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かえってきたよ

作者: 椿まほろ

 隣の部屋にその男性が引っ越してきたのは、私が三人目の子供を妊娠したばかりの頃だ。

 五歳の娘と四歳の息子はやんちゃ盛りで、安定期に入る前の私はいつも神経をとがらせている。

 私たち家族が住んでいるのは、四国のとある中核都市の市営団地だ。夫が子供の頃から住んでいる場所で、私は彼の元に嫁ぐ形でそこへ越してきた。

隣の小さな市で一人娘として一軒家で育てられた私には、そこはある意味異質な場所で、そこでの人間関係や生活スタイルは新鮮さと違和感の塊だった。

 訳ありな人々が多く住むその場所にいることを、実家の母はよく思っておらず、常に口を酸っぱくして引っ越すようにと勧めてくる。私も引っ越したいとは思うものの、家計を支える夫にはまったくその意志がなく、子育てと家事に追われながら、淡々と過ぎ去っていく団地での日々に甘んじていた。

「おかあさん、みかんもろた!」

 ある日の夕方、娘がみずみずしいみかんが三つ入った赤いネットの上部を片手に握って、玄関先に立っていた。

 とても嬉しそうにニコニコと笑って、自分の手柄だと言わんばかりにはしゃいでいる。

「あんた、そのみかんどこでもろてきたん?」

 私の声に何かを感じたのか、娘がとっさに小さな両手で頭を庇うように隠す。

「おかあさん! おこらんとって! おこらんとって!」

 怯えたように繰り返す娘に、ほのかな苛立ちと罪悪感を抱く。

 私はそんなにこの子に怒ってばかりなのだろうか。

「怒らんけん言うてみい。みかんくれた人にお礼言わないかんやろ?」

 理由をつけて尋ねると、娘は怯えた上目遣いを見せ、隣の部屋の方へ視線を向ける。

「となりのおいちゃん」

「お隣さん?」

「うん。となりのおいちゃん、やさしいよ! こわないよ!」

「なんでそんなこと知っとるん?」

「おいちゃんとおはなししとる!」

「ええ?」

 いつの間にこの子は、隣の男性と会っていたのか。

 私の娘は、一人で外へ遊びに行っては、よく団地内のご近所さん……特に年配の方と楽しそうに話している。皆、人懐っこい娘を可愛がってくれ、五歳の娘に話を合わせてくれていた。

 娘が、物怖じすることなく誰とでも仲良く接することを叱る道理などないが、親としては少し心配になる。

 私は、一つため息をついて娘の手に握られていたみかんの入ったネットを受け取った。

 隣の男性とは、彼が引っ越してきて以来まともに話したことがない。

 彼は通いの仕事にも行っている様子はなかった。

 何より、この団地へ引っ越してきた人である。訳ありでないはずがない。

「おじさんに、みかんのお礼言わんとね」

「うん!」

 娘は屈託無く笑い、隣の部屋の前へ向かう私にちょろちょろとくっついてきた。

 インターホンもない団地の重い鉄製のドアを、丸めた手の甲で三回ノックする。

 私はこの瞬間が嫌いだった。

 分厚く閉ざされた重い扉を叩くとき、私の指の骨はミシミシと痛む。そんな憂鬱で暴力的な儀式を経て、見たくもない他人の生活に干渉しなくてはならない。

 鉄製ドアをノックして鳴らすと、じきに重厚な壁は開かれた。

 中から一人のおじさんが出てくる。

 白髪頭の髪はだいぶ薄く、浅黒く日焼けした肌にはシワが刻まれ、還暦を過ぎた頃にも見える無愛想な人だった。

 男は私の顔を見て、ちらりと私の足にまとわりつく娘を見下ろすと、また私の顔を見る。

「何か?」

「あ、すみません。うちの子が、おみかんをいただいたそうで」

 おじさんが目を見開いて表情を丸くする。

「ああ……何、いいんですよ。一人じゃ食べきれんけん」

「おいちゃん、ありがとう!」

「ああ、かまんよ」

 娘が発した礼に、おじさんは何度も頷いた。

(ああ、怖ない人や……)

