第二章 1.5 ~ ロアード ~
ランドボルグ城の王宮に絨毯はない。
総石造り、築城より三百年余、かつて戦乱の世においては鉄壁の守備を誇った巨大要塞。時代がかわり、オージェルムが統一されて戦禍より遠ざかった現在も、この城は民の祈りと誇りの象徴だった。
幾層にも分かれた王宮内は、刺客や敵襲に備えて複雑な構造になっている。
主に役人や使用人がせわしなく行き交う下層は昔の名残で壁に開いた銃眼から雨雪や砂が入り込むし、何百何千の足に踏まれ続けて石の床ですら磨耗している。
国王に仕える側近や軍幹部、大臣たちが拠点を置く上層は、そもそも装飾を必要としていない。客を迎えるなら下層で十分だし、眺めて楽しむだけのものに金銭を投じる趣味のある王家ではなかった。
数年おきに張り替えなくてはならない絨毯など、この城では無用の長物だ。砂や泥、稀には王によって飛ばされた首から迸るものの汚れを落とす面倒を考えても、あるだけ厄介な代物だった。
「だが何事にも例外はある」
低いつぶやきに、前を歩いていた騎士が振り返る。背後の者も耳をそばだてているだろう。
探るような視線を無視して沈黙を守ると、訝しげに眉を寄せながらも顔を戻した。それでいい。彼らの仕事は太子の護衛であって、楽しいおしゃべりにつきあうことではないのだから。
が――つまらない奴。
ロアードは規則正しい歩調を保ちつつ、よく鍛えた広い背中を眺める。
これが末弟のグレイヴなら、気味が悪いから独り言はやめろと苦情を申し立てるところだろう。しかし一介の近衛に実の兄弟と同じ融通を求めるのは酷だし、そうするべきでもなかった。
ふと、以前の近衛騎士隊長を思い出す。
ロアードも感嘆するほどの美丈夫で、親父殿が手放しに褒めちぎる剣上手。金茶色の髪を悠然となびかせ、金緑色の瞳にどこか仄暗い光をたたえた荒野に棲む獰猛な獣のような男だった。
若い頃から気の置けない友人と称してよい関係だったが、どこか飄々として本心を見せないところがあった。
いつもくだらない軽口を叩き合い、どうでもいいことで殴り合い、爺どもが眉をひそめるような遊びの共犯者でもあった。
王になり、年をとり、死の床についても傍にいると思っていた。
漠然と、彼だけは絶対に自分から離れてはいかないのだと。幻想だったわけだが。
上層の東、塔へ続く狭い階段は右回りの螺旋を描いて伸びていく。右利きの人間が抜剣しにくく、また剣を振るいづらくするためだ。上階からもれ落ちる陽光が前方を照らし、背後を闇に沈める。
やがて広い廊下の端に出ると、騎士は西に向けて先導した。ほどなく樫のドアの前に立って歩みを止め、数歩下がって頭を下げた。
黙って壁際へ身を寄せる騎士に一つうなずき、ロアードはコン、と申し訳程度にノックをして、返事も待たずに扉を開けた。
案の定、部屋の主は窓辺に敷いた絨毯の上に、淡い金髪を撒き散らかして眠っている。絹のクッションを抱え、日向で猫のように丸くなって。
「……起きろ。執務室で堂々と寝るな」
入り口から呼びかけるが、弟が目覚める様子はない。
だ始業の鐘からいくらも経たない時分だというのに、その唇からもれる寝息は深くゆったりとしている。
「ジル」
続けて幾度か名前を呼んでも、目を開ける気配はなかった。ロアードは短く整えた金の髪をくしゃっとかき上げ、ため息をついた。
もしかしてここで夜を明かしたのか、と思いつく。
ずかずかと部屋の中へ入り込み、靴のまま赤い絨毯を踏みつける。
蔓草と小鳥が描かれたそれは毛足が長く、上等な品とは知れるが、決して寝具としてこしらえられたものではないはずだ。第一、石の床にこんなものを一枚敷いたところで、ぬくもりも心地よさも得られるわけがない。
