常在戦場 〜妻がシリアルキラーなので毎日命懸けです〜
陽光がカーテンの隙間から差し込む、週末の穏やかな朝。
とある一軒家にて、
「あなた、ご飯よ! ジャムはいる?」
テーブルの上に焼きたてのパンとジャム、サラダにコーヒーを並べながら妻が尋ねる。
「うん、貰うよ。ありがとう」
寝室から出てきた夫は、欠伸混じりにそう答えると、そのまま席に着いた。
何気なく過ぎる始まり。平穏を絵に描いたような日常の一コマ。特筆すべき所はなにもない。いたって普通の朝食風景――だった。
「ナイフとフォーク貰える?」
「あらごめんなさい。今持っていくわ……ねッ!」
「おっと」
瞬時に頭を逸らした夫。
その横を、勢いよくナイフが通り過ぎる。それを握っているのは――妻だ。
唐突な襲撃。あまりにも自然な動作で行われた凶行だった。だが、夫は別段気にする素振りもなく妻の手からナイフを受け取ると、そのままパンにジャムを塗り始めた。
「なかなか良い動きだったよ。切れが増してきたね。このままいくと遠くない内に死んじゃうかもなー俺」
「冗談ばっかり! 見もしないで避けたクセに」
頬を膨らませて言う妻。
夫は何事もなかったかのようにパンを齧って、コーヒーを啜り、新聞を広げた。
「いやいや、本当に。あの一切の躊躇なく、それでいて自然な動き……俺じゃなかったらとっくに死んでるさ」
「そうかな?」
「そうだよ」
そうやって笑い合う二人は、誰が見ても仲の良い夫婦そのものだった。
「あーでも、こっちは残念だなー」
そう言いながら夫は、コーヒーカップを妻の方に向ける。
「香りが強い。これじゃ毒が入ってますって飲む前からバレバレだよ。なにより美味しくない」
「えー、そう? でも、飲んでくれたじゃない?」
「奥歯に解毒剤を仕込んでるからね。このくらいなら平気さ」
頬を指でトントン叩きながら、余裕の表情でコーヒーを啜る夫。
「さっすがプロね! やっぱり大好きよ、あなた!」
「僕もだよ。君といると退屈しないで済む」
そうやって愛を囁き合う二人は、誰がどう見ても理想の夫婦そのものだった。
「どころであなた? 今日の予定は? またどこかでドンパチやるの?」
妻がトーストを齧りながら、軽い口調で尋ねる。夫は新聞を畳み、少し考えるように顎を撫でる。
「いや、今回は珍しく仕事が入ってないんだ。たまには平和な週末でも過ごそうかと思ってたけど……なに? 何か企んでる?」
「企むだなんて人聞きが悪いわ。私だって、たまには普通に過ごしたい時もあるのよ」
「普通、ねえ……じゃあ、久しぶりに映画でも観に行く? ポップコーンに毒仕込むのは無しで」
「うん、約束するわ。あなたが途中で寝ないって約束してくれるならね!」
「あっはっは! 寝たら刺すだろ? 大丈夫だよ!」
「あら、別に? 寝なくても刺すわよ? だって、愛してるんだもの!」
まるでそれが当たり前であるかのように、二人は顔を見合わせてクスクスと笑った。
「ああ、今日も楽しい一日になりそうだわ!」
「君のお陰でね。良い終末にならないといいけど」
「“無傷の死神”がなにを言ってるのよ? 頑張って生きてね」
「善処します」
お互いに幸せそうな顔を向け合いながら朝食を続ける二人。
今日もまた、夫婦の平和な一日が始まる。
***
その日の午後、夫婦は本当に映画館にやって来た。
「……で? どれを観ようか?」
「これなんてどう? ドンパチ好きそうなあなたにピッタリじゃない?」
そう言って妻が指差したのは、派手な爆発シーンが描かれたアクション映画のポスターだった。
「確かに悪くないけど……観てる途中で君が妙なインスピレーションを得ないか心配だな。流石に、映画館でナイフを出されたらたまらないよ」
「あら、心配しないで。ナイフは持って来てないから」
「ナイフは、って言う所が怖いねー。なにを用意してるのかな、うちの妻は」
「うふふ……秘密!」
「用意されてることは確定……っと。やれやれ、愛されてるなー、俺」
夫は肩をすくめて笑い、妻もまた心底楽しそうに微笑む。
端から見れば、彼らはどこにでもいる夫婦そのものだった。
「じゃ、これでいい?」
「ええ、いいわ」
観る映画を決めて、チケットを二枚購入する。
「ポップコーンも必須よねー。あなた、飲み物は?」
「毒が入ってなければ、なんでも」
「もう、そんな無粋なことはしないわよ。じゃあ、コーラね」
その後、二人はポップコーンとコーラを手にして座席に腰を下ろした。
館内はほどほどに混み合っていて、週末らしい賑わいを見せている。
