第17話 君が戦った記録と、消された少年の名
誰だ、こいつは。
僕の思考は、その一点に釘付けになっていた。色褪せた写真の中で、幼い綾瀬凪の隣で笑う、見知らぬ少年。しかし、僕の魂は、この顔を知っていると、激しく叫んでいた。記憶という名の分厚い壁の向こう側から、誰かが必死に僕を呼んでいるような、もどかしく、そして焦燥感に満ちた感覚。
「……先輩も、何か感じますか」
隣で写真を覗き込んでいた鈴木が、低い声で尋ねる。
「ああ。知ってるはずなんだ。でも、思い出せない。頭に、霧がかかったみたいに……」
「俺もです。この男の子……確かに、どこかで……」
世界の改竄は、僕らの記憶の、より深い領域にまで及んでいる。それは、後から書き換えられた「誤植」とは違う。もっと根源的な、僕らが僕らになる以前の、原風景のような記憶が、意図的に封じられている感覚。
僕が写真から目を離せずにいると、不意に、パソコンのモニターの光がちらついた。
はっとして画面に視線を戻した僕は、自分の目を疑った。
先ほどまで、意味のない記号の羅列で埋め尽くされていたテキストファイルが、意味の通る、日本語の文章に書き換わっている。
それは、日記ではなかった。小説でもない。
それは、綾瀬凪が遺した、もう一つの『抵抗の記録』。
この世界と、その残酷な作者に対して、彼女がたった一人で挑んだ、孤独な戦いのログだった。
僕と鈴木は、吸い寄せられるように画面を覗き込んだ。
【世界のバグに関する考察記録 Ver.3.1】
File.01:観測される誤植リスト
・近所の猫の毛の色が、三毛から黒一色に置換される。
・天気予報が、過去の放送記録ごと書き換えられ、常に「的中」したことになる。
・歴史の教科書から、とある小国の名前が消える。その国が存在したという事実は、私の記憶の中にしか残っていない。
File.02:作者(仮称)の介入パターン分析
・介入は、主に私の睡眠中に、大規模に行われる傾向がある。
・私が世界の「矛盾」を強く意識し、記録を試みると、介入の頻度と悪意性が増大する。
・作者は、私が他者と「世界の異常性」について共有することを、極端に嫌う。接触した相手の記憶を改竄し、私を孤立させようとする。
そこには、僕が経験したものと同じ、あるいはそれ以上の、無数の「誤植」と、凪による冷静な分析が記されていた。そして、その記録の合間には、彼女の悲痛な魂の叫びが、血を流すように綴られていた。
『誰も気づいてくれない。私の見ている世界が、毎日少しずつ壊れていっているのに』
『私が狂っているだけなのだろうか。お願い、誰か、この世界が間違っていると、私に言って』
『記憶の番人は、あまりにも孤独だ。この宇宙で、たった一人、真実の牢獄に囚われている』
涙が、こみ上げてきた。
彼女は、戦っていたのだ。僕が想像していたよりも、ずっと前から、ずっと孤独に。
僕が、のうのうと退屈な日常を送っていた、まさにその時も、彼女はこの部屋で、たった一人、世界の狂気と対峙していた。
そして、その戦いに敗れ、絶望の中で、最後の希望を、あの原稿に、僕に、託したのだ。
「……凪」
僕は、彼女の本当の苦しみを、今、初めて理解した。
僕と鈴木は、彼女の遺した最後の記録を、祈るように読み進めていく。
そして、そのファイルの最後に、僕らが追い求めていた、核心的な情報が記されているのを見つけた。
File.03:世界の改竄における特異点に関する仮説
・作者の介入には、ある種の“起点”が存在する可能性がある。それは、特定の人物の記憶、あるいは存在そのもの。
・作者は、その“起点”を、この世界から完全に消し去ることを目的としているように思える。世界の書き換えは、そのための大規模な隠蔽工作ではないか。
・そして、その“起点”となっているのは、おそらく――
その文章の後に、一行、空白が空けられ、震えるような、しかし、はっきりとした筆跡で、一つの名前が記されていた。
『天音 カケル』
その名前を目にした瞬間、僕と鈴木の頭を、閃光のような激しい痛みが貫いた。
砂嵐の向こう側で、誰かが笑っている。夏の日差し。蝉の声。ひまわり畑。絡められた、小さな指の感触。
断片的なイメージが、ノイズ混じりで再生され、そして、すぐに真っ黒な闇に塗り潰される。
「ぐっ……あ……!」
「……っ、先輩……!」
僕らは、揃って頭を抱えてうずくまった。
天音カケル。
そうだ、それが、写真の少年の名前だ。僕が忘れてはいけなかった、大切な、大切な――
その時だった。
ひゅう、と遠くから、救急車とは違う、もっと切迫したサイレンの音が聞こえてきた。そして、その音は、一直線に、このマンションへと近づいてくる。
パトカーだ。
誰かに、見られたのか? 管理人か、他の住人か。僕らの不法侵入が、バレてしまったのか?
いや、違う。
僕の直感が、警鐘を鳴らす。これは、ただの通報じゃない。
僕らが、核心に近づきすぎた。
『天音カケル』という、作者が最も隠したい名前に、たどり着いてしまった。
だから、作者は、僕らを排除しに来たのだ。この世界のルール――『法律』という、最も抗いがたい力を使って。
「鈴木! 逃げるぞ!」
「で、でも、どこへ!」
サイレンの音は、もう、マンションの真下まで迫っている。
僕は、机の上のノートパソコンをひっつかみ、鈴木に叫んだ。
「その写真、持て!」
僕らは、凪が遺した二つの重大な手がかりを手に、絶望的な状況に追い詰められていた。
扉の外からは、複数の人間が階段を駆け上がってくる、荒々しい足音が聞こえ始めていた。