第14話 世界のテキストと、黒く塗り潰された真実
僕と鈴木は、共犯者のようにファミレスのボックス席に向かい合って座っていた。学校では、僕らは決して交わらない二本の線だ。僕が「いない者」として扱われている以上、鈴木が僕と親しくしている姿を誰かに見られるのは、彼にとってもリスクでしかない。僕らの密会は、放課後の、こうした街の喧騒の中だけで許されていた。
テーブルの上には、僕の『抵抗の記録』ノートと、そして、すべての元凶である綾瀬凪の原稿の束が置かれている。
「……信じられません」
僕から全ての事情を聞き終えた鈴木は、長い沈黙のあと、眼鏡の奥の瞳を細めてそう呟いた。だが、彼の声にパニックの色はなかった。むしろ、これまで自分を苛んできた不可解な現象に、ようやく輪郭が与えられたことへの、冷徹な納得のようなものが感じられた。
「つまり、この世界は、リアルタイムで編集され続ける巨大なテキストファイルのようなものだ、ということですね。そして、何者か――先輩の言う『作者』が、その管理者権限を握っている」
彼は、僕が感情的にしか捉えられなかったこの超常現象を、淡々と、的確に言語化していく。その冷静さは、一人で絶望の淵にいた僕にとって、何よりも心強いものに思えた。
「そして、凪先輩が遺したこの原稿は、そのテキストの“バックアップデータ”であり、同時に、未来の更新内容が記された“パッチノート”でもある……と」
「……お前、すごいな。俺はただ、怖がることしかできなかった」
「俺は、こうやって物事を分解して考えないと、正気を保てないだけです」
鈴木はそう言って、自嘲気味に笑った。
僕らは、自然と役割分担をすることになった。世界の改竄を直接その身に受け、物語の中心にいる僕が『プレイヤー』なら、一歩引いた場所から状況を分析し、法則性を見つけ出そうとする鈴木は、まさに『アナリスト』だった。
孤独だった戦いが、初めてチーム戦の様相を呈し始めた。それだけで、僕の心は少しだけ軽くなった。
だが、世界の作者は、僕らが手を取り合うことを、決して許しはしなかった。
その時だった。
僕らが目の前の原稿に視線を落としていると、信じられない現象が起きた。
これまで、原稿の変化は、常に白紙のページに新しい文章が『書き足される』という形で行われてきた。
しかし、今、僕らの目の前で起こったのは、それとは全く違う、より悪質な『改竄』だった。
原稿の中の、ある一節。それは、凪の小説の中で、シオリ(凪)と相沢(僕)が初めて心を通わせる、重要な会話シーンだった。僕が、彼女の才能を褒め、彼女が、少しだけはにかんで微笑む。僕が、何度も読み返した、大切な場面。
その文章の文字が、まるで意思を持った虫のように、にじみ、蠢き、そして、全く別の言葉に書き換えられていったのだ。
【改竄前】
『「君の書く物語は、綺麗だ」と相沢くんは言った。「ありがとう」と私は答えた。彼の言葉は、凍りついた私の心を、少しだけ溶かしてくれた』
【改竄後】
『「君の書く物語は、独りよがりだ」と相沢くんは言った。「……放っておいて」と私は答えた。彼の言葉は、私の心を、さらに硬い殻で閉ざした』
「……なんだ、これ……」
僕は、声も出せずに絶句した。
僕と凪の、大切な思い出が。僕らの絆の始まりだったはずのシーンが。目の前で、憎悪と拒絶に満ちた、冷たいやり取りに変えられてしまった。
過去の記録すら、もう信用できない。
世界の作者は、僕らの精神を直接折り、僕らの協力関係を破壊するために、物語の根幹にまで手を入れてきたのだ。
「……おかしい」
僕が呆然とする隣で、鈴木が、低い声で呟いた。
「何がだ……?」
「作者は、矛盾を嫌うはずです。それなのに、なぜ今更、過去の記録を書き換える……?辻褄が合わなくなるリスクを冒してまで……」
鈴木は、眼鏡の位置を指で押し上げ、鋭い視線で僕を見た。
「考えられる可能性は一つ。作者は、何かを隠そうとしているんです。この原稿の中に、作者にとって“都合の悪い真実”が書かれている。だから、俺たちがそれを読み解く前に、別の内容に上書きして、隠蔽しようとしているんじゃないでしょうか」
その言葉は、僕にとって、まさに目から鱗だった。
作者の目的は、単に僕らを弄ぶことだけではない。凪がこの原稿に込めた、何らかの重要なメッセージ、あるいは『作者』の正体に繋がる手がかりを、僕らから隠すことこそが、真の目的なのかもしれない。
「……そうか。だから、凪は……」
凪は、この原稿を僕に遺した。作者の妨害を乗り越えて、その隠された真実を、僕に見つけ出してほしかったのだ。
僕と鈴木の視線が交錯する。やるべきことは、決まった。
「鈴木。この原稿を、もう一度、最初から読み直そう。一字一句、見逃さずに。作者が隠そうとしているものが、きっとどこかにあるはずだ」
「はい、先輩」
僕らが、新たな決意を固めた、その瞬間。
二人の目の前で、凪の原稿の一ページ、その中央部分が、まるで墨汁を垂らしたかのように、じわり、と黒く塗り潰されていった。
それは、文章の改竄よりも、さらに直接的で、暴力的な妨害だった。
黒く、黒く、塗り潰されていく真実。
世界の作者は、僕らにこう告げていた。
これ以上、詮索するな。
お前たちに、真実を知る資格はない、と。
僕らの本当の戦いは、ここから始まる。
作者との、隠された真実を巡る、読解と妨害の、果てしない追いかけっこが。