 私は、根拠のない安心感を得て深々と頭を下げる。

「すみません。いただきます」

「いいえ。こちらこそ、わざわざすみませんね」

 再び扉は閉ざされ、私は娘の小さな背中を押して家族の部屋へと戻った。


 それから、娘はいっそう隣の男性に話しかけるようになり、私も時々顔をあわせると挨拶や世間話をするようになった。

 彼は五十六歳で、病気がきっかけで長く勤めていた仕事を辞めて入院していたそうだ。それがきっかけでこの団地へ引っ越してきたのだという。

 しばらくすると、男性は時折仕事へ出かけるようになり、娘は彼とあまり話せなくなったことを寂しがっていた。

 私の身籠ったお腹はだんだんと大きくなり、あっという間に臨月を迎えた。

 ある夕方、大きなお腹を支える腰を手で庇いながら、二人の幼児を連れて買い物から帰ると、たまたまお隣さんが玄関を開けて出てきた。

「おいちゃん!」

 娘が嬉しそうに覚えたての歪なスキップで男性の元へ寄っていく。

「こら!」

 私は娘が粗相をしないようにと呼び止めたが、あの子は聞こうともせず、おじさんへ向かって笑顔を振りまいていた。

「おいちゃん! ひさしぶりやね!」

「うん。元気やったか?」

「げんき!」

 おじさんに話しかけられて、娘は大層喜んでいた。

 ふと顔を上げると、彼と目が合う。

「だいぶ大きくなりましたね」

「え?」

 一瞬何のことだかわからなかったが、彼の視線で、それがうちの家族の五人目に向けられた言葉だとわかった。

「ああ、はい。もうすぐ生まれるんですよ」

 男性は、娘を見下ろす。

「あゆみちゃん、兄弟が増えるな」

「うん! なまえ、わたしがきめるん!」

「ぼくもきめたい!」

 幼い姉弟が、どちらが赤ん坊の名を決めるかで再び揉め始める。

「赤ちゃんの名前はお父さんが決めるんよ。あんたら、喧嘩するんやけん、いかんわい」

 そう言うと、二人は唇を尖らせて、不満そうに唸る。

 おじさんは苦笑いで子供達を見下ろしていた。

「二人とも、お母ちゃん大変なんやけん、いい子にするんやで」

 そう言って彼は、痩せた背中を丸めて何処かへ出かけていった。

「あんた、赤ちゃんに名前つけるとしたら何にするん?」

 娘に尋ねると、彼女はおじさんの去った方を眺めながら少し考えてこういった。

「けんたくん!」

「けんたは……いかんがね……」

「なんで?」

「だって、それ、あのおじさんとおんなじ名前やで」


 秋が深まり、三人目の息子が生まれ、冬が来て……私の身体は軽くなったが、日々の負担は倍増した。

 新しく増えた息子の名前は「けいた」になった。

 赤子の世話を見ながら家族で食事をしていると、娘がお箸の先を見つめて深刻そうな顔をしている。

「どうしたん? ご飯いらんの?」

 娘は違うと首を振る。

「となりのおいちゃん、さいきんおらんね」

 その声は沈んでいた。

「確かにそうやねえ……。お仕事に行っとるんやない?」

「でも、いっつもおらんよ」

 娘の言う通り、ここ一ヶ月ほど、パタリと彼に合わなくなっていた。

 私は夫と顔を見合わせる。彼は小首を傾げるだけだった。

「仕事に行っとるんよ。心配せられん」

「うん」

 彼女は再び子供茶碗のご飯に箸をつけ、最後には、テレビから流れるアニメに夢中になっていた。


 翌日、娘の言葉が気になっていた私は、隣の部屋の玄関扉の前に立っていた。

 拳を作り、鉄製の扉を叩く。


——どんどんどん!

「こんにちはー」

——どんどんどん

「ごめんください!」


 何度か叩いたが、中からは返事がない。

 私の手の甲は、浮き出た骨が紅くなって痛みと熱を持つ。

 人の気配のない隣室。

 私は、管理人さんの部屋へ向かっていた。


 それから、一週間くらい後のことだろうか。

 外から帰ってきた娘が変な顔をして、息子に授乳する私のそばにしゃがみ込んだ。

「おかあさん、おいちゃん、かえってきたみたい」

「え?」

「となりのおいちゃん、かえってきたよ」

 私の腕の中で力強く乳を吸う息子の体温が、一瞬遠のく。

「……あのね、あゆみちゃん」

「きょうね、おいちゃんのへや、のっくしたらね、おうちのなかからこえがきこえたんよ。あゆみちゃんっていいよった」

「それ、本当?」

「うん! でも、こえちいちゃかったよ……。おいちゃんでてきてくれんかったもん……」

 私は、息を飲み込んだ。乾いていた喉が大きく鳴る。

「あゆみちゃん、それはね、気のせいよ。空耳やったんよ」

「そらみみって何?」

「おいちゃんはね、もうおらんよ。死んでしもたんよ。お母さん、この間お葬式に行ったやろ?」

 娘が目を丸くして私を見つめる。

 隣のおじさんは、人知れず、部屋の中で亡くなっていた。

 私が部屋を訪ねたあの日、胸騒ぎを感じた私は「お隣さんを最近見ない」と管理人さんに伝えにいった。すると、管理人さんも団地の人々も彼の不在を気にしていたと話してくれた。

 彼は、必ず参加していた日曜日の団地内清掃にも顔を出していなかったため、みなが気にかけていたのだ。

 彼とは連絡もとれず、特別に彼の部屋の鍵を開けることになった。

 警察の立会いのもと管理人が鍵を開けると、そこには人知れず一人で旅立っていったおじさんの亡骸が残されていたという。

 私は娘の顔を見てため息をつく。

 五歳に死を理解することは、まだ早いだろうか?

「でも、おいちゃん、おったよ?」

「死んだ人は喋れんのよ」

「でも……」

「やめなさい!」

 思わずきつい声が出た。

 娘がびくりと体を震わせ、目をきつく瞑る。

 私の腕の中の赤子は、乳首から口を離して泣き始めた。それをあやしながら、私は娘にぎこちなく笑いかける。

「ああ……ごめんね。怒っとらんのよ。やけど、死んだ人はもう戻って来んけん。変なこと言われんよ」

 ゆっくりと言い聞かせると、娘は泣きそうな顔で唇を噛み、納得のいっていない瞳のまま頷いた。


 その後も、娘が聞いた声の正体もわからないまま、私たち家族は同じ団地の同じ部屋に住み続けた。

 空室だった隣の部屋には、新しい住人が入り、数年したら出ていった。

 十年後。娘が十五になる年の六月。

 私は妊娠中毒で、四人目の子供となったはずの息子と共にこの世を去った。



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