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第1話 世界に、君というインクが落ちた日

物語は、世界を喰らう。


そんな陳腐な言い回しを、僕はいつから信じるようになったのだろう。

放課後の文芸部室。窓から差し込む西日が、空気中を舞う埃をキラキラと照らし出している。古い紙とインクの匂い。壁一面に並ぶ古今東西の小説たちが、まるで世界の真理をすべて知っているかのように、静かに僕を見下ろしていた。


僕、相川湊あいかわ みなとは、高校二年生。この文芸部の、しがない部員の一人だ。書くことは好きだが、胸を張れるほどの才能はない。ただ、ページをめくる指先に感じる紙の質感や、インクが紡ぎ出す言葉の連なりが、退屈な日常から僕をほんの少しだけ遠ざけてくれる。それだけで十分だった。


「湊、また難しい顔して。新作のプロット?」


向かいの席で、部長の佐藤さんがあきれたように笑う。彼女はいつも明るく、この停滞しがちな部室の空気をかき混ぜてくれる唯一の存在だ。僕は書きかけの原稿用紙から顔を上げ、曖昧に笑い返した。


「いえ、なんかこう……しっくりこなくて。主人公が、どうにも僕の手を離れてくれないんです」

「あるあるだね。まあ、産みの苦しみってやつよ。気長にやんなさい」


彼女の言葉に、僕は再び原稿用紙へと視線を落とす。僕が創り出したはずの世界。僕が命を吹き込んだはずの登場人物。それなのに、彼らは僕の意図を無視して、勝手な行動ばかりとる。いや、違う。むしろ逆だ。彼らは、僕という創造主の退屈さを反映しているかのように、決まりきったレールの上しか歩こうとしない。この物語も、僕の日常と同じように、きっと何の変哲もない結末を迎えるのだろう。


その、ありふれた絶望を予感した、まさにその時だった。


がらり、と部室の引き戸が開く。そこに立っていたのは、担任の古文教師であり、僕らの顧問でもある田中先生。そして、その後ろに――まるで世界の色彩すべてをその身に吸い込んでしまったかのような、一人の少女が立っていた。


「紹介する。今日、うちのクラスに転校してきた、綾瀬凪あやせ・なぎさんだ。本が読みたいっていうから、文芸部に連れてきた」


綾瀬凪。


その名前が鼓膜を揺らした瞬間、部室の空気が変わった。佐藤部長も、部屋の隅で黙々と本を読んでいた無口な後輩・鈴木も、一斉に彼女へと視線を注ぐ。


色素の薄い、さらりとした黒髪。切りそろえられた前髪の下から覗く大きな瞳は、どこか遠い場所を見つめているようで、僕ら凡人には窺い知れない深い湖の色をしていた。白いブラウスは少し着崩されていて、それがかえって彼女の存在を危うげに、そして神秘的に見せている。何より印象的だったのは、彼女が纏う空気そのものだった。それは、静寂としか言いようがない。けれど、耳を澄ませば、その静寂の奥から無数の物語が生まれ落ちるような、そんな不思議な気配がした。


「綾瀬凪です。よろしくお願いします」


か細い、けれど芯のある声。彼女はぺこりと頭を下げた。その仕草一つで、僕の目の前にある原稿用紙の世界が、急に色褪せて見えた。


「すごい! 大歓迎だよ! 私は部長の佐藤美咲。よろしくね、凪ちゃん!」


佐藤部長が早速、人懐っこい笑顔で彼女の手を取る。綾瀬は少し驚いたように目を瞬かせたが、やがてふわりと、花が綻ぶように微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。


儚い。消えてしまいそうだ。


そんなありきたりな言葉しか、浮かばなかった。


彼女は、僕らが住むこの現実世界とは違うレイヤーを生きているように見えた。まるで、誰かが書いた物語の登場人物が、迷い込んでしまったかのように。


その後、僕らは当たり障りのない自己紹介を交わした。彼女はあまり自分自身のことは語らなかったけれど、どんな作家が好きか、という話題になると、その瞳に微かな熱が宿った。僕らが名前も知らないような、海外のマイナーな作家の名前を、彼女は愛おしそうに口にする。その知識の深さに、僕らはただただ圧倒されるばかりだった。


そして、事件は起きた。


「あの……それ、あなたが書いているんですか?」


ふと、綾瀬が僕の手元を指差した。僕がうんざりしていた、あの書きかけの原稿用紙だ。


「あ、ああ。まあ、一応……。でも、全然ダメなんだ。行き詰まってて」


僕は気まずさから、原稿を隠そうとする。しかし、彼女は「少し、読んでも?」と、僕の許可を求める前に、ごく自然な仕草で椅子を僕の隣に引き寄せた。近い。シャンプーの、甘くて切ない香りが鼻を掠める。


彼女の白い指が、僕の拙い文章をゆっくりと、なぞるように追っていく。その数分間は、まるで拷問のようだった。自分の内側の、最も恥ずかしい部分をすべて見透かされているような気分だった。


やがて、彼女は顔を上げた。その瞳は、やはり静かな湖のようだった。


「この主人公、本当は気づいてるんですね」

「え……?」

「自分が、この世界の異物だってことに。だから、愛する人を傷つけないために、必死で“普通”を演じている。でも、そのせいで、もっと孤独になってる」


雷に打たれた、とはこのことだろうか。

僕自身でさえ、言語化できていなかった主人公の核心。僕が「言うことを聞かない」と嘆いていたキャラクターの、その魂の叫び。それを彼女は、たった数分で見抜いてみせたのだ。


「どうして……わかるんだ?」

「だって、そう書いてありますから」


彼女はこともなげに言って、僕の原稿用紙の余白に、さらさらと何かを書き込んだ。鉛筆が紙の上を滑る、心地よい音。


『空が青いから、僕は悲しいんじゃない。この空の青さを、美しいと感じてしまう“普通”の感性が、僕の中にまだ残っていることが、ただ悲しいんだ』


それは、僕が書いたどの文章よりも、僕の主人公の心を的確に表現していた。たった一行。そのたった一行のセンテンスが、停滞していた僕の物語に、再び力強い心臓の鼓動を与えた。


「君は……何者なんだ?」


思わず、心の声が漏れた。

綾瀬凪は、僕の問いには答えず、ただ静かに微笑むだけだった。その笑顔は、僕を肯定するものでも、否定するものでもなかった。まるで、これから始まる壮大な物語の序章を、静かに告げているかのように。


この日、僕の世界に、綾瀬凪という名の一滴のインクが落ちた。

それは、あまりにも鮮やかで、あまりにも濃く、僕の世界のすべてを瞬く間に染め上げていく。


まだ、僕は知らなかった。

この出会いが、僕の日常を、常識を、そして命の意味さえも根底から覆す、残酷で美しい物語の始まりだったということを。


そして、彼女自身が、この世界で最も悲しい物語の主人公だったということを。

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