くー、という平和な寝息を立てる弟を見下ろし、ロアードはもう一度ため息をつく。夜は冷え込む時季だというのに、上掛け一つかけないで。
おもむろにジェイルの傍らに膝をつき、彼が頭を載せているクッションを思い切り引き抜いた。ゴンとジェイルの側頭部が音を立て、「だっ!!」と奇妙な悲鳴が上がる。
「おはよう、ジル」
「……兄上」
その青緑の瞳に込められた非難は見ないこととして、ロアードは絨毯の上に胡坐をかいた。膝の上に肘をつき、床に側頭部をぶつけたままでいる弟に言った。
「今日からあの娘が登城しているそうだな」
「……そうかもね、よく知らないけど。グレイヴに聞いたら?」
他人からの評価に神経を細くする割りに、仕事の成果や手柄を誇ることができないところは相変わらずだ。そのために徹夜する羽目になったのだろうに、不器用な奴。
ロアードは床に押しつけるようにしてジェイルの頭をなで、絹糸のような金の髪をかき回した。
「ちょっ、いたっ! 兄上! ……もー」
わざとらしくのろのろとした動作で起き上がったジェイルは、頭をさすってうなった。
「コブになったじゃないの」
正面から朝陽に照らされた弟の目の下には、くっきりとした隈がある。
唇は乾き、頬はこけ、それでもだれかのために苦労している、とは口にしないのだ。ならばロアードも、気づかぬ振りをしてやらなくてはならない。
「おまえの下につけたのだろう、グレイヴは無関係だ」
「下ってほんと遥か下だけど。それにそれ言ったらあの子、地団駄踏んで怒り出すよ? 泣く泣く、嫌々、仕方なく僕を頼ってきたんだから」
「まさか。おまえじゃあるまいし」
むっと眉尻を上げるジェイルの顔を見ながら、地団駄くらい踏めばいい、と思う。
熊のような大男たちに囲まれて、遠くから家族を見ていた弟。髪の色くらいでなんだと言えるのは、自分が王家の証を持って生まれてきたからだ。幼いグレイヴが抱いた疎外感など、一生理解できるものではない。
あの弟が恋をした、と聞いたときの衝撃は、自分の近衛になると聞かされたときのそれを超えた。しかも相手の娘を嫁にほしいとごねたという。
いいことだ。妙に悟った若造など可愛くない。
もっと感情に振り回されて、素直になることを覚えればいい。
表情を動かさないまま、しんみりと感傷に浸る。
以前「三十過ぎて湿っぽくなっちゃったんじゃないですか」などと『外』の男に図星を指されて反論をし損ねたが、そういえばあの男は同じ年だ。してみるとあれは、あの男の実感か。
ロアードはどうでもいいことをつらつらと考えながら、仲違いした二人の友人を頭の中で握手させてみたりした。ありえない光景に過ぎて虚しくなった。
「兄上……楽しいなら笑うし、悲しいなら泣いてみようよ。生まれたときから無表情みたいな兄弟に挟まれて、僕って不幸。怒ってわめく分、グレイヴのほうはまだマシだけど」
絹のクッションを腹に抱え、顔にこぼれ落ちる髪をかき上げるジェイルは無意味な色気を振り撒いている。
だが彼が赤ん坊の頃におむつをかえてやっていたロアードは、容赦なくさらりとした髪を引っ張った。
「城に部屋を与えなかったそうだな。ヒロからはこちらで頼みたい、と言われていたように思うが」
「ああ……。だって、そんなことしたらグレイヴってば、嬉々として夜這いに行きそうな勢いなんだもん。弟に先超されて子持ちになられたら、まるで僕がモテないみたいじゃない? ゼロンの生家に預けたよ、年寄りだけで心配だって言ってたし、若い女の子がいればあのあたりも活気づくでしょ」
