第11話 君を救った代償は、君からの憎悪
白い天井。ツン、と鼻をつく消毒液の匂い。左腕に巻かれた、石膏のように硬いギプスの感触。
僕は、病院のベッドの上で目を覚ました。左腕の骨は、綺麗に折れていたらしい。全治二ヶ月、という医師の言葉が、やけに現実味なく頭の中で響いていた。
「湊! 目が覚めたのね!」
ベッドの脇で、心配そうに僕の顔を覗き込んでいた佐藤部長が、安堵の声を上げる。彼女の瞳は赤く腫れ、その目元には涙の跡が残っていた。僕が突き飛ばした時に擦りむいたのだろう、彼女の膝には大きな絆創膏が貼られている。
「部長……怪我は……」
「私のことなんていいのよ! それより、あなた……! 本当に、ごめんなさい……私のせいで……」
彼女は、僕の無事な方の手をぎゅっと握りしめ、再びその瞳に涙を溜めた。その温かい感触と、僕を心から心配してくれる彼女の優しさに、僕は激しい痛みを忘れ、心の底から安堵していた。
よかった。彼女を救えた。
僕の腕一本と引き換えに、彼女の笑顔を守れたのなら、安いものだ。
僕の介入は、確かに未来を書き換えたのだ。
その時、病室の扉がノックされ、一人の看護師が入ってきた。
「相川さん、そろそろ面会時間、終わりになりますので」
「あ、はい……」
佐藤部長は名残惜しそうに立ち上がると、僕に深く、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとう。湊。あなたが、私を助けてくれなかったらって思うと……。この御礼は、必ずするから」
その言葉は、僕の胸を温かいもので満たした。孤独な戦いの中で、初めて得られた確かな手応え。初めて感じた、誰かとの絆。
僕は、まだ戦える。
その、はずだった。
僕の安堵が、絶望的な形で裏切られることになるなど、この時の僕には知る由もなかった。
翌日。僕は腕を吊った痛々しい姿で、学校へ向かった。教室に入ると、クラスメイトたちが一斉に僕に注目し、口々に心配の声をかけてくれる。僕は曖昧に笑ってそれに応えながら、佐藤部長の姿を探した。
彼女は、自分の席で友達と話していた。僕に気づくと、彼女は一瞬、びくりと肩を揺らした。そして、僕から、すいっと視線を逸らしたのだ。
あれ?
僕は、胸に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。
昨日の、あの感謝に満ちた瞳はどこへ行ったのだろう。
昼休み。僕は、意を決して部室へ向かった。扉を開けると、そこには佐藤部長が一人だけでいた。彼女は、僕の顔を見るなり、さっと立ち上がり、僕との間に距離を取った。その瞳に宿っているのは、感謝ではなかった。それは、僕が今まで一度も彼女の瞳に見たことのない色。
恐怖と、そして、明らかな――敵意。
「……部長?」
「……来ないで」
絞り出すような、冷たい声。
僕は、その場に凍りついた。
「どうしたんですか、昨日、あんなに……」
「昨日……?」
彼女は、まるで汚いものを見るかのような目で僕を睨みつけた。
「昨日、あなたが私にしたことを、忘れたなんて言わせないわ」
「え……?」
「とぼけないで! あなた、私をあの本の山に突き飛ばそうとしたじゃない! 私がとっさに身をかわしたから、あなたが代わりに怪我をしただけ。自業自得よ!」
何を、言っているんだ?
頭が、真っ白になる。
僕が、彼女を、突き飛ばそうとした?
違う。僕は彼女を助けるために……!
「違う! 俺は、部長を助けようと……!」
「嘘つき!」
彼女の金切り声が、部室に響き渡る。
「みんな、騙されてるわ! あなたが、普段から私のことを妬んでたの、知ってるんだから! 私が部長で、あなたがただの部員だからって……! まさか、あんなやり方で私を傷つけようとするなんて……最低よ!」
彼女の言葉は、鋭い刃物となって、僕の心をズタズタに切り裂いていく。
記憶が、書き換えられている。
僕の英雄的な行動は、嫉妬に狂った卑劣な加害行為に、完璧に上書きされていた。
僕が彼女を救ったという事実は、この世界から消え去り、代わりに、僕が彼女を殺そうとしたという『嘘』が、新たな『真実』になっていた。
これが、ペナルティ。
世界の作者が僕に課した、あまりにも残酷な罰。
僕は、何も言えなかった。どんな反論も、彼女の歪められた記憶の前では、虚しい言い訳にしかならないだろう。
僕は、彼女に背を向け、逃げるように部室を飛び出した。
その日の夜。僕は、震える手で凪の原稿を開いた。
僕の腕が折れたことを記した文章の下に、新たな章が、冷酷なインクで記されていた。
『第十一話:英雄は、悪意ある加害者に書き換えられる』
『相沢くんは、水瀬シオリを救おうとして、世界の脚本に抗った。彼はシオリを突き飛ばし、自らが傷つくことで、悲劇を回避した。だが、世界の作者は、その英雄的行為を許さない』
『翌日、シオリの記憶は書き換えられた。彼女にとって、相沢くんは自分を殺そうとした卑劣な人殺し未遂の犯人となった。彼の優しさは、邪悪な嫉妬に。彼の勇気は、卑劣な暴力に。彼が彼女のために流した血は、彼自身の罪の証拠に変わってしまった』
『これが、世界の脚本に抗った者の末路。君が誰かを救おうとすればするほど、君は、その救った相手から、深く、深く、憎まれることになる』
僕は、原稿用紙の上に、ぽたり、と涙を落とした。
悔しさとも、悲しさとも違う、どうしようもない絶望。
腕の痛みなど、もう感じなかった。それよりも、僕の心を蝕む、この孤独と無力感の方が、よほど耐え難い。
僕は、部長を救った。
その代償は、彼女からの、永遠に消えない憎悪だった。