業
私は、独断専行した。
兵士という役割を捨て、彼を救う為に。
全てを捨ててでも、失いたくない者がいるから。
私は今、行軍で進んでいた平野を引き返し、全力で走っている。薄暗かった道も、日が昇り、照らされてゆく。だが、昇る日の出に反比例して、私の気持ちは焦燥感に苛まれていく。
「(早く、早く、早く、……彼を見つけないと!)」
キースは言った。彼を最後に見たのは、脚を負傷して、蹲っているところだった、と。
脚の負傷は、傷が深いと命に関わる。彼がいつ負傷したのかは、分からない。それでも、少なく見積もっても、一時間以上は経過しているはずだ。止血をしていたとしても、これ以上は、彼の体が持たない。
それに、ここは前線から近い。もし、近くに先程のような敵がいたら、太刀打ちできない。どれだけ戦闘能力に優れた獣人がいようと、対策されていたら元もない。それに、負傷した彼では、一般の兵士にでさえ、殺される可能性がある。
「(何処かに、手掛かりはないのっ?)」
はやる気持ちが、私の思考を加速させる。
彼は何処へ消えたのか?
他の行方不明者と一緒にいるのか?
それとも、行軍の部隊に戻った?
何処かに身を隠している?
私が何処かで見逃している?
……もう、死んでしまった?
そこで、思考を止める。最悪の可能性が脳裏に過ぎったからだ。これ以上、この事を考えてしまったら、それが本当になってしまうようで、……戦慄した。
「(……彼は生きてる。それだけを考えなさい)」
自分で、自分に言い聞かせる。もし、その可能性を認めてしまったら、私は私を保てなくなる。今でも、手の震えが収まらず、力が入らない。それ程までに、その考えは、私の全身を蝕む。
私は、走るのを止め、その場で立ち止まる。そして、大きく息を吸って吐く。それを何度も繰り返した。走り出してから、ずっと大きく鼓動していた心臓は、一定のリズムのゆっくりとした鼓動に戻る。息切れを起こしていた呼吸も、空気を吸い込んだことで、息苦しさから解放される。
「(……少し、早く走りすぎたかしら)」
行軍から離れてから、30分間程ずっと全力で走っていた。無意識の内に、呼吸が浅くなっていた。そのせいで、思考も鈍っていたのだ。だから、あんな考えが浮かんでしまう。……少し、休まなければいけないかもしれない。
そう思い、もう一度深呼吸をする。
そして、息が止まる。
吸い込んだ空気に、鉄の、……血の匂いが混じっていたからだ。
辺りを見渡すが、その匂いの発生源は見当たらない。
だが、漂う匂いの方向は分かった。
私は、その方向へと向かって歩き出す。その方向には、平野では目立ち過ぎる程の大きな枯れ木があった。色は暗い茶色で、葉が一欠片も付いておらず、その大きさとは対照的に、弱々しく今にも倒れてしまいそうな木。つまりは死木であった。
その木の下に、匂いの元があった。おそらく、消息不明となった人間。……その死体が、そこにはあった。
だが、その中に枯れ木に背を掛けて、座り込んでいる男の姿があった。年は、四十代だろうか。だがその男の顔には、正気がない。
男は、私に気がつくと、少し驚いた様子だったが、また元の顔に戻り、ゆっくりと話し出す。
「……ついにお迎えが、……来たかな」
「お迎え?私は人を探しているの。……貴方も、行軍にいた人?」
「……違うのか。ああ、俺は、……あの行軍にいたよ」
「貴方、大丈夫?それに、ここにいる人達は、一体……」
「ここにいる連中は、……さっきの銃弾戦から、……逃げてきたやつだよ。……でも、逃げてる最中に、……弾に当たっちまってな。……結局は、このザマさ……」
男の喋り方は、所々で詰まりがある。
「……逃げたのは、ここにいる人達で全員かしら?それにしては、少ないようだけど」
「ここにいるのは、……生き延びられなかった奴さ。……他の奴は、分からないなぁ。生き残った奴は、あの行軍に戻っただろうし……。まぁ、……そのまま、……逃げた奴もいたな」
見渡す限り、彼の姿はここにはない。それだけでも、少し安堵する。だが、彼が無事でいると決まったわけではない。この男も逃げてきたなら、何か知っているかも知れないと思い、質問する。
「貴方、人間の黒髪で、背が高くて、でも、年は少し幼い男の子を知らないかしら」
「……ああ、そいつなら……知ってるぞ」
「本当っ⁉︎ 彼が何処にいるか、今すぐ教えて!」
「あいつは、……俺と似ている。……昔の俺を見てるみたいで……、ほっとけないんだよな……」
「何を言ってるの?彼が何処にいるか、教えてって言ったのよ!」
男は、私の質問に答えず、何処か上の空の様であった。私は男に駆け寄る。そして、同じ質問をしようとして、
……足が止まる。
男が背をもたれ掛け、座っている枯れ木のその下。その周りが、夥しいほどの血の溜まり場となっていた。まるで、血の海のように。この血は、全てこの男の血なのだろうか、と。そう思うほど、膨大な量の血の中で男は座っている。
「貴方っ!それっ、その血の量は――」