髪を引っ張られるままあふ、と欠伸をもらす弟に、ロアードは首をかしげた。
「ヒロは承諾したのか?」
彼が眉を上げて肩をすくめるのを見て、これは押し切ったなと内心であきれた。ヒロはグレイヴの恋路をやけに応援している風だったから、相談しても無駄だったろう。強権発動で黙らせたにちがいない。
「庶民の生活を知るのもいいでしょ。見聞を広めるためにはさ」
「ものは言い様だな」
「まあまあ。実際悪くないと思うよ、ゼロンの家。老いたりとはいえ、元警備隊の猛者イゼ爺もいるわけだし。ロマ婆からお料理習ってもいいし。もしお嫁に出すにしたって、ちゃんとした後見人はいたほうがいいでしょ?」
相手がグレイヴであろうとなかろうと、と言って微笑んだ弟は、自分の仕事に満足しているようだった。彼がそう言うのであれば、きっと現時点で最良の手だったのだ。
だがこの弟は、常に他者には見せない札を握っている。そして本音と建前をこれほど綺麗に使い分ける者を、ロアードはランドボルグで他に知らない。とすれば、その形よい唇から紡がれる耳に心地よい理由だけがすべてではないはずだ。
ジェイルは派手な外見と奇行の裏に、優れた資質を隠して持っている。自分の足元が磐石になった暁には――と、ロアードはそう遠くないはずの未来を思い描く。それまでは、弟たちが不遇をかこつ傍らで高みを目指さなければ。薄情に見えたとしても。
まだ眠たげに緩く瞬きする気の抜けた横顔からは、冷徹な計算など一欠片も読み取れない。
ロアードは気取られぬように息をつき、弟の調子に合わせた。
「いずれにせよ、グレイヴの軽率な行動を未然に防げるのなら異存はない。騎士団の結束は固い、そこからはみ出したらあれの居場所はこの城にないのだからな」
「……兄上ってほんと、グレイヴが可愛いくてしょうがないのね」
恨めしげに上目遣いでロアードを睨むジェイルは、弟に対する嫉妬を隠そうともしていない。自分だってグレイヴが『外』の娘に会いやすいよう、あらゆる手を尽くしてやったくせに。
ロアードはほんの少し目元をほころばせ、ほつれてはねる弟の髪をさらにひどい有様にした。掌にあたる感触は、子どものころとかわらなかった。
「十二も離れていたら息子のようなものだ」
「ちょっと! 僕だって十離れてるでしょ! 第一、ほんとの娘が生まれたばかりじゃない! もういい年なんだからさっさと結婚してよ、グレイヴを見習えば!!」
ジェイルは眦を吊り上げるが、ロアードの目から笑みは消えない。もっとも、他人から見ればその表情の変化はごく微小で読み取れない場合が多いらしいが。
「置いたのはガルムのところだな?」
「そーだよ。あそこなら警備隊の巡回経路だし、なによりあのおじさんに噛みつく馬鹿はいないでしょ」
ロアードは書記室長の顔を思い出す。
ともに肩を並べた思い出の中で、その男は臙脂色の文官服ではなく紺色の軍服を着て立っている。自分に向ける金緑色の瞳は、いまよりもっと輝いていたような気がした。自惚れか。
「しっかり監督するように釘を刺しておけ。――いや自分で行こう、おまえは手を出すなよ」
「もーほんと、どんだけ勝手なのかな!」
がなる弟より青みの強い碧の目を窓の外に向け、ロアードは可愛い末弟を思った。
若さを言い訳に暴走するなら、いましかないぞ、と。
本編ではあまり主人公と絡みのない王太子。
32歳独身(愛人あり)で一児のパパ。
あれ、需要なさそう・・・。
そしてゼロン、思わせぶりな四十男。
そのうち本編で出てくると思います。(多分