予告編が流れ始めると、妻が夫の肩に軽く寄りかかり、小声で囁いた。
「ねえ、あなた? 映画が始まる前に、一つだけお願いがあるんだけど」
「なんだい? まさか、ここで『愛してるから刺していい?』とかじゃないよね?」
「ふふっ、まさか。外でそんな派手なことはしないわ。でも……ちょっとしたサプライズを用意したの」
妻の言葉に、夫が一瞬目を細める。
次の瞬間、背後から気配を感じた夫は、反射的に首を傾けた。すると、彼の耳元を僅かに掠めるように小さなダーツが飛んで来て、前の座席の背もたれに刺さる。
微かに「チッ」という舌打ちが聞こえた。
夫は咄嗟にダーツを引き抜き、それを後部座席の方へ投げた。
次の瞬間、くぐもった悲鳴が聞こえ、すぐに静かになった。
それを見て、妻が残念そうに唇を尖らせる。
「やっぱり避けるんだから。プロってずるいわね」
「君だって元殺し屋だろうに。……で、これは何のサプライズだい? 後ろの彼は?」
ぐったりと席に沈んでいる男を指差して、夫が尋ねる。
「元同僚。私ほどじゃないけど、なかなか仕事のできる人よ。このためにわざわざ来てもらったんだけど……失敗ね」
「それはご丁寧に。というか、大丈夫かな彼? 一応急所は避けたんだけど」
「大丈夫でしょ? 針に麻酔が仕込んであったからぐっすりだけど、死にはしないわよ」
「それは良かった……こんな所で人死には勘弁だよ」
「それも大丈夫よ。ここで死ぬとしたら、あなただけだもの」
「やれやれ、とりあえず退屈はしなくて済みそうだな」
夫が苦笑いしながらポップコーンを口に運ぶ。妻も楽しそうに肩を揺らして笑った。
その時、スクリーンに派手なタイトルロゴが流れ、本編がスタートする。
映画は銃撃戦や爆発シーンが連続するアクション大作。夫はポップコーンをつまみながら、時折妻の方をチラリと見やる。
映画が中盤に差し掛かった頃、暗闇の中、夫は再び僅かな異変を感じた。
今度は座席の下からだった。すかさず足を動かすと、床を這うように仕掛けられた細いワイヤーがピンと張って、彼の足首を掠めとろうとする所だった。ワイヤーの先には小さな刃物が仕込まれている。夫は冷静にそれを拾い上げ、妻に小声で囁く。
「これ、映画の効果音に合わせて仕掛けたな? 気が利いてるじゃないか」
「でしょ? あなたが集中してる隙を狙ったんだけど、やっぱり駄目ね。無傷の死神の名は伊達じゃないわ」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、次はせめて映画が終わるまで待ってくれよ。今良い所なんだから」
「はいはい、分かったわよ」
二人はクスクス笑い合いながら映画を観続けた。
クライマックスでは、主人公が敵のアジトを爆破する派手なシーンが展開し、館内が歓声に包まれる。
その瞬間、再び気配が――今度は妻の手が素早く動いて夫の首筋に迫る。だが、彼は瞬時にそれを躱して彼女の手首を取った。その手には、いつの間にやらアイスピックが握られている。
「おっと、危ない危ない。今のは本気だった?」
「うふふ、いつだって本気よ? これが私なりの愛情表現だもの。ちゃんと反応してくれて嬉しいわ、あなた」
「こちらこそ愛してもらえて嬉しいな。そのアイスピックはどこに持ってたんだい?」
「ヒ・ミ・ツ! 女の子には隠し場所が色々あるものよ」
妻がウインクすると、夫は肩をすくめて笑った。
映画が終わり、エンドロールが流れる中、夫がポップコーンを片手に言う。
「結局、映画より君の襲撃の方がスリル満点だったよ」
「あらそう? 良かった。楽しんでくれて」
「退屈はしなかったよ……帰ったら、夕飯はなにか穏やかなメニューでお願いしたいな。例えば……シチューとか?」
「いいわよ。愛情たっぷりで作ってあげる」
「隠し味は控えめにね。せっかく美味しいんだからさ」
「善処するわ」
そうやって二人はじゃれ合うように笑いながら映画館を後にする。
夕陽が空を染める中、夫が妻の手を握った。
「ふふっ。ねえ、あなた。今日も楽しかったわ。また襲っちゃうかもしれないけど、ちゃんと避けてね?」
「勿論だよ。本当に、君のお陰で退屈しない毎日だ。さて、帰って晩ご飯を食べようか」
夕陽に照らされた二人の背中は、どこか奇妙で、されど温かな夫婦そのものだった。
「あなた、愛してるわ」
殺したいほどに、と妻は言う。
「僕も、愛してるよ」
アイスピックを持った妻の手を強く握りながら、夫は言う。
これまでもこれからも。
彼らの危険で愉快な日常は、末永く続いていく。