夾雑物
夏の盛りだというのに、砂浜には人影ひとつない。
見渡す限りの青色と耳触りの良い漣の音だけが、ただそこに存在している。
ふと見た足元には、黄色がかった薄灰色の砂に、貝殻がまばらに描かれていた。
水平線を視線でなぞるように遠くを見つめながら、私は砂浜を歩きだした。
その心地よさは、ふと立ち寄った映画館で見たあまり知られていない映画が、思いがけず素晴らしかった時に感じる、あの密やかな優越感に似ていた。
誰も知らない、私だけの世界を見つけたような、こんな世界を随分前から探し求めていたような、そんな感覚だった。
しかし、爽快な気持ちで波打ち際を歩いていると、前方から一人、こちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
風に靡いた長い黒髪は艶やかで、近づくにつれて鮮明になってくるその人物に、私は見覚えがあった。
全身に緊張が走る中、それでも先ほどまでの行動に曇りがないように、正気を保ちながら一歩一歩、前へと足を踏み出す。
靴の中に入ってくる砂と小さな何かが、歩くたびに足の裏を刺激し、微かな痛みを感じていた。
「……久しぶり」
躊躇いながらも、私はその人物に声をかけてしまった。
しかし彼女は私に気づかず——いや、気づいてはいたのだろう。
ただ、見て見ぬふりをして、冷たい顔で私の真横を通り過ぎていった。
その行動に嫌悪感を抱くことはなかった。
むしろ、やっぱりそうだよな、と納得すらしてしまった。
彼女とは、もう何年も会っていなかった。
いわゆる、喧嘩別れというやつだ。
幼い頃からの友人で、周りからは「いつも一緒にいる」なんて言われた時期もあったほど、仲が良かった。
しかし、長年積み上げてきた友好関係は、たった一度のたわいもない言い合いで崩れてしまうほど、呆気なかった。
その後、頻繁にしていた連絡は途絶え、会うことはなくなってしまった。
彼女はやはり、まだ私のことを許してはいないのだろうか。
悲しみや寂しさとは少し異なる、どこか無情な感覚にとらわれていると、前方からまた一人、こちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
遠目にもはっきりと分かるほどの美しさを湛え、近づくにつれて鮮明になってくるその人物に、私はまた見覚えがあった。
「久しぶり……」
素通りされるのではと身構えながらも、私はその人物にまた声をかけてしまった。
しかし、彼女はその美しい顔をこちらに向けていた。
怒りでも喜びでもない無表情で、小さい唇は、私の言葉に対する返事をしようと、開く様子はなかった。
その威圧的ともいえる態度に、二の句が継げなくなりそうだったが、勇気を出して私はまた口を開いた。
「元気だった?」
少し焦っていたせいか、定型的な台詞しか頭に浮かばなかった。
それでも彼女は、彫刻のように表情こそ変えなかったが、静かに頷いて、私の問いに回答してみせた。
その仕草を見て、私はまた次の言葉をかけるが、何度話しかけても彼女は同じ行動を起こすだけだった。
水中で呼吸ができなくなってくるような、息苦しい雰囲気に耐えきれず、私はついに、ロボットのようになった彼女に「じゃあまた、連絡する」と言い、その場を去った。
彼女は昔から人と話すのが苦手な性格だった。
もしかしたら、久しぶりに会う友人に緊張していたのかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、励ました。
二度あることは三度あるという諺を思い出さずにはいられない。
前方からまた一人、こちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
洗練された黒い服を纏っていて、近づくにつれて鮮明になってくるその人物に、私はやはり見覚えがあった。
「久しぶり」
今度こそはと期待を胸に抱き、私はその人物にまた声をかけてしまった。
すると彼女は、恥ずかしさを交えながらも「……久しぶり」と言葉を返してくれた。
しかし、その返事の仕方に私は違和感を覚えた。
以前よりも大人びて見える彼女は、私の知っている友人ではない。
まるで別人のように思えたからだ。
「元気にしてた?」
不思議に思いながらも会話を続けた。
しかし、何度言葉を交わしても、私の知っている彼女のはにかみや躊躇いは一切感じられず、自信に満ちた表情がそこにはあった。
「もうあれから何年経つかな」
会話を続けようと発した言葉で、その違和感に説明がついたような気がした。
彼女と疎遠になってから数年が経っていた。
それだけ月日が経てば、彼女が私の知らない人になっていてもおかしくはない。
「また、どこか遠くに遊びに行きたいね」
彼女は、これからまた紡がれていくであろう私との未来を想像して楽しそうに、それとも、この空白の数年を思ってどこか寂しそうに、そう言った。
返事に戸惑っていると、靴の中に入った砂と小さな何かが、足の裏をつく痛みを思い出した。
なぜこれほどまでに疎遠になってしまう人ができるのか、その原因は自分自身にあることを、私は分かっていた。
大勢の場所よりも、孤独を好む。それ以外にも、人と関わりを持つ上では足枷となるような、純粋な物質の中に混ざり込んだ不要な物や異物のような、そんな自分の性格が人を遠ざけるのだと、本当は知っているのだ。
心のどこかでは願っていた、また会えたらと。
でもそれでいいのだとも、思ってしまう。
水平線を視線でなぞるように、遠くを見つめながら、ひとりぼっちの砂浜を歩いている。
遠く離れた君にもう一度会えたら、君はなんと言うだろう。
私のことを見て見ぬふりするだろうか。
そっけなく相槌を打つだろうか。
でももしかしたら、何もなかったかのように、また笑って話をしてくれるだろうか。
なんてことが、あるはずもないのだけれど。