第4話 猶予期間
発表から三日が過ぎた。
日本は、まだ静かだった。
混乱は収束していない。
ただ、爆発していないだけだ。
街は動いている。
電車は走り、店は開き、ゴミは回収される。
だが、そこに以前の雑音はない。
人々は、必要以上に話さない。
誰もが、同じ数字を抱えている。
半年。
猶予期間。
それは救いではない。
延期された判決だ。
朝、ある男はいつもの時間に目を覚ました。
目覚ましは鳴っていない。
それでも、身体が起きる。
止まることが、怖くなっていた。
洗面所で顔を見る。
変わっていない。
だが、見返してくる視線が違う。
数字で測られる側の顔だ。
スマートフォンには、通知が並ぶ。
勤務時間の記録開始。
移動時間の補足申請。
成果入力の未完了。
アプリの色は淡い。
警告色は使われていない。
だが、それが余計に圧をかける。
「……もう始まってるのか」
声は小さい。
誰に聞かせるでもない。
通勤電車の中は、異様に整っていた。
押し合いはない。
譲り合いもない。
ただ、距離が保たれている。
フォルティシアンが、車両の端に立っている。
人間ではない。
だが、人の大きさから大きく外れてもいない。
視線を動かさない。
それでも、周囲の動きが揃っていく。
会社に着くと、空気が張り付いていた。
雑談はない。
コーヒーの匂いも薄い。
全員が、時計を意識している。
上司が、短く言う。
「今日から成果の定義を変える」
説明はそれだけだ。
誰も質問しない。
質問は、時間を使う。
別の場所では、違う朝が始まっていた。
事務員の女は、帳簿を開いたまま動かない。
売上ではない。
作業時間と成果率の欄を、どう埋めるかで止まっている。
「……休んでた時間、全部引かれるのか」
答えは分かっている。
だから、誰にも聞けない。
役所の窓口では、相談が増えていた。
だが、職員の声は抑えられている。
大きな声は、成果に繋がらない。
フォルティシアンは、ただ立っている。
介入しない。
だが、場が荒れない。
午後になると、別の現象が現れる。
人が、掛け持ちを考え始める。
短時間。
成果が見えやすい仕事。
選択は、急速に合理化される。
夢や適性は、後回しだ。
夕方、ニュースが流れる。
経済指標は、安定している。
市民型ヒューマノイドの消費活動が、下支えしていると説明される。
画面の中で、揃った動きの買い物客が、商品を手に取る。
楽しみながら買い物をする。
美味しそうに飲食をする。
観光地で思い出の一枚を撮る。
それを見て、人々は複雑な顔をする。
羨ましさではない。
敗北感でもない。
自分が、いなくても回るという事実への、静かな恐怖だ。
夜、家に戻ると、疲労が違う形で残る。
身体ではない。
頭だ。
何時間、動いたか。
どこで、手が止まったか。
成果は、何パーセントか。
考え続けてしまう。
寝る前、アプリが一日の暫定値を表示する。
達成率。
不足時間。
改善提案。
叱責はない。
慰めもない。
ただ、数字がある。
多くの人が、その夜、同じことを思った。
半年は、短い。
だが、終わりではない。
この期間に、何かを決めなければならない。
続けるか。
切り替えるか。
落ちるか。
猶予期間は、準備期間ではない。
選別期間だ。
社会は、静かに呼吸を整え、
次の段階へ向かおうとしていた。
数字は、逃げ場を残さなかった。
男は、何度も資産一覧を見直した。
預金。
保険。
投資信託。
退職金の見込み。
合算しても、清算額には届かない。
マンションを売却しても同じだ。
評価額は現実的で、希望的ではない。
アプリが、淡々と次の表示に切り替わる。
「資産整理後の未清算額1億1700万円」
男は、画面を伏せた。
これ以上、数字を見る意味がなかった。
数秒後、続きが表示される。
「未清算額は月次支払い義務へ移行します」
月次。
毎月。
期限のない言葉だ。
