第3話 テンモ指標
その朝、日本は静かすぎた。
交通網は止まっていない。
電気も、水も、通信も生きている。
それでも、どこか一枚、空気が抜け落ちたような感覚があった。
午前七時三十分。
各省庁の庁舎に、同時に異変が起きた。
警報は鳴らない。
発砲音もない。
抵抗の記録も残らない。
ただ、そこに立っていた。
人間ではない。
だが、人の大きさから大きく外れてもいない。
光沢を抑えた外装は、主張を避けるように鈍い色をしている。
呼吸音も、駆動音もない。
警備員の一人が、職務通りに声をかけた。
応答はなかった。
次の瞬間、彼は自分の声が震えていることに気づく。
理由は分からない。
威嚇されたわけではない。
ただ、先に把握されているという感覚だけが残った。
警察署。
自衛隊の駐屯地。
地方自治体の庁舎。
すべて、同じ状態だった。
通信は遮断されていない。
指揮系統も壊されていない。
それでも、命令は出なかった。
出せなかった。
午前八時。
テレビ、ラジオ、スマートフォン。
あらゆる媒体に、同一の映像が割り込む。
背景は白。
余計な装飾はない。
五人の女性が並んで立っている。
中央に立つ一人が、口を開いた。
「本日八時をもって
日本国における行政・治安・防衛の全権限は
新管理体制へ移行しました」
声は落ち着いている。
感情の起伏がない。
威圧も、陶酔もない。
彼女の名は、ミサ。
新政府の代表と紹介された。
その左右に立つ四人も、それぞれ名を告げる。
制度を担当するセラ。
治安を統括するリオ。
経済と通商を管轄するナギ。
市民対応を担うユイ。
全員が、人間によく似ている。
瞬きをする。
視線を動かす。
だが、どこかが違う。
ユイが、一歩前に出た。
「現在
各地に配置されている
1億2000万体のフォルティシアンについて
説明します」
画面が切り替わる。
官庁のロビー。
駅構内。
役所の窓口。
どこにでもいる。
だが、主張しない。
「フォルティシアンは
人を裁く存在ではありません
逸脱を止め
暴力を最小化し
状況を元に戻すための存在です」
簡潔だった。
性能については語られない。
限界についても触れられない。
だが映像に映る一体は、
人の流れの中で、同時に複数の方向へ視線を送っていた。
顔は一つしかない。
それでも、見ている先は一つではなかった。
ミサが、再び口を開く。
「本日より
全国民に対し
新たな労働評価基準を
適用します」
一拍。
そして、続ける。
「名称は
テンモ指標です」
画面の向こうで、誰かが息を呑む。
誰かが、まだ理解できていない。
誰かは、理解した瞬間に顔色を変える。
説明は、これからだ。
だが、すでに分かっていることが一つだけあった。
これは、交渉ではない。
これは、宣告だ。
日本は、測られる側になった。
発表が終わっても、画面はすぐには切り替わらなかった。
五人のヒューマノイドは、同じ位置に立ったまま動かない。
沈黙が、意図的に引き延ばされている。
その沈黙の間に、国民の側で現象が起き始めた。
理解が追いつかない者。
理解した瞬間に血の気が引く者。
条件反射で怒りを覚える者。
だが、誰も動けない。
動いたところで、何ができるのか分からないからだ。
ユイが、再び口を開いた。
「テンモ指標は
皆さんの価値を決める制度では
ありません」
その言葉に、わずかな安堵が走る。
だが、続く言葉が、それを否定する。
「皆さんが
これまで
どのように働いてきたかを
そのまま数値化する基準です」
画面が切り替わる。
簡素な数式が表示される。
数字は大きくない。
説明も、最低限だ。
一年間の勤務日数。
一日の実働時間。
役割ごとの成果率。
それらを掛け合わせ、
一定の基準値で割る。
セラが、補足する。
「休憩
雑談
待機
それらはすべて
時間として記録されています」
誰かが、テレビの前で声を上げる。
だが、その声は、どこにも届かない。
セラは続ける。
「善意や努力は
否定しません
しかし
数値には含めません」
怒りが、じわじわと広がる。
それは爆発ではない。
理解を伴った怒りだ。
次に表示されたのは、再計算結果だった。
政治家。
経営者。
管理職。
公務員。
名前は伏せられている。
だが、肩書きと金額だけで、十分だった。
現在の報酬。
テンモ指標で算出された適正報酬。
差額。
多くの場合、差額はマイナスだった。
ナギが、淡々と告げる。
「差額は
過去に遡って算出されます」
一瞬の沈黙。
そして、ざわめき。
「清算期間は
六か月です」
その数字が、現実を叩きつける。
半年。
短すぎる。
だが、ゼロではない。
ミサが、ここで初めて強調する。
「支払いが確認できない場合
資産は段階的に
差し押さえられます」
その言葉に、恐怖が混じる。
刑罰ではない。
裁きでもない。
処理だ。
ミサは続ける。
「不動産は
新政府が
円建てで買い取ります」
円、という言葉に、何人かが反応する。
通貨は残る。
国も、消えていない。
それでも、今までとは違う。
リオが、治安に関する補足を入れる。
「暴力行為
大規模な妨害
これらは
即時介入の対象となります」
その背後に、フォルティシアンの映像が映る。
まるで中に人間が入っているかのような精巧なロボット。
それが突如として現れた。
駅構内。
庁舎前。
住宅街。
交差点。
あらゆる所にそれはいた。
動いてはいない。
だが、映像の中で、人の動きだけが不自然に小さく見える。
誰かが、気づく。
彼らは、命令を待っていない。
状況が崩れた瞬間を、すでに把握している。
ユイが、最後に付け加える。
「本日から
すべての労働は
テンモ指標に基づいて
評価されます」
