第三章 1.5 ~ グレイヴ ~
早朝の体術稽古を終え、冷たい井戸水で清めた身体を長椅子に横たえて、グレイヴはぼんやりと天井を見つめていた。
かじかんでいた身体の隅々まで血が通い、いまは己が発する熱で暑いくらいだ。ふとわずかに痺れる両手を目の前にかざし、ぐっと指先を握り込む。
――細い肩だった。
まだぬくもりが残っているような気がして、握った掌を開けない。
驚かせた。泣かせてしまった。初めてのときも、二度目も。黒い瞳がこぼれそうなほど目を瞠って、ぽかんとした顔。うつむいて羽毛のような睫毛をふるわせ、ぽたりと涙をこぼす横顔。甲高い悲鳴を上げて腕の中に降ってきた恐怖を浮かべた顔。自分が泣いていることにも気づかず、はにかんで浮かべた笑顔。
実際に言葉を交わした彼女が、どんな娘でも関係なかったのだ。人として絶望的なまでに病んだ瞳に囚われたのだから、多少の欠点などむしろ彼女が生きている証に過ぎない。
蔓のような恋情が、音もなく巻きついて彼を雁字搦めにしていく。未知の感覚が途轍もなく怖ろしくもあり、絡めとられることに渇望を覚えるようでもある。
「…………」
グレイヴは激しい疼きを訴える胸に拳を打ちつけ、苦しさを熱い息にのせて吐き出した。
男ばかりの環境で育ったせいか、それともまとわりつく化粧臭い女たちを鬱陶しく感じて遠ざけていたせいなのか。自分は思うより女という生き物を知らなかったらしい。それともヤヨイが規格外なのか。
なにひとつ、予定したとおりに運ばない。彼女の緊張をほぐすような話題を供し、控えめでも笑顔を引き出し、徐々に会話を弾ませて――。
わかっている。なによりも自分で自分の行動が予測不能なのだ。
ヤヨイを前にすると、歓喜に打ち震える心を抑えきれない。彼女を戸惑わせるようなことを口走りそうで、口を開くのが怖かった。だらしなく笑み崩れる様を見せたくなくて、つい眉間に力を入れすぎる。毅然とした態度を装う余り、横柄に振る舞ってしまう。
睨まれていると感じたのだろう、居心地悪そうに縮こまる姿は無性に腹立たしいのに、どうしようもなく愛しかった。
やわらかな身体。軽くて華奢で、信じられないくらい細い腰をして、胸に抱えた彼女をはなすことができなかった。
でも、必死で離れようとしていた。丸みを帯びた細い指先にも触れるなと、見つめられることすら不快だとその眼は訴えていた。怯えさせてしまった。
同じ失敗はしたくない。けれど、うまく言葉を交わす自分がどうしても想像できない。会いたいのに、会いに行くのが怖ろしい。
視線を巡らせ、窓の外、木立の向こうに覗く西棟を見やる。すぐそこにいるのに。短い休憩時間でさえ顔を見るには十分だ。それでも不安げな瞳を思い出すと、足がすくんで動けなかった。
書記室長が『外』の娘に手を出した――そんな噂を耳にしたのは、つい昨日のこと。
心臓が口から飛び出すかと思うほど衝撃を受け、そのせいで顔の筋肉がぴくりとも動かなかったことだけは幸運だった。いつものとおり王太子の近衛騎士隊を集めて朝礼を行い、各々の配置を指示し、あとは執務室に引っ込んだ。
そのときの気持ちをなんと呼んだらいいのだろう。
とにかくありとあらゆる感情の大津波に翻弄された後、残ったのはやり場のない猛烈な怒りだった。
幼い頃から気心の知れた連中は、明らかな侮蔑を含む苦笑を口元に閃かせ、室長の『外』趣味も大概だ、と眼を見交わした。
聞けば初日の話だという。なぜすぐに教えなかったと罵りたかった。だが騎士団では、『外』に関わる話題は滅多なことで上がらない。王家の手前『外』の人間を露骨に蔑まない代わりに、いないものと見なしているからだ。
昨夜、上層でガルムを見かけた。だれかに書類でも届けに来たのだろう。もしかしたらジェイルに呼び出されでもしたのかもしれない。遠目だが確かに視線がかち合い、睨んで殺せるならそうしているところだった。
