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第五章 5.5 後編  ~ ジェイル ~



 軽く握った拳で、こつこつと顎の先を打つ。

 考える。ヤヨイのおかげで釣瓶が落ちるような勢いで動き出した事態についていくため、考えることをやめてはいけない。

 近衛の再編成がすむまでここに、と出立の挨拶にきたアガットに請われたとおり、兄は長椅子に腰かけて膝に肘をつき、窓の外を眺めている。きっと兄も、ジェイルと同じように寝不足の頭に苛酷な負荷をかけつつ思案に暮れているのだろう。


 ヤヨイめ――。

 忌々しく首を振って彼女の残像を脳裏から消しつつ、イゼのもとに残した手紙については評価してやろうじゃないか、そう思った。

 自分らから見れば手間をかけさせられただけ業腹だが、ヤヨイにしてはよくやった。すぐさま探されたくはないが、行先は知らせておきたい。ならば『外』の文字でそれを記したのは正解だ。ジェイル側にしても、解読できずとも情報があると見たから密偵たちは闇雲な動きを控えた。

 おそらくはディージズの同行を伝えに来た者が、昨夜の不寝番。家を忍び出たヤヨイを追って二人の邂逅に遭遇し、ひとまずディージズに彼女を預けて注進に及んだのだろう。置手紙はイゼが別の者に託し、だから報告が前後したのだ。


(それにしても、味を占めて今後も読めない言葉を使われたらお手上げだ……奴らにも『外』の文字を教えておくべきかもしれないな)

 仕事が増えた、と重苦しい息をついた瞬間、それが閃いた。

 ――暗号。そうだ、『外』の文字は秘密文書にぴったりじゃないか。

 カタだのヒラだのいう文字は組み合わせで文になるから解読が容易だが、確かカンだかヤンだかいったあの複雑な文字ならば。


 顎にあてた手を、ぐっと握りしめる。

 アサヌマ以前、いまは女大公として立つ伯母と恋仲になりドランヴァイルを目指した『外』の男は、彼女との蜜月を目前にしてドムファナの僕に殺された。悪神の言語を民草に広め、輝けるドムファナを冒涜せんと企んだ咎で。

 以来、王は彼らの庇護を公言するとともに、『外』の者にオージェルム公用語の習得を厳命してきた。同朋を失いたくないヒロは手を尽くしてヤヨイに言葉を教え込み、だからこそ彼女は短期間で大体のオージェルム公用語を覚えたのだ。

 しかしあの神がアサヌマに追い払われて久しく、双方の価値が逆転したいまなら――。


「これだ……」

 知らず、つぶやきは口からこぼれ落ちた。

 あのなんの取り柄もない馬鹿娘の使い道。よくぞ書記室。文官の司の従者。

 ヤヨイがこの地で職を求め、ヒロがそれを相談するならば相手はジェイルだ。いくらグレイヴが望もうと、彼の持つ伝手は武官職にしかない。必然的に自分の下、当たり障りのない書記室の下っ端あたりにその椅子を空けるほかなかった。


 しかし実際には、ヒロが望む形に整うまでに時差があった。ジェイルが役に立たない『外』の小娘を疎んじて、書記室の雑用に回したからだ。そこでヒロから異例の横槍が入り、ヤヨイはたった五日で書庫掃除からジェイルの従者――本人がそう認識しているかは知らない――になった。

 知っていたではないか。ガルムの存在に動揺したヒロが、父王の打つ手を予測しそこなうであろうことを。

 そしていま、ジェイルの懸念は現実のものとなった。

 王は、ヤヨイをグレイヴに――ドムファナを排して民衆の支持を得た『外』の娘を、無自覚に反王派の手先となっていた騎士団に属する末王子に、娶らせると宣言したのだ。

 汚れ役であり壁役であったアサヌマ、『外』の者の顔役であるヒロ、そしてオージェルム王家と『外』との懸け橋になるヤヨイ。これで王家は完全に『外』を支配下に収めることに成功するだろう。少なくとも、民らは安心してそう信じるにちがいない。


(ちがう……双方の価値が逆転した、いまだからだ)

 蛇行して行先を見失いそうになる結論を、ジェイルはひとまず飲み込む。

 かつて世の支配権を王と二分していた神は、アサヌマに粛清される以前から民らの信奉を失っていた。

 王が恐れているのは、ドムファナの復活ではない。『外』の者が、民衆の心を残らず奪い去ること、だ。――死に果てた神に成り代わって。

 だから騎士団の横柄に見ぬ振りをした。ランドボルグにヤヨイを招くにあたり、彼らの思想を矯正しようとはしなかった。城内で力ある彼らがそういう態度でいる限り、親『外』派も表立って彼女を厚遇することはできないとわきまえた上で。

 騎士団の連中は王によって、『外』への不信と不満を育てる苗床として温存されていたのだ。ただそこに、叔父の撒いた種のほうが早く芽吹いてしまっただけのこと。


 ――待て。ではなぜ親父殿はアルガンダワを俎上に載せた。


 ドムファナの僕が王の間で殺されたのは、なぜだ? 王の気まぐれ? ではその血も乾かぬうちにグレイヴにこの件を持ちかけたのは?

