第1話 樹海での出会い
男は、青木ヶ原樹海の入口で立ち止まっていた。
舗装路はそこで終わり、観光用に整えられた木道も、注意喚起の看板も、その先には存在しない。
レンタカーを停めてきた駐車場はすでに見えず、時折聞こえていたはずの走行音も、いつの間にか完全に消えていた。
風が吹くたび、溶岩の上に根を張った樹木が低く鳴る。
枝葉が擦れ合う音は不規則で、一定のリズムを持たない。
人の気配はなく、観光地の喧騒を思わせるものは何ひとつ残っていなかった。
この場所に来るまで、迷いがなかったわけではない。
だが、選択肢は時間とともに減り続けていた。
年齢は四十代後半。
履歴書に並ぶ職歴は、正社員、契約社員、派遣、アルバイトと、時代の流れをそのまま写したような並びで、どこか一貫性を欠いている。
努力が足りなかったと言われたこともある。
工夫が足りないとも言われた。
だが、その言葉に従って何かを変えても、状況が改善した実感は一度もなかった。
同じことを続ければ、同じ結果になる。
それだけは、長い時間をかけて理解した。
男は、最後の職場を思い出していた。
中途で入った仕事だった。
未経験という理由で、一から説明を受けた。
だが、理解が遅れ、作業の流れを止めてしまう。
周囲は待ってくれなかった。
質問をすれば、ため息が返ってくる。
確認をすれば、「さっき言っただろう」と言われる。
やがて説明は省かれ、男だけが置いていかれた。
会議室に呼ばれた日、声は淡々としていた。
「適性がありません」
「ここでは難しい」
怒鳴られもしなかった。
罵られもしなかった。
だから、抗議の言葉も見つからなかった。
自分が「使えない」と判断された事実だけが、静かに残った。
男は、ポケットの中で指を動かす。
連絡先は残っている。
だが、かける理由がない。
職業紹介所も、派遣会社も、すでに回った。
条件は合わず、年齢で弾かれ、未経験という言葉で閉じられた。
返事が来ないまま期限だけが過ぎていった。
家賃の支払日。
保険料の引き落とし。
クレジットの請求。
止められない数字が、順番に並んでいる。
待ってほしいと思っても、待つ道理はない。
収入が途切れた理由は問われない。
事情も考慮されない。
支払いは、ただ期日通りにやって来る。
行く場所はなくなった。
だが、戻れる場所も残っていない。
スマートフォンを取り出すと、画面の隅には圏外の表示が残ったままだった。
地図アプリは白く固まり、現在地も進行方向も示さない。
ここから先は、誰かに呼び止められることもなく、連絡が入ることもない。
男はスマートフォンをポケットにしまう。
もう必要ないと判断するのに、理由は要らなかった。
地面は柔らかく、踏み出すたびに靴底が沈む。
苔に覆われた溶岩は見た目以上に脆く、足を滑らせれば簡単に転ぶ。
慎重に歩かなければならないが、焦る理由もなかった。
樹海は、想像していたほど不気味ではなかった。
鳥の声は少なく、虫の羽音も遠い。
代わりに、空気そのものが重く湿っており、肺の奥までまとわりつくような感触がある。
視界は極端に悪いわけではない。
だが、同じような景色が続き、方向感覚だけが少しずつ削られていく。
男は一度立ち止まり、振り返った。
来た道は、すでに分からなかった。
それでいいと、男は思う。
帰るつもりは、最初からなかった。
歩きながら、これまでのことが断片的に浮かぶ。
深夜まで働いても評価されなかった日。
理由を告げられず、更新されなかった契約書。
説明のないまま終わった雇用関係。
怒りは、もう残っていなかった。
代わりにあるのは、身体の奥に溜まった静かな疲労だけだった。
風が強くなり、枝葉が擦れる音が重なる。
その中に、ほんのわずか、異質な響きが混じった。
男は足を止める。
耳を澄ます。
――ギィ……。
金属が軋むような、低く鈍い音だった。
樹木の音とは違う。
獣でもない。
「……気のせいか」
声に出すと、言葉は周囲に吸い込まれて消えた。
睡眠不足と疲労が重なれば、幻聴を聞くこともある。
そう納得しようとした。
だが、その音は一度きりではなかった。
間を置いて、再び聞こえる。
男は舌打ちし、音のする方向へ視線を向ける。
進めば進むほど、樹海の奥へ入ることになる。
本来なら、引き返す場面だ。
だが、男には普通の判断をする理由がなかった。
「……どうせ、終わるなら」
そう呟き、一歩を踏み出す。
足元の苔が崩れ、黒い土が覗いた。
霧が、わずかに濃くなり始める。
視界の先で、地面の形が不自然に歪んでいるのが見えた。
そこだけ、森が避けるように空間を空けている。
男は、まだ知らなかった。
この一歩が、戻れない分岐点になるということを。
男は、音のする方向へ慎重に歩を進めた。