拒否権については、語られない。
選択肢も示されない。
それが、答えだった。
画面が暗転する。
だが、街からフォルティシアンはいなくならない。
むしろ、そこに「在る」ことだけが、はっきりと意識される。
人々は、まだ理解しきれていない。
だが、身体は先に反応している。
動かなくてはならない。
止まれば、数値は下がる。
社会は、この瞬間から、
別の単位で回り始めた。
最初に沈黙したのは、理解が早い者たちだった。
画面に映る数式を、自分の生活に当てはめた瞬間、言葉を失う。
ユイが、淡々と具体例を示す。
「例を挙げます」
画面が切り替わる。
モデルケースとだけ表示された、架空の個人データ。
「年間勤務日数281日」
少し違和感のある数字だった。
祝日を除き、体調不良でも出勤する。
働き過ぎかと思われる数字。
「一日の実働時間12時間」
残業という言葉は使われない。
実働だ。
「年間労働時間3372時間」
そこで、視線が止まる。
自分の一年と、重なる。
「この労働に対し
年収300万円が支払われていた場合」
一拍置いて、続ける。
「時給換算は
約890円です」
誰かが、笑いそうになる。
だが、笑えない。
「テンモ指標では
一秒たりとも手を止めず
役割に対して100パーセントの成果を出し続けて
初めてこの890円が成立します」
画面に、秒数が表示される。
3600秒。
「890円を得るために3600秒
止まらずに働き続ける必要があります」
空気が、変わる。
理解が、追いついた者から崩れていく。
セラが、次の例を出す。
「次に
年間休日120日の
会社員を例にします」
誰もが、自分をそこに重ねる。
「年間勤務日数245日」
「一日8時間労働」
「年収500万円」
一見、普通か少し少ないくらいの金額。
そう信じてきた数字だ。
「テンモ指標で算出される
理論上の報酬は」
数式が展開される。
245日 × 8時間 × 890円。
「174万4400円」
はっきりと、金額が出る。
ざわめきが起きる。
だが、セラは止まらない。
「休憩
雑談
思考停止時間
成果を考慮し
成果率を50パーセントと仮定します」
計算結果が更新される。
「87万2200円」
誰かが、息を呑む音が聞こえた。
それは、全国で同時に起きている。
「これが
この人物の
適正な年間報酬です」
ナギが、補足する。
「差額は
過去に遡って算出されます」
画面には、過去十年分の差額が積み上がっていく。
桁が、現実を壊す。
ミサが、静かに告げる。
「多くの方が
これまで
受け取りすぎていました」
責める口調ではない。
裁く声でもない。
ただの事実だ。
「そして
本日以降は
これまでより
大幅に低い報酬で
生活することになります」
否定の声が上がる。
理不尽だと叫ぶ者もいる。
だが、数字は崩れない。
人々は、初めて気づく。
自分たちは、
「評価されていなかった」のではない。
測られていなかったのだ。
画面の隅で、フォルティシアンが映る。
動かない。
だが、すべてを見ている。
怒りが、恐怖に変わる。
恐怖が、計算に変わる。
どう働けばいい。
どこを削る。
何を諦める。
社会は、悲鳴を上げながら、
現実に引き戻されていく。
最初の暴発は、地方都市だった。
役所の前に集まった人々が、怒号を上げる。
制度を撤回しろ。
説明が足りない。
こんな数字は嘘だ。
声は重なり、勢いを増す。
だが、方向を持たない。
怒りはある。
解決策はない。
フォルティシアンが、一歩前に出る。
威嚇はない。
警告音もない。
ただ、人と人の間に立つ。
誰かが、押した。
それだけで、事態は終わった。
押した腕は止められた。
力の差は歴然だった。
抵抗はできない。
関節が固定され、体勢が崩れ、地面に座らされる。
周囲が静まる。
暴力は「起きていない」
誰も動けない。
同様の光景が、各地で繰り返された。
駅前。
庁舎前。
繁華街。
どこでも、同じだった。
暴動は成立しない。
始まった瞬間に、終わる。
その日の午後、追加の発表が流れる。
今度は、ユイ一人だった。
「生活が急激に変化することは
想定されています」
声は、相変わらず穏やかだ。
「そのため
一時的に
消費活動の代替を行います」
画面が切り替わる。
飲食店。
商店街。
スーパー。
そこには、人間によく似た存在が映っていた。
服装も、動作も、違和感は少ない。
だが、どこかが揃いすぎている。
「市民型ヒューマノイドです」
説明は短い。
「皆さんの代わりに
消費活動を行います」
その言葉に、理解が追いつかない者が多い。
だが、現実は先に進む。
売上は落ちない。
物流も止まらない。
経済指標は、崩れない。
人間の購買が減る一方で、
数字は維持されていく。
夜になっても回り続ける。
灯りは点き、店は回り、
金は動いている。
多くの人が、初めて気づく。
この社会では、
自分が止まっても、世界は止まらない。
テレビの最後に、ミサが再び現れる。
「本日は
混乱が起きました」
事実だけを述べる。
「しかし
制度は撤回されません」
一拍。
「明日から
皆さんは
テンモ指標に基づいて
働き
生活することになります」
感情はない。
選択肢もない。
画面が切れる。
フォルティシアンは、そのまま立っている。
市民型ヒューマノイドは、買い物を続ける。
人間は、仕事に戻る。
怒り。
諦め。
計算。
それぞれを抱えたまま、
人々は、次の日を迎える。
社会は、もう元には戻らない。
だが、完全に壊れたわけでもない。
測られる世界が、
静かに動き出した。
4月3日まで、毎週金曜日21時に更新します。
評価をくれると、励みになります。
よろしくお願いします。