「――兄上」

 低い呼びかけに顔を上げた兄に、ジェイルはまっすぐに目を向けた。

「ドムファナの司祭を処刑するとき、なにか不審なことはありませんでしたか。親父殿の様子、室内の雰囲気、なんでもいいんです。引っかかったことは?」

 唐突に感じたであろう問いかけに、兄は慎重に青味の強い碧の瞳に瞬きをかぶせる。

「……いや?」

 ではやはり、王のいつもの気まぐれか。そう落胆しかけたとき。

「ああ、ある。待て、そう……なにか、なにか――」

 言いよどんでから、すぐに小さくうなずいた。


「首が飛ぶ寸前、奴は確か、話がちがうと言った」

「話?」

「そのときは、どうせ上の神官連中にうまいこと言いくるめられて狼の巣穴に放り込まれたのだろう、くらいに思って聞いたんだが……いまにして思えば、奴はこちらを向いてそれを叫んだのではなかったか。なにか妙だなと感じたのはそのためだ」

「――――」

 ぱちん、と綺麗に金具がとまる音が頭の中で聞こえた。アルガンダワ。グレイヴの結婚。叔父の謀反。すべてが一直線につながった。


 司祭の首を刎ねたところまでは、おそらく王の手癖だ。しかし「話がちがう」という発言で、王もそれ(・・)に気づいた。気づいてからが早かった。

 親父殿は、ドムファナの鼻先を押さえ、ヒロを懐柔するためにヤヨイをグレイヴに与えたのではない。無論それもあるだろう、だが与えると表明したこと(・・・・・・・・・・)にまず第一義があったのだ。奴らはヤヨイを使ってグレイヴを完全に取り込む企てを持っていたのだから。


 ジェイルは六年前、露見しかけて未遂に終わったダナン叔父の反逆を知った。ミツエの凄惨な死によって覆い隠されてしまったその計画が当時のままの姿を保っていたのなら、遠からず叔父はグレイヴにこう囁いていただろう。ヤヨイが欲しければ王を排除し、己で立てと。

 そのために彼を騎士団の堅牢な檻に閉じ込めて腐らせていたものの、最後の一押しに足る理由があの弟にはなかった。皮肉なことに、閉鎖的で頑なな騎士団にいたからこそ、グレイヴに万難を排しても手に入れたいものなど生まれようがなかったのだ。文字通り突如として降って湧き、グレイヴの心をつかんだヤヨイの存在は、叔父にとって僥倖だっただろう。

 そして首尾よくことが進めば、詰めの一手でグレイヴを弑逆者として背中から斬り捨て、自分が黄金色の椅子におさまるつもりだった。国教に戻す約定でも交わしておけば、かつての権勢を取り戻せと総本山にせっつかれているドムファナの僕など、いくらでも顎で使える。


 王と『外』を憎むドムファナ、王の座を狙う者。両者にとって最も忌むべき結論――それが、グレイヴがヤヨイを娶ってアルガンダワに赴くことだ。

 王と『外』が結託し、彼の地に巣食った反王派勢力と、そこに寄生するオージェルム国内のドムファナの残党を始末しようと手を伸ばす、かに見える。あの瞬間、王の頭に閃いた絵の完成図だ。見せる相手は決まっている。


「――兄上」

 知らず深く俯いていた顔を振り上げると、兄はじっとジェイルを見つめていた。

 多少の色味はちがえども、兄も自分も父王譲りの金髪碧眼で生まれてきた。母の家系に似たというだけで、末の弟は血の涙を呑む道を行かねばならなくなった。

 孤独だった幼い彼は、王の弟である実の叔父に慈しまれ救われたと信じたし、それがゆえに、長らく恩人と慕った人をその手にかけねばならないのだ。

 兄弟の運命を分けたのは、当人たちにはままならぬものの、些細なちがい。だが持つ者と持たざる者では、その意味合いは天と地ほども異なった。


 苦いものがこみ上げるのを奥歯で擂り潰し、ジェイルは眉間に力を込めて声を張った。

「騎士団だけじゃない、王の間にも裏切り者がいる。内通者がいます、昨日の朝、あの場にいた全員の名を教えてください」

 胃の腑が焼ける思いを噛み殺しながら、己の遣る瀬無さは横に擱く。

 ランドボルグに潜む虫、アルガンダワから涌き続けるドムファナ、そして――スウェンバック。三者が手を組んでいる証拠が挙がれば、先ほどグレイヴに告げたことが実現できる。自らの手を血に染める彼に、せめて大義名分を。

