雨宿り
—————夢をみた。
それは、俺の一番古い記憶。
まだ思考が曖昧で、世界に対する輪郭も定まらず、何に対しても興味を示さず、ただ独りでいた頃の記憶。
そんな俺の前に、差し出された一つの手。
それが、彼女だった。
「一緒に遊ぼうよ!」
眩しいほどの笑顔と、元気いっぱいの声。
自分だけのものだと思っていた世界が、その一言で色を変えていく。
彼女の声が、彼女の温度が、俺の世界を知らなかった色で塗り替えていった。
——この人は、誰なんだろう。
そう思い、聞いた。
「誰なの?」
「誰って、わたしのこと? 私はね〜、君のお姉ちゃんだよ!」
そう言って笑う彼女の微笑みが、胸の奥を静かに満たしていくのを感じた。
思えば、ずっと孤独だったのだと思う。
自分が独りだということ、独りは寂しいということ。
それは、独りでいなければ分からない感情だった。
孤独を教えてくれた彼女。
孤独から救ってくれた彼女。
そんな彼女に、俺は——憧れを抱いた。
「朝よ、起きなさい」
夢で聞いた声と同じ声が、聞こえてくる。
だがその声は、夢の少女の声とは違い、どこか暗い闇をはらんだ声であった。
行軍三日目。
今日は、朝から雨が降っていた。
昨日の真夜中から降り続けていたのであろう。
歩く道は、濡れた土砂と水たまりによって、ぬかるんでいた。
そんな道を行軍しながら、俺は、行軍が始まった初日の夜のことを考えていた。
あの日から、彼女との会話はほとんどない。
彼女が俺に声をかけるのは、朝に起こしてくれる時ぐらいだろうか。
だが、それもただの挨拶のようなものだ。会話といえるものではない。
あの夜。
彼女が軍を志願した理由を話した日。
今まで聞くことが出来なかった、その答えに、初めて触れることができた。
俺は、その理由に、彼女らしさを感じた。
子供の頃から自分の『姉』という役割をしていてくれた彼女が、次の役割を求めて、軍を志願した。
子供の頃から変わっていない。
一心に、何かであろうとする彼女のありさまを一番近くで見てきた自分は、そう思った。
しかし、彼女の心は違ったのであろう。
そんな自分の生き方を疑問に思っている。
というよりは、間違っていると思っている。
だが、その間違いを正すことはできない。
それを正そうとすることは、今の役割を放棄しなければならないからだ。
今の彼女である、軍人としてのアイリスを。
そしてそれは、彼女が最も嫌う、役割も役目のない、ただの『アイリス』を、自分自身で肯定しなければいけない。
そんな矛盾を抱えた彼女を救いたいと思った。
与えられた役割を必死にこなそうとする彼女の姿は自分の憧れであった。
その姿が虚像でも、作られた偽物だったとしても、他から見たその姿は、まさしく本物なのだ。
自分を孤独から救ってくれた、彼女。
今は、役割に縛られ、あの時の笑顔を失ってしまった彼女。
そんな彼女を救いたいと思うことは、自分のエゴなのだろうか。
いまだに彼女との会話は無い。
朝に一言声をかけてくれた以降、俺たちの間では、何時間も沈黙が続いている。
ふと水たまりに映る自分の表情を見た。
暗く思いつめる自分の表情。
そんな自分の表情と連動してか、空も曇に覆われて、暗くなっていく。
そして、その数分後に、大雨が降り注いだ。
スコールだ。
目の前が見えなくなるほどのスコールが俺たちの隊を襲った。
このままの行軍は不可能と判断したのか、隊列の最前線にいた指揮官は、スコールが止むまでの間、それぞれで雨を凌ぎつつ待機するよう命令を下した。
その指示を聞いた俺たちは、近くを散策し、入口の縦幅が二メートルほどの洞穴を見つけ、そこに避難した。
洞穴に入ったときに気づいたのだが、どうやら昔、鉱石を採掘するために掘られた洞穴だったらしい。
入口とは反対に中は広く、奥行きは火をつけても先が見えないほどであった。
雨で濡れた装備を外し、焚火の近くに腰を掛ける。
外の大雨の音が、洞穴内で反響して聞こえる。
「なあ、座らないのか?」
「私は大丈夫よ」
「だけど、そのままじゃ体も冷えるし、風邪ひくぞ」