「……俺も、……あの時、あいつに、……伝えられてたらな。……今とは、……また、違ったのかも知れない、な」
だが、男は、私の言葉に、反応しない。それどころか、さっきまで会話していた私を認識していない様子だ。
「……貴方も撃たれていたのね」
「戦争に勝てば、……全部、全部、……戻ってくる、て思って……たんだけど……な」
私の言葉は聞こえていない。おそらく、大量に血を流した事による意識障害だろう。
「……故郷の、……奴らと、また、……一緒に、麦、を……耕し、て。そん、で、パンを……作って」
言葉を発するごとに、彼の顔色が暗く、青白くなっていく。
「それで、また、……あいつ、と。……あい、つに、……会える、と……思って」
これは、彼の後悔の言葉なのだろうか。白くなっていく顔が、何かを求めているようで、何かを悔やんでいるようであった。
「(貴方も後悔しているのね……)」
もう、この男から聞ける事はない。そう思った私は、その場を去ろうと、男に背を向けて、歩き出そうとした。
だが、
「待って、くれ!」
その言葉に足が止まった。振り返ると、男が私の方を見ている。さっきまでの焦点が合っていない目ではない。しっかりと私を見据えている。そして、男は喋る。
「やっぱり、迎えに……来てくれたんだな。……あの時、……言えなかった事があるん、だ」
男は、話続ける。
「昔から、……お前は、俺を……気にかけてくれ、たよな。何度も、……喧嘩したけ、ど。そんな時でも、お前は、優しく、て。」
男は、多分勘違いをしているのだと分かった。私は、この男と面識はなかった筈だ。今、初めてこの場であったのだ。おそらく、男は記憶の中の誰かと、私を重ねている。
「俺が軍に、行く、……と言った時も、お前は、俺を心配、してくれた……」
私は、黙って男を見続ける。この男の、最後の夢を、壊したくなくて。
「あの時、……お前に……言いたかった、んだ。でも、……言えなかった。……きっと、受け入れ、られない……と思っ、て」
男の言葉が、段々と弱々しくなっていく。もう、意識も途切れ途切れなのだろう。
「でも、今なら……言、える」
「好きだった……。他でも、ない。獣人の君……が」
その言葉に、私は何も言わない。男を見つめ続けるだけ。その言葉は、彼の記憶の、その獣人の彼女に向けられたものだから。
私は、その場を去る。もうここに用はない。
去り際に、後ろから小さく男の声が聞こえた。
「……そうか。……良かった」
男には、何かが聞こえたのだろう。私には、聞こえなかった、その男への最後の返事が。
私は、元の道へと戻り、また走り出していた。
「(彼のところに、早く、早く……)」
私の胸の内は、その思いだけで一杯だった。きっと、人の、人間の死を間近で感じてしまったからだろう。
あの男は、死ぬ寸前まで、後悔していた。どれほどの苦しみだったのだろう。どれほどの後悔が、あの男の胸中にあったのだろう。想像するだけで、……いや、想像なんて出来ない。その思いは、あの男だけのものだ。
それでも、どうしてだろうか。私の思いは、強くなる一方だ。息は苦しいのに、体が止まる事を許さない。心臓の鼓動が、再び早くなり、どくんどくん、と、素早く脈をうつのを止める事出来ない。
――心が苦しい。
彼に合いたい。その声を聞きたい。あの顔を見たい。また、一緒にチョコレートを食べたい。あの雨上がりの綺麗な景色を、彼ともう一度見たい。テントの中で、また一緒に寝たい。彼の声の「おやすみ」という声で眠りにつき、「おはよう」という声で、次の日の朝を迎えたい。彼と遊びたい。今度は、カシナ、キースも含めた4人で、何処かへ出かけたい。天気が良い日に、散歩なんかして、彼の隣を歩きたい。子供の頃のように、彼と無邪気に話がしたい。楽しい事、嬉しい事、色々な事を話して、笑い合いたい。そして、
――彼に好きだと伝えたい。
私は、無我夢中で走った。彼を想いながら。心の苦しさを抱えたまま、ほんの少しの奇跡を、小さな希望を願って。
また、血の匂いがした。でも、今度は、少し懐かしい匂いも混ざっている。
匂いは、平野にそっと立つ、朽ちた板材で建てられた民家の方からした。戦火の影響で、その民家はボロボロだった。窓はなく、玄関は壊され、扉も半開きのままだ。外壁は自分の重さで、今にも崩れてしまいそうだ。
私は、静かに、半開きの扉を開けた。民家の中には、血の匂いが充満していた。そして、玄関からリビングの方へ向かって、血跡が続いている。その跡は、赤黒く、何かを引きずった跡の様であった。
私はその跡を辿り、リビングへと向かう。一歩、一歩、ゆっくりと、僅かな希望を願って。
リビングへと続く、ドアの前に立つ。私はそこで、今まで信じてなどいなかった神様に、初めて祈る。
――私の全てを捧げます。だから、どうか、どうか……
ドアを開ける。
そこには、居た。イスに座りながら、目を瞑る彼が。
私は、彼に急いで駆け寄る。そして、彼の胸に耳を当て、確かめる。
どくん、どくん、どくん
その音に、私の全身が震え、目から一筋の涙が溢れる。
――彼は生きていた。