 兄の書き物机から無造作につかんだ紙とペンを突きつけ、ジェイルも最後の答えを必死で導き出そうと考えた。ランドボルグのグレイヴと、スウェンバックに赴任したダナン叔父、その長らくの接点はどこだったか。


 グレイヴは叔父本人とも親しくしていたが、それを隠れ蓑にしてヒロと手紙を遣り取りもしていた。一度叔父に手紙を送り、そこから落下地点に届けてもらっていたのだ。その頻度はガルムからの報告で、月に数度とジェイルも聞いている。スウェンバックのほうが落下地点よりはるかに遠いが、騎士団の手前、それくらいの手間はかけざるをえなかったのだろう。

 ここだ、と、ジェイルは確信をもって睨む。


 グレイヴに宛ててヒロのもとを離れた手紙が叔父の手元に渡り、反逆を示唆する書面を同封されたとしても、二人にはわからない。公人である弟がからめば、いかに密書と念を押しても残念ながらそうする機会はいくらでもある。

 そして叔父からの手紙なら、書記室を通過する際に確実にガルムの目にとまるはずだ。王族であるダナン叔父とグレイヴ、双方に深い関わりと情を持つ彼が書記室長だからこそ、使えた手段だ。ガルムは六年前の真相を知らず、哀れにも叔父を欠片も疑ってはいなかったから、わざわざ私信を開封して内容を検めたりはしなかったのだろう。

 とすれば、叔父の手先はいつどこでそれを見ることができる?


「――――」

 兄が緊張感のある角ばった文字でいくつもの氏名を書き記していくのを、ジェイルはただ瞳に映して爪を噛んだ。少し伸びていたそれが、ぶちりと音を立てて千切れた瞬間、踵を鳴らして駆け出していた。

「ジル!?」

 世にも珍しい兄の驚愕の声にほくそ笑む余裕もなく、ジェイルはただ一人、自分だけに許した孤高の証である漆黒の文官服の裾を蹴立てて、静まり返る廊下に飛び出した。扉の外にいた騎士たちが目を剥いてぽかんと口を開ける間抜け面も、数えきれないほど往復した城内の道も、かつてない速度で後ろへと流れていく。


 ガルムが兄の近衛騎士隊長の座を退いたとき、早晩グレイヴが後釜に据えられるであろうと当時の自分も予測した。まだ子どもだったけれど身分は仮にも王子であって、しかし所属が騎士団であるがゆえに警護をつけられないグレイヴを、兄と一緒くたに監視することができるからだ。

 ならばその時点で、宿舎のどの部屋が与えられるかも必然的に決まってくる。

 正門を目指して下層へと飛ぶように駆け下りると、ちょうど大階段下のホールで目当ての人物をつかまえた。


 いまにもスウェンバックに向けて出立するところらしく、ガルムは文官服を脱いで簡素な旅装に身を包んでいた。グレイヴの姿はないが、一人になりたかったか、あるいはアガットらと既に表に出ているのかもしれない。

「ガルム!」

 下男やら役人やら旅芸人やら、散歩がてら寄ったらしい孫連れの老爺やら、とにかく有象無象がひしめくホールを見下ろす階段の途中で、腹の底から声を上げて呼び止めた。もちろんその場のすべての注目を集めたが、気にかける必要はなかった。


「殿下――」

 振り返ったガルムは、大きく目を瞠ってその場に立ちすくんだ。

 常に冷静沈着で、いまはもう死んだ女以外のだれにも心を動かせないと思っていた男を驚かせたことに、なぜか自分で無性に腹が立つ。

 複雑な心情を突き詰めるのは後回しに、血相を変えたジェイルに歩み寄ってくるガルムに大声で問いかけた。

「宿舎の施錠をどうしていた、騎士団の自室の施錠を!」


 ガルムは金緑色の瞳に戸惑いを浮かべつつも、自分はしていた、と当然の返事を寄越した。苛立ちながら、不測の事態に備えて合鍵があったはず、それを預けるならだれだとさらに問いを重ねた。

「騎士団の総責任者、ゴドワーン殿に」

「それはいまも?」

「慣例ですが、おそらくは」

 望む答えを得たジェイルはぎゅっと握った拳の内、歪に千切れた爪が柔らかな皮膚を傷つける痛みで正気を保ち、滾るような勝利の予感に似た興奮の中、小柄で博識な『外』の老人を思い出していた。彼はかつて教えてくれたのだ。

 こんなときに叫ぶなら、その言葉は「エウレカ」と。




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