守りたいもの
行軍九日目。
出発から一週間以上が経ち、西部拠点までの道のりも、もう半分を過ぎてきた。俺たちは今、スータンとの戦線、その数キロ後ろを行軍していた。時々、銃声や砲弾の轟音が、ここまで聞こえてくる。
ここの地形は、長年に渡る戦線の影響で、大きく変わってしまったらしい。元々は、民家や厩舎が所々に点在しており、緑豊かな場所だったという。中でも小麦の栽培が盛んで、ちょうど今の時期に、麦を刈り取っていたみたいだ。収穫時期には、辺り一面が光に照らされ、金色に輝く麦で広がっていたのだそうだ。
そんな話を、俺の後ろで歩く男から聞く。その男は、やせ細った顔をしており、黒い髪に少し白髪が混ざっていた。年は四十代くらいだろうか。どうやら男は、この地域の出身らしく、数年前まではスータン前線で戦っていたのだという。
そんな故郷を懐かしく語る男の言葉を聞きながら、俺は辺りを見回していた。銃や砲弾の煙で灰色に染まった空。銃撃戦があった後なのだろうか、かつて民家であった建物は、窓が割れ、外壁が崩れ落ち、家の中があらわになっている。そして、一面に広がっていたという麦畑は、戦場の戦火に焼かれ、その輝きを失い、今では何も残っていなかった。残っているのは、ぽつぽつと点在している瓦礫の山ぐらいである。
目の前には、戦場跡特有の荒れ果てた平野が広がっている。こんな故郷を見て、男は何を思っているのだろう。悲しみだろうか、それとも焦燥感だろうか。それとも無念さだろうか。いや、その全てであろう。戦争が、たかが個人にもたらすものなんて、そんなものしかない。
だが、彼の表情からは、何も感じ取れない。ただ、昔の故郷を懐かしみながら、俺に嬉しそうに話しかけてくる。
「それでな、その収穫した麦でパンを作るんだが、それがまたうまくてな。外はサクサクで、中はふわふわなんだよ。ガキの頃なんて、いつも食ってたぐらいだぜ」
「そんなにうまいなら、俺も食べてみたかったな。残念だ」
「残念? 何言ってるんだよ?」
「だって、こんな有様ならもう……」
俺は荒地となった彼の故郷に、再び視線を巡らす。それに続いて、男も辺りを見渡す。だが、そんな光景を見ながらも、男は笑う。
「まあ、確かに、お前の言う通りかもな。こんな所じゃ、パンの一つも作れねぇ。だけどな、この戦争に勝てば、また綺麗だったあの頃の麦畑だって戻ってくるんだ。全部、またやり直せる」
そう言った彼の瞳には、先ほどと同様に、故郷を懐かしむような穏やかな感情が映っているようであった。
「だけど、こんな灰と泥にまみれた場所で、農業をするなんて無理だ」
「別に、ここでする必要はねえさ。他のところでやればいい。ここは確かに思い入れのある場所だ。でもな、やり直すって言ったって、全部を全部やり直す必要はねえと思うんだ。大事なのは、ここ……気持ちさ」
男は自分の胸を指す。
「俺の『やるぞ』って気持ちが、一番重要なんだ。故郷じゃないどこかで、小麦を育てたっていいじゃねぇか。たとえ、そこから見える景色が、あの頃見ていた景色じゃなくてもな。心が変わっていなければ、きっとそこから見える景色だって、故郷の景色と同じくらいきれいだと、俺は思うぜ」
「……そういうものなのか」
「ああ、そういうもんだ! まだ若いあんちゃんには、分からないかもしれないけどな。世界にはな、まだ自分でも知らない、たくさんの大事なモンってのがあるんだ」
「俺の知らない?」
「おう。そいつの中には、自分が大切だと思うモンだとか、守り続けてたいと思うモンがあるんだ。だから、一つ失ったぐらいで、くよくよしてちゃいけねぇ。大事だと思うものは、また絶対に現れる。だから、折れない気持ちってのが、一番重要だって、俺は思うね!」
「折れない気持ち……諦めない心ってわけか」
「そうだ。だから、まずはこの戦争に勝たないとな!」
男は、にっこりと笑う。戦争が始まって、十数年。きっと多くのものを失ってきたであろうその男は、それでもまだ、諦めないという心が、彼の体を突き動かしているのだろう。
――諦めない。
彼がそう言った言葉が、どこか自分の心の奥深くに突き刺さるような気がした。
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その後も数時間歩き続け、ちょうど昼を過ぎたあたりだった。休憩の合図が出され、俺たちは、その場で小一時間の小休止を挟むこととなった。
「じゃあ、私、供給を貰ってくるから。貴方の分も一緒に貰ってくるけど大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。ありがとうな」
そう返事をすると、彼女は、行軍の先頭の方へと歩いていった。
そんな彼女の後ろ姿を見つめながら、考える。
ここ最近、いや、正確にはスータン前線の近くを行軍し始めたころぐらいだろうか。彼女の表情がずっと、晴れないでいる。話しかけても、何か考え事をしているようで、どこか上の空だ。
俺の目に映る彼女が、ここ一週間の彼女と違う気がして、俺は、少し心のざわめきを感じていた。
そんなことを考えていると、俺の後ろから声がした。
「随分と、あの子と仲が良いんだな」
振り返ると、そこにいたのは、先ほどの行軍中に話をしていた男であった。
「……まあな。孤児院が一緒で、昔から一緒に暮らしてたんだ」
「そうかそうか。そいつはいい。あんちゃんも、彼女と一緒にいられて安心だろう」
獣人に対して、どこか穏やかな空気を持ちながら、男は答える。
