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第12話 世界の綻びと、君の涙の痕

世界から、僕は「いない者」になった。

佐藤部長を「殺そうとした」卑劣な加害者。そのレッテルは、僕が思うよりずっと速く、そして広く学校中に浸透した。僕の左腕のギプスは、もはや同情の対象ではなく、僕の罪を告発する動かぬ証拠となっていた。


廊下を歩けば、ひそひそ話と嘲笑が背中に突き刺さる。教室では、僕の机の周りだけ、ぽっかりと空間ができていた。昨日まで普通に言葉を交わしていたクラスメイトたちは、僕と目が合うと、怯えたように、あるいは軽蔑するように視線を逸らす。


文芸部室に行くことは、もうできなかった。あの場所は、僕が愛した穏やかな聖域ではなく、僕の罪を断罪するための法廷になってしまったからだ。後輩の鈴木でさえ、僕を遠巻きに見るようになっていた。


僕は、完全に孤立した。

『君が誰かを救おうとすればするほど、君は、その救った相手から、深く、深く、憎まれることになる』

凪の言葉が、呪いのように僕の心を縛り付ける。正義も、勇気も、優しさも、この世界では全てが悪意に書き換えられてしまう。ならば、僕に何ができる? 何もせず、ただこの世界の嘘を受け入れ、全てが喰われていくのを待つしかないのか。


現実世界に居場所をなくした僕は、必然的に、二つの「物語」へと逃げ込むことになった。一つは、僕が書き続ける『抵抗の記録』。そしてもう一つは、この悲劇の元凶である、綾瀬凪の原稿だ。


僕は、自分のノートに、問いかけるように書きなぐった。

『凪、君も、こんな風に一人ぼっちだったのか? この孤独の中で、君はどうやって正気を保っていたんだ? 教えてくれ。僕が次に何をすればいいのか』


それは、答えが返ってくるはずのない、虚空への問いかけだった。

だが、その夜。僕が凪の原稿を開くと、そこには、僕の問いに応えるかのような、新しい文章が浮かび上がっていた。


『世界の作者は、“矛盾”を嫌う』


僕は、その一文に吸い寄せられるように、顔を近づけた。


『この世界は、物語のルールに沿って、常に整合性を保とうとする。だが、君の存在と、君が書き続ける“真実の記録”は、この世界にとって最大のバグであり、最も美しい“矛盾”だ。その矛盾が、やがて世界の分厚い壁に、小さな綻びを作る』


矛盾が、綻びを作る。

その言葉は、真っ暗な絶望の底に差し込んだ、一筋の光のように思えた。

僕の抵抗は、無意味ではなかった。僕が真実を記録し続けること、僕がこの世界にとっての「バグ」であり続けること自体が、いずれ、この完璧に見える監獄を内側から破壊する力になるのかもしれない。


僕の目的が、変わった。

ただ、受け身で世界の改竄に抵抗するだけじゃない。もっと能動的に、積極的に、この世界の「矛盾」を突きつけてやる。そうすることで、綻びを広げ、物語の根源、そして、この世界を操る『作者』の正体に迫るのだ。


その日から、僕はこれまで以上に注意深く、世界を観察し始めた。

自分のノートと凪の原稿、そして現実。その三つを照らし合わせ、どんな些細な矛盾も見逃さないように。


そして、ある日のことだった。

僕は、一つの、信じられない光景を目にする。


昼休み。僕は、教室の窓から、一人でグラウンドを眺めていた。そこには、体育の授業を受けている佐藤部長のクラスの姿があった。腕の骨折騒ぎ以来、僕は彼女の顔をまともに見ることができずにいた。

彼女は、友達と楽しそうに笑いながら、バレーボールをしていた。その姿を見るだけで、胸が軋むように痛む。


その時だった。

相手チームから打たれたボールが、部長の顔のすぐ近くを掠めた。彼女は、とっさに身を屈めてそれを避けた。そして、立ち上がりながら、無意識にこう呟いたのだ。


「うわ、危ないわね、これ」


僕の、時間が止まった。

その言葉。その口調。

それは、数日前、僕が腕を折ったあの日、彼女が階段の踊り場で、崩れそうな本の山を見て言った言葉と、全く同じだった。


彼女の記憶は、僕への憎悪で完璧に上書きされたはずだ。あの日の出来事は、僕が悪意を持って彼女を突き飛ばそうとした、という卑劣な物語に書き換えられた。

それなのに、なぜ。

なぜ、あの時の言葉の断片が、彼女の口から零れ落ちる?


部長は、何か不思議そうな顔で自分の口元に手を当てていたが、すぐに友達との会話に戻っていった。彼女自身、なぜその言葉が出たのか分かっていないようだった。


だが、僕にはわかった。

これが、凪の言っていた『綻び』だ。

世界の書き換えは、完璧ではない。物語の力をもってしても、人間の記憶や、心に深く根付いた無意識の癖までは、完全には支配しきれないのではないか。


そうだ。まだ、希望はある。

僕が諦めさえしなければ。


その日の夜。僕は、新たな希望を胸に、凪の原稿を開いた。

そして、そこに浮かび上がった、次なる『予言』を読んで、息を呑んだ。


これまでの予言とは、明らかに毛色が違っていた。

物理的な危害でも、記憶の改竄でもない。もっと不気味で、世界の根幹を揺るがすような、メタ的な一文。


『次の“誤植”は、二人目の覚醒者を生む』


『鈴木誠は、“この世界が物語である”という事実に、気づき始める』


鈴木。

文芸部の、あの無口な後輩。

僕以外の人間が、この世界の異常に気づく?

それは、孤独な戦いを続ける僕にとって、初めての協力者を得るチャンスになるのだろうか。


それとも、彼をもこの狂った物語に引きずり込み、破滅させてしまう、新たな悲劇の始まりに過ぎないのだろうか。


僕の目の前に、世界の作者が仕掛けた、新たなゲームの盤が用意されようとしていた。

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