足元の溶岩は不規則に盛り上がり、厚く生えた苔が凹凸を隠している。
踏み外せば足首を捻る。
だが、その慎重さは恐怖からではなく、単に転ぶと面倒だという実務的な判断だった。
霧は、進むにつれて少しずつ濃くなっていく。
視界そのものは遮られていないが、遠景がぼやけ、奥行きだけが失われていく。
距離感が狂うと、時間の感覚も曖昧になる。
どれほど歩いたのかは分からない。
時計を見る気にもならなかった。
時間を確認する理由が、すでに存在していなかった。
再び、あの音がした。
低く、鈍い金属音。
一定の間隔で、短く鳴る。
男は立ち止まり、息を潜める。
耳鳴りではない。
確かに、外から聞こえている。
「……何だよ」
言葉は自然に零れた。
答えを期待しているわけではない。
ただ、声を出さなければ、自分の存在が霧に溶けてしまいそうだった。
木々の隙間を抜けた先で、地面が不自然に抉れているのが見えた。
溶岩が割れ、黒土が露出し、そこに何かが埋まっている。
男は距離を保ったまま、目を凝らす。
土の中から覗いているのは、金属だった。
自然の中にあるには、あまりにも滑らかだ。
錆びてもいない。
苔も付着していない。
まるで、ここに来たばかりのように、異物として存在している。
「……事故か」
航空機の残骸という考えが、一瞬だけ浮かぶ。
だが、形状が違う。
角がなく、曲線だけで構成されている。
翼も、エンジンも見当たらない。
男は、無意識のうちに一歩近づいていた。
理性が警告を発する前に、身体が動いている。
金属の外殻は、半分ほど地中に埋まっている。
周囲の土に焼け焦げた痕跡はなく、衝突の激しさを感じさせない。
ただ、押し込まれたように沈んでいる。
近づいた瞬間、外殻の一部がかすかに振動した。
男は反射的に身構える。
次の瞬間、隙間から淡い光が漏れた。
白に近い、揺らぎのある光だ。
強すぎず、目を刺すこともない。
「……生きてるのか」
自分の口から出た言葉に、男はわずかに驚いた。
まるで、助ける前提で考えているような響きだった。
外殻に触れると、冷たかった。
だが、氷のような冷たさではない。
一定の温度を保っている感触だ。
光は強まったり弱まったりを繰り返し、やがて外殻の一部が、ゆっくりと開き始めた。
金属が擦れる音が、樹海の空気に吸い込まれていく。
男は、その場から動けなかった。
逃げるという選択肢が、頭の中で形を成さない。
好奇心でも、勇気でもない。
ただ、これ以上引き返す理由が見つからなかった。
開いた隙間の向こう側は、想像していたよりも整然としていた。
配線や露出した機械は見えず、壁面は滑らかで、床は緩やかな傾斜を描いている。
異臭もない。
奥に、何かが横たわっているのが見えた。
正確には、人の形に似た存在が、静かに横たわっている。
男は足を止める。
胸の奥で、言葉にできない違和感が膨らんでいく。
人間ではない。
だが、人の形から大きく外れてもいない。
その存在は、まだ動かない。
ただ、確かに、そこにいる。
男は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
逃げるべきだという考えが、ようやく頭をよぎる。
だが、その考えは形になる前に霧散した。
横たわっている存在は動かない。
威圧する様子もなく、武器のようなものも見当たらない。
ただ、明らかに衰弱している。
やがて、その存在がゆっくりと顔を上げた。
男と視線が合う。
皮膚の質感や、瞼の動き、呼吸の間隔が微妙に異なる。
その視線に、敵意はなかった。
あるのは、切迫した色と、そこに混じる諦めだけだった。
「……助けを……」
掠れた声が、確かにそう告げた。
意味を取り違える余地はない。
男は、何も言えなかった。
胸の奥で、何かが静かに軋むのを感じる。
助けることはできない。
そう考えた。
ここは樹海の奥深くで、医療設備も人もいない。
通信もできない。
男自身が、誰かを助けられる立場の人間ではなかった。
それでも、身体は動いた。
男は、一歩、船内に足を踏み入れた。
床は安定しており、傾きも感じない。
照明は柔らかく、目に優しい色をしている。
内部に入った瞬間、外界の音が遠のいた。
風の音も、枝葉の擦れる音も遮断され、低い振動音だけが残る。
その静けさの中で、自分の心臓の鼓動が妙にはっきりと聞こえた。
横たわる存在は、近くで見るとさらに人に似ていた。
腕の長さ、指の数、顔の配置。
だが、呼吸の仕方と、皮膚の温度が人間とは異なる。
男は、持っていたペットボトルの水を差し出した。
意味があるかどうかは分からない。
だが、何もしないよりはましだった。
存在はゆっくりとそれを受け取り、口元へ運ぶ。
水はほとんど減らなかったが、その動作だけで、男の胸の奥が重くなる。