書記室へ回した、と聞いたときから嫌な予感はあったのだ。
六年前、ガルムは花形武官から裏方の文官へと、突然の転身を果たして自分を驚愕させた。愛する者を失った悲しみは深いだろう、だが名誉ある騎士の剣を捨て去るほどだとは思っていなかった。
翻意を促すことなどできる状況ではなかった。あの事件の後、ガルムのまとう空気は一切の干渉を受けつけず、名前を呼びかけることも拒んでいた。そう、ちょうどあの時のヒロと同じ、暗く淀んだ瞳をして。
ガルムが『外』に興味を持っているとは思えない。死んだ女性のことは別として、彼はそういうことについて良くも悪くも無関心だったから。けれど、かつて『外』の女性と相愛だった男、という過去がグレイヴの不安を助長する。
――もしもヤヨイに、彼女の面影を見てしまったら。
脳裏に抱き合って睦み合う二人の姿が閃き――グレイヴは強く唇をかんだ。その悪夢のような光景を消すために、両の拳で目をこする。
ガルムはだめだ、ガルムだけはやめてくれと、叫びたいのをこらえて低く咽喉を鳴らした。他のだれかならともかく、ガルムには絶対にかなわない。
外部からのどんな圧力にも屈しない強さ、鍛え上げた己への自信、揺らがぬ信念、目線の一つにも滲み出る大人の余裕。ただ一度、砂がこぼれるように崩れた姿さえ眩しくて。
騎士として人として、男として、彼に勝てるものなどなにも持っていなかった。そして挑戦する資格を得るだけの時間も与えず、グレイヴの視界から消えてしまった。
消えた人間はもう一人、いる。『外』から来た、子どものように悪戯な眼をしていた男。
同じ絶望に打ちのめされ、生きる道、その意味すらかえてしまった二人。
六年前、あの女性を巡って一体なにがあったのか。
親父殿をも唸らせた稀代の剣士を、常に人の輪の中心にいた朗らかな異邦人を、あれほどに傷つけた出来事とはなんだったのか。
心から知りたくもあるし、決して知りたくないような気もした。
いまだってヒロはよく笑う。気が強くて少しそそっかしい妻を迎え、幸せそうに優しい眼をしてその女性を見つめる。けれど決定的になにかがちがっていた。
拳を上げ、ぼやけてしまった視界で部屋の中を見渡す。
机の上の盆には、白い布巾がかけてある。すぐ上の兄に頼んで取り寄せてもらった菓子。ヒロからそれを贈って愛を伝える習慣がある、と昔聞いたことがあったから、ヤヨイが城勤めを始める少し前に用意した。
食べてくれなかったらどうしよう。そう思ってなかなか渡せずにいる。
小さくため息をつき、両手で顔を覆う。彼が勇気を振り絞って歩み寄っても、罪のない笑顔であっさり拒絶する少女。いっそ憎んでしまいたいほど、恋しい娘。
一方的に話しかけられることに慣れていたから、せっかく二人きりになってもどう言葉を繋げばいいかわからなかった。
それでも、会いたかった。
顔を覆っていた手を、じっと見つめる。
初めて正面から自分を見つめてくれたあの日、彼女に差し伸べたのは右手。主を護るために剣を握る手。いつもなら絶対にふさぐことのない手。
帯剣していないことを意識したわけではない。ただ自然と、気づいたら差し出していた。自分の存在意義そのものである手を。
「――――」
そうだ、負けるわけにはいかない。ヤヨイをさらっていく男がいるのなら、たとえ相手がガルムであっても闘わなくてはならないのだ。
グレイヴは勢いをつけ、長椅子に身を起こした。書類仕事をする、といって空けた時間はじきに終わる。
立ち上がって椅子の背にかけていた上着を着込み、大きくゆっくりと深呼吸をして目を閉じる。不意に耳朶をかすめる指先の感触が甦り、甘い痺れが背筋を走った。
机に置いた盆を取り上げて、布巾が落ちないよう慎重に歩き出す。
すぐ横にくたりと伸びていた紺色のリボンは、わざと置き忘れた。
それを渡しても意図が伝わらないこと間違いなし。いま秋だし。