「支払額はテンモ指標収入の一定割合です」
割合は明示されている。
30パーセント。
計算は簡単だ。
年収約100万円。
月に83000円。
その3割。
「……25000円」
返せるかどうかではない。
返しても、終わらない。
画面の下に、小さな注意書きが追加される。
「本義務は債務ではありません」
男は眉をひそめる。
なら、何だ。
「未清算労働差額です」
言葉は柔らかい。
意味は重い。
「本義務は相続対象です」
そこで、思考が止まった。
相続。
子ども。
家族。
男は、ゆっくりと椅子にもたれる。
自分の代で終わらない。
終わらせられない。
強制相続。
放棄不可。
注釈が、静かに並ぶ。
アプリは、続ける。
「相続人が支払いを拒否した場合、当該相続人は生活保護階層へ自動移行します」
罰ではない。
救済でもない。
処理だ。
男は、家族の顔を思い浮かべる。
説明できる言葉が、見つからない。
謝罪では足りない。
約束も、できない。
外に出ると、街は静かだった。
店は開き、灯りは点いている。
市民型ヒューマノイドが、買い物をしている。
迷いのない動き。
滞留のない列。
人間の足取りだけが、重い。
会社では、成果の掲示が更新されていた。
数値が並ぶ。
誰かが上がり、
誰かが下がる。
年齢は関係ない。
過去も、関係ない。
今、動いているかどうかだけが残る。
昼休み。
誰も話さない。
話す時間は、成果に含まれない。
フォルティシアンが、会社の前に立っている。
人間ではない。
だが、人の大きさから大きく外れてもいない。
視線を動かさない。
それでも、場は荒れない。
夜、男は家族に切り出そうとして、言葉を飲み込む。
清算不能。
月次支払い。
相続。
どこから話せばいいのか分からない。
スマートフォンが、振動する。
今日の暫定値が更新された通知だ。
達成率。
不足時間。
月次支払い予定額。
猶予残日数が、また一つ減る。
半年は、確かに短い。
だが、この制度は、半年で終わらない。
人々は、ようやく理解し始める。
これは一時の混乱ではない。
生き方の問題だ。
そして、選択は迫られている。
適応するか。
それとも脱落するか。
猶予期間は、
静かに、確実に、
人を分けていく。
夜明け前、通知は一斉に配信された。
警告色は使われていない。
淡い背景に、短い文だけが並ぶ。
「重要なお知らせ」
人々は、それを開く。
半ば無意識に。
逃げられないことを、もう知っている。
文面は、簡潔だった。
「未清算状態での死亡は清算完了を意味しません」
そこで、指が止まる。
理解が追いつかない。
だが、続きを読まずにはいられない。
「当該個体は死亡時点から十年前の状態で再生されます」
説明は、それだけだった。
倫理も。
理由も。
同意の確認もない。
例外なし。
注釈に、その四文字が添えられている。
部屋の中で一人笑った。
乾いた音だった。
次の瞬間、嗚咽に変わる。
五十五歳の男は、椅子から立ち上がれずにいた。
再生。
十年前。
四十五歳。
時間が戻る。
だが、数字は戻らない。
清算額。
未清算額。
月次支払い。
相続。
すべて、そのままだ。
アプリが、追記を表示する。
「再生後も未清算労働差額は保持されます」
男は、画面を見つめた。
逃げ道として想像していたものが、
出口ではなかったことを、ようやく理解する。
別の場所では、別の反応が起きていた。
若い男が、スマートフォンを投げる。
壁に当たり、音を立てて落ちる。
「ふざけるな……」
怒鳴る声は、部屋の中で消える。
フォルティシアンが、家の前に立っている。
動かない。
介入しない。
必要がないからだ。
会社では、ざわめきが起きた。
休職。
自殺。
それらが、出口にならないと知った瞬間、
空気が変わる。
人は、壊れるか、折れるか、計算を始める。
第三の選択肢は、ほとんど残されていない。
