女はずっと冷淡だった。


 今もそうであるにもかかわらず、いてくれるのだと思うだけで心強かった。それだけで、想像以上に自分は不安になっていたのだとわかった。


「……朝まで、来なくていいわ」


 イリアは強がるように胸を張った。


 側妃としてのつとめは必ず果たさなければならない。陛下に拒まれたなどという不名誉で、侍女に軽んじられることは、決してあってはいけなかった。


 エルザは感情を悟らせない表情のまま、一礼して身を引いた。小さなランプの灯りが遠ざかる。


 真っ暗闇に取り残されてしまいそうで、イリアは急いで扉をノックした。


 重厚な扉はびくりともせず、ノックの音は夜気に吸い込まれていく。


 すべての音が自身の息づかいでかき消されているのではないか。不安になるほどの静寂の中に、ようやくかすかな音が聞こえた。


「……入れ」


 フェイランの声だと安心すると同時に、緊張が込み上げた。しかし、逃げ出すわけにはいかない。


 イリアは静かに扉を押し開けた。


 部屋の中には、香の匂いが満ちていた。フェイランも休むところだったのだろう。長い髪を一つに束ね、金糸のローブを羽織っていた。


 彼はイリアを見ても、表情ひとつ変えなかった。新しい妃が訪れることはわかっていたようだった。


 沈黙に耐えかねて、イリアは声を絞り出す。


「陛下……、お話をしたくて参りました」

「夜分に来るものではない」


 フェイランは小さな息を一つついた。


 恐ろしく機嫌を悪くしたようではなかった。イリアはほっと息をつく。優しい人ではあるのかもしれない。


「……申し訳ございません。ですが、私には私の務めがございます」

「あいにく、私に世継ぎはいらぬのだ」

「え……?」


 イリアはぽかんとしたが、すぐにハッと口を閉じて、目を伏せた。


(いま、なんて言ったのかしら。……世継ぎはいらないって、聞こえた気がしたけれど)


「臣下たちは勝手に騒ぎ立てているが、私亡き後、この国をどう導いていくかはすでに考えてある」


 フェイランが近づいてきて、肩に触れてくる。

 びくりと顔をあげると、彼は目をのぞき込んできた。


 無気力な瞳はかすみがかっているが、それさえ取り払えば、どこまでも無垢な色をしているように見える。


 そこに、エストレアの未来を考えない薄情さはない。肩に触れる指先は決して病弱ではなく、深夜に寝室を訪れたイリアをめんどくさがる怠惰さもない。


(この人は……何かに傷ついてるのかしら)


 それは直感でしかなかったが、イリアは急速に、フェイランという男への興味が向いた。


「部屋へ戻りなさい。そしてもう二度と、私の前へ姿を見せてはいけない」

「私に……どうしろと?」


 頼れるもののいない王宮で、どう暮らしていけというのか。


「王都のはずれに、屋敷を建てさせよう。静かな場所だ。自然豊かな伯爵領で育ったあなたなら、きっと気に入るであろう」


 イリアは思わず、彼にすがりつくように手に触れた。


 理解が追いつかない。


 リゼットは、世継ぎを産んだら離縁だと言った。それすらかなわないなら、王都のはずれでただひとり、死ぬまでひっそりと暮らせというのか。


 どんなに立派な屋敷を与えられたとしても、そんな日々は何ひとつ望んではいなかった。


「なぜ……ですか。私は陛下の妃として、仕えるためにここへ来たのです。なのに、なぜ、そんな……」


 フェイランは視線をそらした。


 月光が彼の横顔を淡く照らす。まるで、遠い過去を見ているように、希薄だった。つかみどころがなく、イリアをやきもきした気分にさせる。


「……それが、あなたにとって一番平穏だからだ」

「平穏……?」

「王宮は、静かに暮らすことを許さない場所だ。あなたはそれを、まだ知らないだろう」


 その声には疲労がにじんでいた。何を話しても無駄だ。彼はすでにあきらめている。


「私は……、そんなにも頼りなく見えますか?」

「このような王に仕えたいというのだから、哀れな娘だとは思う」

「そう思うのでしたら、朝までここにいさせてください」


 力強く胸に手をあてると、フェイランは少々驚いたように一度だけまばたきをし、背を向けた。


「好きにしなさい。私は別の部屋で休むとしよう」


 彼は部屋を出て行こうとした。


 イリアはなりふりかまってはいられなかった。


 リゼットの叱責、エルザの嘲笑。そういうものを恐れるよりも先に、どういうわけか、フェイランを放っておけなかった。


「待ってくださいっ。どうか……どうか、陛下と同じ時を過ごさせてください」

「同じ時を、か」

「はい。陛下のことをもっと知りたいのです。これからずっと、お支えするべく……」


 ずいぶんと、ずうずうしい申し出をしてしまった。いずれは離縁するのだがら、情など必要ないのに。


 後悔で押しつぶされそうになっていると、フェイランがほんの少し笑ったような気がした。


「あなたの期待に応えることはないが、あなたにはあなたの矜持があるのだろう。それを守るのも、私の役目ではあるのかもしれない」

「では……」

「こちらで休むがいい。今夜は特に冷える」


 そう告げると、フェイランは部屋の奥へと向かった。イリアはあわててあとを追う。


 金糸の刺繍が鮮やかな布の垂れ下がるベッドの前で、フェイランは静かにローブを脱ぐ。


 彼がベッドに横たえると、イリアも震える指でローブのひもをほどいた。薄布一枚の身が、夜気にさらされてぞくりと震えた。


 ぬくもりを求めるようにベッドにもぐり込むが、フェイランはこちらに背を向けたまま、微動だにしない。


 手を伸ばせば届く距離なのに、彼の気配は遠く、深い霧の向こうにいるようだった。


 イリアはためらいながらも、少しだけ身を寄せてみた。


 ほんの一瞬、彼の背中にほおが触れた。驚くほどあたたかかった。


「……私が、面倒ではないのか」


 フェイランはわずかに息を吐いた。


「お優しい方で……安心しています」


 自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。


 今日一日、慣れない王宮で気を張っていた。それがようやく、気を許してほっとひと息つけるような、そんなあたたかな夫のそばにいられる時間が、イリアの心をなぐさめたのだろう。


 フェイランは黙ったままだった。


 しかし、彼もすぐに寝入ったようだった。静かな呼吸の音が、ゆっくりと夜の静寂に溶けていく。イリアもまた、そっとまぶたを閉じた。

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