第2話 君の言葉は、世界を予言する
あの日以来、僕の日常の中心には、綾瀬凪という名の空白ができてしまった。
いや、空白ではない。それはあまりに強烈な引力を持つ、静かなブラックホールだった。文芸部室にいる時も、授業を受けている時も、帰り道の雑踏の中ですら、僕の思考は彼女の存在に絡め取られていく。
彼女が僕の原稿に書き足したあの一行。
『空が青いから、僕は悲しいんじゃない。この空の青さを、美しいと感じてしまう“普通”の感性が、僕の中にまだ残っていることが、ただ悲しいんだ』
あの言葉は、僕の物語の羅針盤になった。迷うたびに読み返し、そのたびに、僕の主人公は血の通った人間として息をし始める。僕が何日もかけて捻り出したどの文章よりも、彼女のたった一行の方が、よほど雄弁に物語を語っていた。
天才とは、こういう人間のことを言うのだろう。
住む世界が違う。才能の絶対量が、あまりにも違いすぎる。
その事実は、嫉妬よりも先に、どうしようもないほどの憧憬を僕の胸に刻みつけた。
「凪ちゃん、これ読んでみてよ! 私の新作!」
「……うん、わかった」
放課後の部室。佐藤部長が、書き上げたばかりの恋愛小説の原稿を凪に手渡す。凪はそれを受け取ると、窓際の自分の席に戻り、静かにページをめくり始めた。彼女が物語を読んでいる時の横顔を、僕は盗み見る。長いまつ毛が落とす影、微かに結ばれた唇、そして、現実のすべてを遮断したかのように、ただひたすらに文字の世界へと没入していく瞳。その姿は、一枚の絵画のように完璧だった。
数分後、彼女は顔を上げた。
「佐藤さん。この二人が結ばれるのは、雨の日ですね」
「え? あ、うん。クライマックスは土砂降りの雨の中で告白するシーンにしようかなって……って、なんでわかったの!? まだそこまで書いてないのに!」
驚く部長に、凪は首を小さく傾げた。
「なんとなく。この二人には、太陽の光よりも、すべてを洗い流してくれるような優しい雨の方が似合う気がして。それに、この男の子、きっと傘を一本しか持ってこない」
「……うそ、そうしようと思ってた」
部長は絶句している。僕も、背筋にぞくりと鳥肌が立つのを感じた。
偶然か。作家としての、鋭い勘というやつだろうか。だが、凪の言葉には、まるで完成された物語をただ読み上げているかのような、揺るぎない確信があった。
そんなことが、何度か続いた。
ある時は、僕が図書室で借りようと手を伸ばした本を、先に彼女がカウンターへ持っていき、「相川くんなら、きっとこれが読みたくなると思ったから」と微笑んだり。
またある時は、部活が始まる前に、「今日は雨が降るから、早く帰ったほうがいい」と呟き、その言葉通りに、下校時刻には空が真っ黒な雲に覆われたりもした。
その予言めいた言動は、彼女のミステリアスな魅力を増幅させると同時に、僕の心にかすかな違和感を芽生えさせた。まるで、彼女だけが、僕らの知らない世界の脚本を読んでいるかのようだ。
「凪ってさ、なんかすごいよね。占い師みたい」
「そうかな。物語を読んでいると、なんとなくわかるようになるだけだよ。言葉の続きとか、世界の“行間”みたいなものが」
彼女はいつもそう言って、ふわりと笑って煙に巻く。
その笑顔の前では、僕の抱いた疑念など、取るに足らない些細なことのように思えてしまうのだった。
僕らは少しずつ、言葉を交わすようになった。彼女が勧めてくれた海外小説は、どれも僕の世界を豊かにしてくれたし、僕が彼女に教えたマイナーな邦楽バンドを、彼女は「言葉が綺麗」と言って、静かに聴き入っていた。
彼女を知れば知るほど、その才能の深さに驚嘆する。しかし同時に、ふとした瞬間に彼女が見せる表情に、胸が締め付けられた。誰もいない教室で、一人、窓の外を眺めている時の、すべてを諦めたような横顔。僕らの賑やかな会話の輪の中で、一瞬だけ、その瞳から色が消える瞬間。
彼女は、何か途方もない孤独を抱えている。
その孤独の正体に触れたいと思ってしまうのは、僕のエゴだろうか。
そんなある日の帰り道だった。
珍しく部長も後輩の鈴木も用事があり、僕と凪は二人きりで夕暮れの道を歩いていた。茜色に染まる空が、僕らの影を長く、長くアスファルトに伸ばしている。
沈黙が気まずくて、僕はありきたりの話題を口にした。
「部誌の締め切り、もうすぐだね。綾瀬さんは、何か書くの?」
「……うん。一つ、書こうと思ってる物語があるの」
彼女は立ち止まり、僕の方を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、いつになく真剣な色を宿していて、僕はごくりと息を呑む。夕日が彼女の輪郭を金色に縁取り、その姿はまるで、この世のものとは思えないほど幻想的だった。
「ねえ、相川くん」
「……なに?」
「もし、私が書く物語が、本当に未来に起こることだとしたら……どうする?」
その言葉は、冗談として聞き流すには、あまりにも重く、切実な響きを持っていた。僕の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。まただ。彼女だけが知っている脚本。僕らが知らない、世界の“行間”。
「どうするって……そんなの、まるでSF小説みたいじゃないか」
僕は、かろうじて笑みを作ってそう答えた。だが、凪は笑わない。彼女は僕の目から一度も視線を外さずに、続けた。
「私が書くの。私の……未来の物語を」
その声は、夕暮れの喧騒の中に、溶けてしまいそうなほど震えていた。
僕は何も言えなかった。なんと返せばいいのか、わからなかった。僕の中に芽生え始めていた違和感が、確かな輪郭を持って迫ってくるような恐怖を感じていた。
やがて、彼女はふっと息を吐き、先ほどまでの緊張を霧散させるかのように、儚げに微笑んだ。
「近いうちに、部誌に投稿するから。その時は……読んでくれる?」
その問いかけは、僕の心を揺さぶるには十分すぎた。
読みたい。君が紡ぐ物語を、もっと。
そう答えようとして、僕は言葉に詰まる。彼女の瞳の奥。微笑みの裏側に隠された、深い、深い悲しみの色に気づいてしまったからだ。それは、まるで助けを求めるような、あるいは、すべてを諦めて別れを告げているような、そんな色だった。
この時、僕はまだ、彼女の言葉の本当の意味を理解していなかった。
それが、残酷な未来からのSOSであることにも、僕の日常を根こそぎ破壊する物語の始まりを告げるゴングだったことにも。
ただ、夕焼けに染まる彼女の横顔があまりにも美しくて、そしてあまりにも悲しくて、僕はその場に立ち尽くすことしかできなかった。