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第五章 5.5 前編  ~ ジェイル ~



 その手紙がジェイルの手元に届けられたのは、朝議が始まる直前のことだった。

「なにそれ」

 兄弟で夜通し今後について検討していたせいで、寝不足も気疲れも頂点だ。そこにきて衛士が、とにかく読んでほしいと差し出す手紙を受け取るのは億劫だった。

 封をした様子もないそれを指先でつまむようにして振り返ると、兄は足元を、弟は天井をじっと見つめている。

(僕だって気楽に落ち込みたいところなんだけどね……)

 ため息の衝動を噛み殺し、後ろ手に閉めた扉の傍らに立ったままで、ぺらりとした安物の紙を封筒の中から取り出す。そこに見覚えのある稚拙な筆跡と、久方ぶりに目にする文字の羅列を読み取った瞬間、靄が風で吹き飛ぶように頭が覚醒した。


「――んのッ、やりやがった!」

 思わず腹の底から怒声を上げると、二人がぎょっとした顔でこちらを見た。

「どうした、ジル」

 胡乱げなグレイヴの瞳に苛立ちが増し、読めないとわかっていてその紙切れを彼の鼻先に突きつける。

「君の可愛いヤヨイがやってくれたよ! ああどうしてこう、ろくでもない……っ!!」

 興奮のあまり絶句し、ジェイルは兄がグレイヴに文面を読んで聞かせる声を背中に、ばったりと床に倒れ込んだ。


 家出した、ヤヨイが。今度は城どころか、ランドボルグの町そのものから逃げ出したのだ。

 まさか置手紙をしただけ二度目は知恵がついた、と誉められるとでも思っているのだろうか。

「ああそうだね、知恵はついたみたいだね。ランドボルグで、イゼの家に残された、『外』の言葉で書かれた手紙をこんな朝っぱらから真っ先に読まされるとしたら? ――僕だ!」

 突っ伏したまま叫んで、石床に拳を打ちつける。弟が驚愕の声を上げたのも同時だった。

「アサヌマって、スウェンバックか!?」

 そのとおりだ。城の改装工事に絡み、いまアサヌマはスウェンバックに逗留している。


 ヤヨイの真意が奈辺にあったかはともかく、目的の一つは達成されたことだろう。単純に『外』の文字を読み解くだけならば、王宮には研究所の所長もいる。あとは父王か兄、自分しかない。ヤヨイにしてみればどちらでもよかっただろうが、元警備隊長であるイゼは王の忠僕であり、息子のゼロンは研究員の隠れ蓑を纏ったジェイルの密偵。必然的に、その手紙はジェイルのもとへまっしぐらということになる。


 ジェイルはいらいらと、床に転がったまま爪をかんだ。

 彼女には監視をつけている。いつどこへ行こうと動向はつかめるだろうが、王が仕掛けたこの時機にかちあっては向かう場所が最悪だった。いまオージェルム国内で、最もヤヨイが近づいてはならない領域がスウェンバックなのだ。

 彼女の不用意な行動が、アサヌマの身まで危うくするかもしれない。あの老人は敵の首魁の懐に潜入している真っ最中で、彼がつかんだ情報をもとに、王はスウェンバックを叩くのはいまと狙い定めた。ただでさえ極限まで細くなっている命綱を、愚かな小娘のせいで断ち切られてはたまらない。


 どうする、と瞼の裏が白くなるほどぐっと目をつぶったとき、大きな物音がしてはっと我に返った。腰をひねって上体を起こすと、グレイヴが剣を片手に立ち上がったところだった。

「ちょっと待ちなよ、無策で飛び出すほど君がバカだと思わせないでよね」

 苛立ちが音になったような自分の言葉に、弟は美しい濃褐色の髪をひるがえしてこちらを睨みつけてくる。

「いまなら間に合う! 城外へ出ていたとしても街道で――」

「捉まえてどうするの? ボクと結婚したくないから出て行くのかいって、泣いてすがってみる?」


 痛烈な揶揄にグレイヴの顔が強張った。唇がひきつるようにふるえる。それでもジェイルは黙らなかった。

「いくらヤヨイがお馬鹿さんでも、二度目の脱走がどういう結末を引き寄せるかくらい承知のはずだよ。どんなに安全だとしても、ヤヨイを狭い場所に閉じ込めることに意味はないんだ、問題の解決にはならないから。僕らはみんなしてあの子を追い詰めた。いまは周り中が敵に見えているのかもしれない」

 言い募るほどにグレイヴは傷ついた表情を深めたが、ジェイルは自分の言葉が的を射ていると感じた。だれかの指示や命令に従うことに慣れて藁屑を詰めた人形みたいになったヤヨイに、目を覚まして自力で立ち向かえと現実を突きつけたのだ。