昼過ぎ、ミサが短い声明を出す。
映像は使われない。
文字だけだ。
「死亡は
制度の対象外では
ありません」
それ以上は、語られない。
十分だった。
街では、変化が起きる。
屋上の縁から、人がいなくなる。
踏切の前で、立ち止まる者が減る。
死が、解決にならないと知った社会は、
別の静けさを手に入れる。
男は、再びアプリを開く。
問い合わせる気はない。
答えは、もう出ている。
表示されているのは、
今日の暫定値。
達成率。
月次支払い予定額。
数字は、小さい。
だが、終わりがない。
十年前に戻っても、
同じ数字を積み上げるだけだ。
違うのは、猶予が少し増えることだけ。
男は、深く息を吸う。
そして、吐く。
理解した。
この制度は、罰ではない。
救済でもない。
回収だ。
これまで社会が取り逃してきたものを、
時間ごと、秒ごと、
取り立てる仕組み。
人は、逃げられない。
死んでも、終われない。
それでも、生きている。
生き続けるしかない。
猶予期間は、
この瞬間から、
性質を変えた。
それは準備ではない。
覚悟を固める時間だ。
そのニュースは、昼の定時枠で流れた。
速報ではない。
テロップも、刺激的ではない。
淡々と、事実だけが並ぶ。
画面には、駅名が映っている。
通勤路線。
誰もが知っている場所だ。
「本日未明、首都圏の鉄道路線において、人身事故が発生しました」
アナウンサーの声は落ち着いている。
感情はない。
必要がない。
「当該人物は清算未了の状態で死亡が確認されましたが、新管理体制の規定に基づき、死亡時点から十年前の状態で再生されました」
画面が切り替わる。
白い背景に、文字だけが表示される。
再生確認 完了
再生時年齢 四十歳
視聴者の多くは、そこで息を止める。
知ってはいた。
だが、実例を見るのは初めてだった。
「なお当該事故に伴う鉄道会社への損害については、再生後の本人に対し全額請求されます」
数字が表示される。
運行停止時間。
影響人数。
算定された賠償額。
数千万円。
「……増えてる」
誰かが、呟く。
清算額に、さらに上乗せされた。
死は、軽くならない。
重くなる。
「賠償金は未清算労働差額に加算され、月次支払い義務として引き続き適用されます」
アナウンサーは続ける。
「新管理体制は本件について、制度の適正な運用であるとの見解を示しています」
画面の隅に、小さく表示される。
例外なし
ニュースは、次の話題に移る。
天気。
経済。
海外情勢。
だが、視聴者の意識は、そこに戻らない。
駅では、何十体ものフォルティシアンが立っている。
ホームの端。
人の流れの外側。
人間ではない。
だが、人の大きさから大きく外れてもいない。
人々は、自然と一歩下がる。
誰かに命じられたわけではない。
理解しただけだ。
死は、出口ではない。
迷惑と、負債を増やすだけだ。
五十五歳の男は、テレビを消した。
音が、やけに大きく感じられたからだ。
再生。
賠償。
加算。
頭の中で、言葉が繋がる。
制度は、感情を持たない。
だが、結果だけは確実に返してくる。
アプリが、静かに更新される。
社会的注意事項。
再生事例 一件追加。
男は、スマートフォンを伏せる。
考えることは、もう決まっていた。
生きる。
逃げない。
終わらせない。
選択ではない。
条件だ。
街は、変わらず動いている。
電車は走る。
店は開く。
市民型ヒューマノイドが、買い物をする。
世界は、誰かの死で止まらない。
だが、誰かの死は、
確実に加算される。
猶予期間の意味が、
ここで完全に書き換えられた。
それは、
逃げ道を探す時間ではない。
どう生き続けるかを決める時間だ。
4月3日まで、毎週金曜日21時に更新します。
評価をくれると、励みになります。
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