そんな態度に対して、少し興味を持った俺は、男に質問を投げかけた。
「あんたは、獣人についてどう思ってる?」
「俺か? 俺はまあ、特段悪いイメージは持っていないな」
「そうなのか?」
「まあ、普通の奴なら、好きじゃないって答えるだろうが。俺は普通と、ちょっと違った環境で育ったからな」
「どんな環境で育ったんだよ?」
「さっきも話したと思うが、俺はここら辺の地域の出身でな。ここでは、人間も獣人も数が少なかったんだ。それに加えて、農業ばかりが発展している田舎でな、帝都の空気なんか、まるっきりないような場所だった」
「へえ、結構意外だな。そんな場所もあるのか」
「ああ。今はもう、そんな田舎は戦争の影響でなくなっちまったが、十数年前は、結構そういった地域はあったと思うぜ。
そんでな、そんな田舎だったからこそ、人間と獣人は、そこまで仲が悪くなかったんだ。なんなら、俺の地域では仲が良かったくらいだぜ」
十数年前。
俺がまだ、生まれているかいないかぐらいの時だろうか。
今の社会のような、種族間の対立といった重い空気がなく、互いに仲良くできる。そんな場所も、確かに存在していたのだ。
「……いい故郷だったんだな」
「ああ。本当にいいところだったんだぜ。……まあ、戦争が始まっちまって、故郷にいた奴らとも、全員、離れ離れになっちまったんだけどな」
男は、再び昔を思い出し、懐かしむような顔をした。
だが、そこには先ほどはなかった、少し悲しそうな表情が浮かんでいる。
「だからさ、今回の行軍で、なんか懐かしい気持ちになっちまってよ」
「懐かしい?」
「おう。お前も気付いていると思うけど、人間と獣人の距離がさ、なんか近くなったと思わないか?」
彼の言葉が、行軍五日目の夕方の光景を思い出させる。
人間と獣人が笑い合い、会話していた光景。
いや、あの時だけじゃない。六日目の休息日も、その後の行軍中にも、その光景は、所々で見られた。
そんな光景に、俺は安心感を覚え、心地よさを感じていた。
軍に入ってからずっと感じていた、人間と獣人との溝。その溝が埋まっていっているようで、そして同時に、彼女との間にできてしまっていた心の距離も、短くなっているような気がして。
「そうだな。この行軍を通して、人間と獣人の間にある種族間の壁が、薄くなっている気がするよ」
「だろ。だから……なんていうかな……なくなっちまった故郷を、思い出しちまうんだ」
その言葉を聞いて、何も言えなくなる。
失ってしまった故郷。二度と戻らないと理解していながら、それでも夢を見る男。
俺は、そんな痛みを抱える男の顔を見ることが、できなかった。
「……あんちゃん、あの犬の獣人の女の子のこと、好きなんだろ?」
「……なんだよ、突然。あんたの故郷の話はどうしたんだよ」
「なに、これも俺の故郷の話の延長線上だよ。獣人に恋をした男のな。
……で、どうなんだよ。やっぱり好きなんだろ?」
男は、今度は嬉しそうな表情をして、聞いてくる。
「好きなのかは……俺にも分からない。
ただ、このままあいつを放っておくわけにはいかないとは、思っている」
「……」
「俺のエゴかもしれないけどな。それでも、今のあいつを見てると……いつの間にか消えていきそうで……それが、怖いんだ」
今の自分の、彼女に対する思いを、男に吐露してしまう。
なぜ、こんな話をしてしまったのかは分からない。
ただ、目の前にいるこの男が、俺の考えに対する答えを持っているような気がして。
俺の知らない答えを、知っているような気がして。
そんな期待を、してしまったのだろう。
「……そうか。……自分でも分からない、か」
男は、苦笑交じりに答える。
「笑うなよ。一応、真剣に答えたつもりなんだぞ」
「いや、悪かったな。ただ、ちょっと思い出し笑いってやつを、しちまってな」
男は、しばらく笑い続けていた。
そして、ようやく落ち着くと、静かに話し出す。
「まあ、なんとなく分かったよ。今のあんちゃんの気持ち」
「本当か? ずっと笑ってただけじゃねえか」
「いやいや、本当だって。あんちゃんの、あの獣人ちゃんに対する気持ちは、十分に理解したさ」
「……つまりは、守ってやりたいんだろ。その子のことをさ」
「……まあ、そうだな。あっちは、どう思ってるか分からないが」
「相手がどう思ってるかなんて、あんまり重要じゃないのさ。
自分が相手に、どうしてやりたいかが、この場合は重要なんだと、俺は思うぜ」
「好きかどうかなんて、その先の副産物でしかない。
だから、あんちゃんが、あの獣人の子にしてやりたいと思うことを、やってやんな。
……好きかどうかは、そのあと考えりゃいい」
「俺が、あいつにしてやりたいこと……」
「ああ。しっかり考えな。
あんちゃんが、獣人のあの子にしてやりたいこと。
それは……なんだ?」
男の言葉を聞いて、自分の胸を縛っていたしがらみが、ほどけていく感覚がした。
自分が、彼女にしてあげたいこと。
それは――
――彼女を、救ってあげたい。
無機質に変わってしまった表情。
どこまでも暗く、何も映らなくなってしまった黒い瞳。
戦場という地獄が、彼女をそんな風に変えてしまった。
でも、変わらなかったものだってあった。
好きなものには、とことん喜ぶ彼女の姿。
いつも几帳面で、未熟な自分を引っ張ってくれる、その頼もしさ。
そして、どこまでも深い、あの優しさ。
そんな彼女らしさが、まだ彼女の中に残っているのだというのならば――
……俺は、初めてこの感情を、自覚した。