 ヤヨイが、会ったこともない同胞に求めているのは慰めではなく救い。足元の覚束ない自分がどう振る舞えばよいのかという、助言そのものに他ならないだろう。

 昨日、アサヌマに会えばいいと勧めたのはジェイルだ。純粋に彼女の心情を思いやってもいたし、いずれはそうする必要もある。しかし王の動きを探りながら、慶事を口実にしてランドボルグに招き、アサヌマを保護するための布石でもあった。ぎりぎりの均衡を保っているであろうスウェンバックに、ヤヨイ自らのこのこと出向けと言ったわけではない。

 それでもやはり、ジェイルの失策だった。


 あのとき、ヤヨイがしきりに自分の指先をこすっていたことを思い出す。皮膚ごとインクの汚れを削ぎ取ろうとするかのように、しまいには噛み千切りそうな勢いで歯を立てて。その様に違和感を覚えて咄嗟に彼女の手をつかんだが――痛みで確認しなければ、自分の輪郭すら見失うくらい不安定になっていたのだ。

(ヤヨイが唯一頼みにしているのは、ヒロ。……だけど僕は、彼を批難するようなことをあの子に話した)

 前にも後ろにも動けなくなったところでアサヌマを持ち上げてみせれば、ヤヨイがどういう行動に出るか読めなくてはいけなかった。


 急に疲労感の増した身体を起こして床に座り込む。ため息とともに最後の気力が吐き出されようとしたとき、もう一度扉を叩く音が聞こえた。

「……とにかく、君にはやるべきことがあるはずだよ」

 肩越しに弟を見やりながら立ち上がり、扉を開ける。そこに立っていた人物の顔を見て、ジェイルは目を剥いた。衛士や騎士ではなく、ヤヨイにつけているはずの密偵の一人だったからだ。

 しかし彼はジェイルが声を上げる前に素早く耳に口を寄せ、新たな情報を囁いてすぐさまヤヨイを追跡すべく踵を返して去った。


「――グレイヴ」

 密偵の告げた名が示す人を脳裏に思い描き、ジェイルは笑みをこぼした。

「大丈夫、ヤヨイはちゃんと自分で護衛を雇った」

 事態がそう悪い方向へ転ばなかったことと、ヤヨイの身の安全が確約された安堵に、知らず口元に刻んだ笑みが深まる。

「いま考えうる中で最高の男だね。傍らにあるだけでヤヨイを守る、稀有な人材だ。彼に手を出せる人間はオージェルム中を探してもいない。いろんな意味でね」

「……だれだ」


 最低の顔色のまま唸る弟に、ことさらに軽く肩をすくめてみせた。

「君の大好きなひとだよ。イゼの最後の直弟子、といったほうが正確かな」

「な――ディージズ!?」

 グレイヴは嫌悪と驚愕がないまぜになった声で吐き捨てた。

「そう。君を犬っころのようにコロコロ転がして遊んでくれる、あのおにいさんだよ」

 片眉を上げて目を眇めると、グレイヴは悔しげに唇をかんで顔をそむける。

 

 常にざっくりと短くした蜂蜜色の髪、薄曇りの空の色をした瞳の剣闘士。ジェイルが知る限りだれよりも大柄で逞しい偉丈夫で、職業的に武器を持つだれよりも明朗快活な男だ。そしてグレイヴが父とも兄とも慕うガルムと、対等以上にやり合えた唯一の男でもある。

 弟はいままで一度も彼に勝てたことがない。技量や努力の問題ではなく、王族の傍近くに控える近衛と、各地で開催される大小の競技会を追って転戦を繰り返す彼らとでは、そもそも戦闘様式がまったく異なるのだ。


 グレイヴもまともな相手と闘うのならばいい線いくのは間違いないが、幾重にも防御線を施した王宮の上層部に、不埒者が侵入する余地は端的にいって皆無。反して競技会といえば、賞金目当てに刃物を持った破落戸(ごろつき)だの、朝食後の腹ごなしに里を襲撃してきたような野盗だのがうようよしている。対戦者を地に沈めればそれでよしの、なんでもありだ。

 そしてディージズという男は、オージェルム全土の競技会で、ここ数年敗けなしの競技者だった。なおかつ、生家の格も周囲を威圧する材料として余りある。


 自分らとの関係は少々複雑だが、彼ならば、ヤヨイを託すに不足ない。

(でも、なんでいまここに? どうして早朝の市場でヤヨイと遭遇する?)

 ジェイルは鈍く痛む目をこすりながら、途切れそうになる思考を紡いだ。

 ランドボルグは今年の大競技会の主催番ではないし、この地方の競技会は新年の祝賀と春の大祭の折にしか行われない。――とすれば、なんらかの理由で彼を呼びつけただれかがいる。


「…………」

 指の隙間からちらりと弟を盗み見ると、苦い記憶に打ちのめされたまま立ち尽くしている。

 それも父王の布石のひとつ、とするなら?