大雨でびしょびしょになった彼女は、洞穴内の壁を背にしてたたずんでいる。
「寒いだろ。変な意地張ってないで、装備を外して、焚火の近くまで来いよ」
「…大丈夫よ、これくらい。獣人なんだから、これぐらいで風邪なんかひかないわ」
「獣人とか関係なくてだな、生き物は体温が下がると死ぬようになってんの。それに、濡れた装備をそのままにしとくってわけにもいかないだろ」
「…分かったわ」
そう言うと彼女は、焚火の近くまで来て装備を外し始めた。
俺は、装備の他に着ていた軍用の服も濡れていたため、焚火の近くで乾かそうと思い、上着やズボンを脱いだ。
脱ぎ終わった時に、視線を感じた。横で彼女が赤面しながら見ていたのだ。
「…どうかしたか?」
「何でもないわ」
「顔が真っ赤だぞ」
「…何でもないわ」
「そんなわけないだろ。ふつうは、そんなに顔は真っ赤にならないんだよ。…もしかして、恥ずかしがってんのか、俺の裸体を見て(笑)」
昨日からの重い空気を変えようと思い、そんな軽口を叩いてみたのだが、彼女は返事の代わりに、固めたこぶしを腹に向けて飛ばしてきた。
俺は小さな呻き声を上げた。
「貴方の裸になんて、興味ないわ」
「じゃあ、そう言うだけでいいだろ…わざわざ殴らないでくれ…」
「貴方がバカみたいなことを言うから躾けたまでよ」
「じゃあ、何で顔を赤くしてんだよ…本当に風邪でも引いているんじゃないか」
「それは…」
彼女は言葉を詰まらせ、俺を少し睨む。
「だから、どうしたんだよ…」
「あぁ、もうっ!本当に鈍感ね!私の今の姿を見て、分からないの?私も着替えたいのよ!だから、貴方はあっちを向いてなさい!」
今さら気が付いた。
彼女も大雨の中を歩いてきたのだ。俺と同様に服がびちゃびちゃなのだ。それなのに、自分だけ服を脱ぎ、乾かしている。とんだ大バカだ。
「わ、悪い!そうだな、俺は反対向いてるから!」
そう言って、急いで百八十度の方向転換をした。
自分の鈍感さと気恥ずかしさで、こっちが赤面してしまった。
「もう、本当に最悪。こんな急に雨が降るなんて」
彼女の独り言であろう声が聞こえてくる。
「あー、下着まで濡れちゃっているじゃない…」
そんな声に、俺の心臓の音が大きくなる。
彼女の着替える音、衣服の擦れる音が、俺たち以外に誰もいない洞穴内で、静かに聞こえてくる。
そんな些細な音が、俺の全身を刺激してくる。
何分ほどたったであろうか。彼女が声をかけてきた。
「もうこっち向いてもいいわよ」
その声を聞き振り返る。
そこには、下に大きめのタオルを巻き、上はタンクトップ一枚になった彼女の姿があった。
その姿に、思わず、俺の鼓動はさらに早くなる。
「顔が赤くなってるわよ。貴方こそ、風邪を引いたんじゃないの?」
「…引いてねえよ。これは、あれだ。焚火が暑いせいで赤くなっているだけだ」
慌てて、適当な嘘をつく。
「そう。私はちょうどいいぐらいだけど。人間と獣人じゃ、感覚が違うのかもしれないわね」
言えるわけがない。彼女の薄着を見て、少し興奮してしまったなんて。
「雨、全然やまないわね」
「そうだな。この様子だと、あと数十分は降り続けるんじゃないか」
彼女に自分の心を悟られないように、何食わぬ顔で会話を続ける。
「貴方、何か食べるもの持ってないの?少しお腹が空いたわ」
「もう昼すぎぐらいか。何か余っていたっけな」
そう言いつつ、自分が背負ってきたリュックの中身を探る。
「うーん、腹ごしらえできそうなものはないな。あるのは……これだけか」
リュックから、小さな金属缶を一つ取り出す。
「中身は何が入っているの?ハードタックかしら」
「いや、チョコレート」
「嘘……チョコレート⁉ なんで貴方が、こんな高級なものを持ってるの!」
「貰った」
「貰ったって……ただの一般兵が貰えるものでもないのよ、こんな貴重な嗜好品!私だって、一度しか食べた事ないのに……」
「じゃあ、あげるよ。俺、あんま腹すいてないし」
その瞬間、彼女の目が子供のように、きらきらと輝いた。