それからの時間は、曖昧だった。
男は船内で過ごし、簡単な世話を続けた。
水を与え、話しかけ、反応を確かめる。
だが、存在の状態は目に見えて悪化していった。
「……戻らないのか」
男は、ふと呟いた。
社会に、ではない。
自分自身の生活に、だ。
答えは最初から分かっていた。
戻ったところで、同じことが繰り返されるだけだ。
あるとき、存在は男を手招きした。
力はほとんど残っていない。
それでも、意思だけははっきりと伝わってくる。
「……聞いてほしい」
男は、黙って頷いた。
「この船は……破壊のためのものではない……」
言葉は途切れがちだったが、内容だけは明確だった。
管理、分配、秩序の維持。
兵器ではない。
存在は最後の力を振り絞るように続ける。
「あなたに……託す……」
「俺に……?」
思わず声が出た。
だが、その問いに答えは返らなかった。
空間が、わずかに明るくなる。
船内の中央に、光の塊が浮かび上がった。
男の視界に、情報が流れ込む。
説明されなくても、理解できてしまう。
それは、権限だった。
船の全機能を管理し、制御するためのもの。
「……拒否は」
そう言いかけた言葉は、途中で途切れた。
存在はすでに目を閉じていた。
呼吸は次第に浅くなり、やがて止まる。
船内に、沈黙が落ちる。
低い振動音だけが、変わらず続いていた。
男は、その場に座り込んだ。
悲しみも恐怖も、まだ形にならない。
ただ一つ、確かなことがあった。
自分はもう、関わってしまったという事実だ。
そして、それは取り消せない。
船内の照明が、わずかに色調を変えた。
白に近かった光は落ち着いた淡色へと移り、空間全体が均一に照らされる。
それは弔いのための演出のようにも見えたが、男は意味を考えなかった。
横たわる存在は、もう動かない。
呼吸も、わずかな身じろぎもない。
死を確認するという行為は、男には必要なかった。
ここにある静けさが、すでにすべてを物語っていた。
「……名前も、聞いてないな」
独り言は、船内に吸い込まれて消えた。
後悔はなかった。
感謝も、約束も、別れの言葉もない。
残ったのは、役割だけだった。
男は、ゆっくりと立ち上がる。
視界の端に、言語化されていない情報が浮かび上がる。
説明はない。
だが、意味だけは即座に理解できた。
船は、すでに男を管理者として認識していた。
操作方法を学んだ記憶はない。
それでも、身体が知っている。
視線を向けただけで、情報が展開する。
壁面が透過し、外の景色が立体的に映し出された。
青木ヶ原樹海。
起伏、溶岩層、地下構造。
さらに拡大すると、道路、鉄道、集落が重なって表示される。
男は、息を呑んだ。
表示は止まらない。
富士山麓から甲府盆地へ。
東へ、神奈川、東京。
高速道路、在来線、新幹線、港湾、空港。
それは、日本だった。
抽象化された地図ではない。
人の流れ、貨物の動き、時間帯ごとの密度まで含めた、生きた構造。
男は、椅子に腰を下ろした。
膝の力が抜けたのではない。
座るべき場所が、そこにあっただけだ。
「……これは凄い」
声は、少し掠れていた。
世界を手に入れたという実感はない。
使命を与えられたという高揚もない。
あるのは、理解だけだった。
これが何で、何ができて、何を変えられるのか。
その全体像が、すでに頭の中に収まっている。
画面に映る都市を見つめる。
人々は、今日も働いている。
評価される者も、されない者もいる。
条件は人によって違い、それが当然だと信じられている。
「救う気はない……」
言葉にすると、はっきりした。
正義でも、復讐でもない。
ただ、基準を思い出すだけだ。
自分たちが生きてきた条件。
努力しても変わらなかった現実。
説明もなく切り捨てられた時間。
特別だとは思わない。
ただの基準だ。
「同じ条件で、生きればいい」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
船は、その思考に反応する。
地下構造の解析が始まる。
溶岩層の安定領域が示され、広大な空間が確保可能だと示唆される。
資材は不要。
時間もかからない。
男は、画面を見つめたまま、目を閉じた。
戻る場所は、もうない。
戻りたいとも思わない。
樹海の地下で、静かに準備が始まる。
音も、光も、地上には届かない。
名を名乗る必要はない。
記録に残る必要もない。
必要なのは、適用することだけだ。
男は、もう一度、画面に映る日本を見た。
その視線は、怒りでも憎しみでもなかった。
ただ、淡々とした確認だった。
こうして、名を持たぬ者の戦が始まった。
4月3日まで、毎週金曜日21時に更新します。
評価をくれると、励みになります。
よろしくお願いします。