 国内を転々とする剣闘士は、各地の情勢にとても詳しい。賞金の額が変動すれば領主の懐具合も窺うし、試合のない日は朝から酒場で与太話に花を咲かせて情報収集にも勤しむ。

 もしもディージズが王の招きに応じてランドボルグに現れたのだとしたら、彼はヤヨイについても詳細を知らされているはずだ。当然、スウェンバックに後がないことも。

 ならば――。


「――グレイヴ」

 ジェイルはゆっくりと胸の前で腕を組み、顔をうつむけたまま視線だけで応じる弟を見据えた。

「ヤヨイはディージズに任せよう。多分、彼は君がすべきことを成すまでの時間を稼いでくれるはずだよ。ヤヨイがスウェンバックに入る時を遅らせ、すべての片をつけるだけの時間を、ね」

 瞬間、携えた剣をつかむグレイヴの手に力がこもった。

「躊躇する暇はないよ、もしまかり間違ってヤヨイが叔父上に会ったら厄介だ」

 王様の弟、王子たちの叔父、アサヌマのいる城の主――あの人は様々な肩書を上手に使い分けて、お馬鹿さんのヤヨイはきっと『いいひと』とか『すごいひと』とか単純な括りに入れてしまう。


 ダナン・ハルオ・スウェンバックという人は、姿形がジェイルととてもよく似ていた。ともにジェイルの祖母――父と叔父の母から受け継いだ髪の色、瞳の色、どこか女性的な顔立ち。やや細身でそれほど上背がないところも。直系の王子として双方とも長髪が義務づけられていることもあり、遠目に見ただけでは区別がつかないほどだ。慣れるのが苦手なくせに人恋しいヤヨイは、あっさり親近感を持ってしまうだろう。

 叔父の顔と名前をヤヨイの中に刻み込むのは得策ではない。あの人の、生きた思い出を植えつけてはならないのだ。――グレイヴのために。


 ジェイルは首を振って気を取り直し、グレイヴにこれからの行動を指示した。

 王の近衛であるアガット・ダブノードを初めとする数人を帯同すること。すぐにスウェンバックへ向けて立つこと。遠回りでも街道を避け、人目につきにくい道を選ぶこと。必ず夜更けを待って、顔を見られないように入城すること。

「君がそこにいてはまずい状況に陥ったとき、入る姿を見た者がいなければ出る姿を見られなくても問題ない。逆に知られたほうがよければ、皆が寝静まった頃に到着したと堂々と話せばいいだけだ、王の子としてね」

 黙ってジェイルの言葉を聞いているグレイヴは、まだ少し青ざめた顔をしていたものの、瞳には強い光が戻っていた。


「それから、ガルムを連れて行って」

「ガルムを?」

「準備をして正門へ向かうよう指示するから、今後は絶対にそばから離すんじゃないよ。――それと、叔父上には『ジェイルはすべて見ていた』と伝えて。いいかい、『すべて見ていた』と、間違いなく伝えるんだ」

 グレイヴの肩越し、静かに成り行きを見守っていた兄が首をかしげるのが見える。六年前、ガルムと叔父に確執があったことは知っていても、そこにどうジェイルが絡んでいるかまでは思い至らないのだろう。

 無理もない。ジェイルは本当に、物陰からただ見ていただけなのだから。


 基本的に表情に起伏のない兄は、もの問いたげな眼差しだけを送ってくる。しかしその疑問に応える時はいまでなく、ジェイルも眉を上げて視線を返すに留めた。

「……あの方も黙って首をくれるほどお人よしじゃない。でもなにを言われても怯んじゃダメだ。叔父上を討つのは君、必ず君でなければならない」

 息を飲むグレイヴの肩に手を置き、力づけるようにぐっと握る。

「僕は書記室に行って、怪しい書類の原文を検めるよ。騎士団も納得の、ちゃんとした大義名分を探してみる。手はずが整ったら、僕もスウェンバックに向かおう。あっちは領主を失って動揺するし、反王派がどう動くかもわからない。味方は少ないけど、自分の身を守って。親父殿の息子であることを忘れずに、しっかり立っているんだよ」

 添えた手を離すと、グレイヴはひとつ大きく息をついて歩き出した。扉の前で兄に一礼して歩み去ろうとする彼を見送っていたが、ふと思いついて呼び止める。


「グレイヴ!」

 扉の向こうへ消えかけた影が振り返り、ジェイルはつかつかと早足でそちらへ歩み寄った。そしてヤヨイが残した紙の表を手の甲ではたき、最後の一文を指し示す。

「ここ、これは君宛ての伝言だ。どういう解釈をするかは君次第だと思うけど、持っていきなよ」

 胸に押しつけられた紙切れを、グレイヴは戸惑った様子で受け取った。好きな女の手紙を読めない、と言うのは悔しかろうと、彼がそれを口にする前に教えた。

「ありがとうって書いてある。――さあ、行って!」


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