「本当⁉ 本当にいいの⁉ じゃあ貰うわよ! やっぱり返してって言ってももう無理だからね!」
「あ、あぁ……あげるって……」
こんなに喜ぶとは思わなかったので、少し驚いた。
嬉しそうな彼女の顔を見つめる。
ふと、彼女の姿が、昔の、懐かしく思うあの時の彼女に戻ったような気がした。
軍に入って、彼女に再会してからずっと見てきた、変わってしまったと思っていた彼女。
そんな彼女が見せる、ひと時の喜びの表情が、本当は彼女は変わってなどいないのではないかと、心のどこかで期待が膨らむのを感じる。
「ねぇ、貴方は食べないの?」
喜びが抜けていない様子の彼女が問いかける。
「俺はいいよ。さっきも言ったけど、あんま腹空いてないし。それに、それ好きなんだろ。だから、全部あげるよ」
「本当にいいの? これ、すごく美味しいのよ」
「ああ、本当だ。全部あげるよ」
「……やっぱり全部はいらないわ。半分だけでいい。だから、もう半分は貴方が食べて」
「いいのか? 好きなんだろ、チョコレート」
「うん、好きよ。でも、それ以上に、貴方と一緒に、このチョコを味わいたいと思ったの」
やっぱり、と確信する。
彼女は変わっていない。
さっきの嬉しそうな表情も、今の彼女の優しさも、子供の頃から知っている。
自分が憧れ、恋焦がれた、アイリスなのだと。
「……じゃあ、半分だけもらうよ」
金属缶に入ったチョコレートを取り出し、半分を彼女に渡した。
それを受け取った彼女は、嬉しそうに、そのまま口へと運ぶ。
「美味しい!」
彼女は、嬉しそうに満面の笑みをこぼす。
そんな姿を見ていたのを、彼女に気づかれ、
「私なんか見てないで、貴方もチョコ食べてみなさいよ! 本当に美味しいわよ! 舌の上でとろけちゃうんだから!」
彼女に促されて、自分もチョコレートを食べた。
「……! 美味いな、これ!」
「でしょ、でしょ~。こんな美味しいものが、この世にあるなんてびっくりするわよね~」
「少し苦いが、それが逆に甘味をさらに引き立てているな。この溶けていくような舌触りも、すごくいい」
「貴方もよく分かってるじゃない、この美味しさに!」
「でもね、でもね。チョコには、さらに美味しい食べ方があるのよ! コーヒーと一緒に食べるんだけどね、それがまたすごく美味しいのよ!
さすがに今はコーヒーがないから、しょうがないけど。今度食べるときは、一緒にコーヒーもあるといいわね!」
チョコレートについて熱心に話す彼女は、あっという間にチョコレートを食べ終えていた。
それでも、まだチョコレート談義に熱を燃やす彼女の話に耳を傾けながら、俺はチョコレートを少しずつ食べた。
俺がチョコレートを食べ終わり、彼女も話の熱が収まった頃だろうか。
いつの間にか、雨は止んでおり、空は青く、明るさを取り戻していた。
「雨、止んだな」
「そうね」
「じゃあ、そろそろ出るか」
「ちょっと待って。乾いた服に着替えるから、少し時間をちょうだい。それに、貴方もその格好のまま出ていくわけにはいかないでしょ?」
今の俺の姿は、パンツ一枚。
はたから見たら、十分に不審な男だ。
「ハハっ、確かに。このまま出て行ったら、風邪を引いちまう。それに、こんな姿を隊に見られたら、とんだ笑い者だ」
「ふふっ、そうね。普段から変わり者に見られている貴方が、そんな格好で出て行ったら、いよいよ正気でも狂ったのかと疑われてしまうわね」
そんな笑顔で談笑する彼女に安心感を覚えながら、服を着替える。
そして、焚火を消し、暗くなった洞穴から出る。
外は、空からの光に雨水が反射して、眩しく輝いていた。
「案外、雨が降った後も、綺麗なものなのかもしれないわね」
外に広がる景色に、同じ感想を抱いたのであろう彼女が呟いた。
「同感だ」
そんな光景を見ながら、俺たちは、ぬかるんだ土砂の上を歩き始めた。
読んでいただきありがとうございます!
彼らが、雨の中で過ごした、ほんの些細な休息の時間。
けれどそれは、二人にとっては決して小さな出来事ではなかったのかも知れません。




