秘密の部屋 2
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分厚いカーテンが陽の光を遮っているせいで、書斎は昼も夜も関係ない。だけど、天気のいい真昼ならば、わずかな隙間から光が入るおかげで、目が慣れれば薄暗くとも本のタイトルだって読める。
広い書斎とはいえ車椅子で動き回るにはコツがいった。いつもはルカが、フェリルの手となり足となり動く。
棚の上のものは、車椅子に座っていたらどんなに手を伸ばしても届かない。そしてそれを利用しているかのように、フェリルが気になる本や箱は高い場所に置かれている。当然、見たいと言っても「あれはお見せ出来ません」の一言で終わり。
――ルカがブロンドの乙女に会いに行っている今がチャンス。
前から気になっていたあの箱の中を確認出来るかもしれない。
はじめて見つけた時は、箱ではなく本だと思っていた。ケースに入った辞書のような……。
異国の文字が並ぶ分厚い本に挟まれて、ひっそりと、隠れるように。その箱はそこにいた。
――リルのおうちには、オバケがいるの。
子供の頃、フェリルは書斎が苦手だった。
大きな窓があるのに、いつもカーテンが閉められ真っ暗。机の上にあるランプだけがぼんやりと光っている。
頼りない明かりの中で、父は何かに取り憑かれたようにペンを走らせたり、作業をしたり……。
異様な雰囲気を醸し出す部屋は、呼ばれてもあまり入りたくない、二階にあるのに地下にあるような部屋だった。それこそ、幽霊がたくさん閉じ込められているんじゃないかと思うくらい気味の悪い場所。
――ところが。ある時を境に何かが変わった。
何だろうか。今でもよく分からない。
ただ言えるのは、あんなに恐ろしかった書斎が興味を惹かれる場所になったということ。
あの部屋は禍々しいもので溢れているけれど、それを消してはいけないと思っていること――。
「よし」
ステッキを床につく。片手で車椅子を掴み、ゆっくりと、バランスを崩さないように。慎重に立ち上がる。
チャンスを逃さないために、コッソリ練習をしてきた。その場で立つだけ、短い時間なら大丈夫。
――足を気にしながら、フェリルは腕を伸ばした。だけど、箱まで数センチ……届かない。
いや、ここまできて諦めるわけには……。ステッキに体を預けて、腕に力をこめる。危うい体勢と分かっていても、後戻り出来なかった。
すると、必死のフェリルを気の毒に思ったのか、指先に触れた箱がそーっと頭を出してくれて。
「届いた!」
手に箱の重みを感じた瞬間の達成感。しかし、それが同時にフェリルの感覚を鈍らせる。
かくん、とずれる義足の関節。絶妙に保たれていたバランスが一気に崩れた。
「わっ……!」
このまま倒れれば、自分も義足も壊れるだろう――フェリルは目を瞑って覚悟しつつ……でも頭のすみで箱の行方も気にする。
次に来るのは衝撃か。頭を打ったら痛いだろうな。箱、壊れなきゃいいんだけど。
「箱なんかより自分の体を心配してください」
「ルカッ!?」
低音の声と吐息。腰に絡みつく腕――彼の香り。
一瞬で体中を巡る甘美なものは、怪我の衝撃よりも強い。
ルカの安堵のため息が、耳朶を食んだように感じた。これは――妄想?
「お嬢様はお部屋にいらっしゃらないし、アリアはどこかへ逃げているのか呼んでも出てこないし、まさかと思って来てみれば……。少々いたずらが過ぎるのでは? お嬢様」
「ルカ……。は、早かったのね」
アイスブルーの瞳が静かにフェリルを見下ろす。
「ええ。ドールとご主人への挨拶“だけ”でしたから」
「そうだったんだ……」
それはつまり、朝ルカが予想していた通りだったということだ。
《Birthday》ではなかった。そうか……違ったのか――。
「それより、これはどういうことです? 手の届かない場所にあるものは駄目だと、あれほど言いましたよね」
器用なルカは、フェリルと一緒に箱も受け止めていた。
ただの箱だと思っていたが、よく見れば革張りの立派な装飾箱。ということは、中身も相当な品に違いない。
「お嬢様。聞いていますか? 一歩間違えば大事故だったんですよ?」
「壊れなくて良かった……お父様の大事なものだもの」
「あなたのことです!」
ピシャリと小さな雷がフェリルの頭に落ちた。ルカは小言は多くても、声を荒らげることはほとんどない。
さすがに今回はやりすぎたか……と、フェリルは項垂れた。
「ごめんなさい……。それずっと気になってて……。ルカは絶対に駄目だって言うの分かってたから、それで……」
「そうですね。特にこの箱はよろしくありません。旦那様が一番、誰にも知られたくないと仰っていたものです。鍵のかかる棚にいかにもと仕舞っておくのではなく、本棚に紛れ込ませ隠していたのも、そのお気持ちから。木は森に隠せと言いますしね」
「そんなに? ルカは中身を知っているの?」
フェリルの足の様子を何度も確認するルカの手が、質問に止まる。「はい」と彼は答え、箱を大事そうに抱えた。
輝きを失った金色の金具をカチャカチャといじり、それが鍵であることを無言でフェリルに教える。鍵は自分が持っている――ルカの目はそう言った。
「仮面です」
「仮面? ピエロとかの?」
「いいえ」
――陽が傾いてきた。屋敷のどこよりも早く夜がくる書斎。ルカはランプに火を灯す。
「呪いの仮面ですよ」
青い目が火を捉え、オレンジ色に一瞬染まった。
美しい色。あたたかい炎の色。
だが、呪いという恐ろしい言葉のせいで、地獄を焼く業火を思い出してしまい、フェリルは身震いする。怯え顔のフェリルに気付いたルカは、穏やかに微笑んだ。
「デスマスクはご存知でしょう。中には、それが」
――デスマスクとは、死者の顔を石膏などで型に取ったものだ。故人を偲ぶため、または芸術。様々なものが背景となり作られていたりする。十七世紀には告別式に飾ったりと、ごく一般的に広まっていた。著名人のそれは博物館に展示されていることもある。
「お父様は、誰かの死に顔を大事にしまっていた……の?」
「資料目的では? 旦那様は、研究熱心なお方でしたから、他にも色々集めていたようです」
「資料……。そっか……眠った表情のドールを作ろうとして……」
「ですが、お嬢様。デスマスクは死人の仮面。亡者の想いが宿っている可能性も、無きにしも非ず。それに、遠く東の国では、歌舞劇で使うためにわざわざ男の怨霊の仮面が作られるそうで。もしかしたら、巡り巡ってこの屋敷にもそういった類のものがあるかもしれない。悪霊に取り憑かれてしまったら困るでしょう?」
ルカは人差し指を立て唇にそっとあてた。
だから……ね? と笑う顔が、庭で一緒に遊んでいた頃の少年と重なる。
フェリルの胸はそれだけで高鳴った。
庭の東屋でこっそりと結婚式ごっこをした時と同じ。誰にも内緒。二人だけの秘密――シロツメクサの花冠と、誓いのキス。
ルカはもう忘れてしまった思い出かも。でもフェリルは、ずっと覚えている……。
仮面はとても興味深いけれど、脳内に甘く溶ける記憶には勝てなかった。
そっと頭を撫でるルカの手に酔うフェリル。
ルカは箱を本棚に戻した。
――フェリルでは決して届かない、一番上の段へ。