第一章 4.5 ~ ヒロ ~
鼻歌混じりにスキップしながら小道を抜けてくる奥さんの姿に、ヒロは小さく苦笑した。
祖父と同じような年代の大人に囲まれて育ったという彼女は、ふとした仕草がとても子どもっぽくて可愛らしい。
汚いものなどなにも知らないようなその笑顔を見るたびに、ヒロは何度でも彼女に恋をする。
彼女が本当に無邪気だからではない、理不尽も不条理も知っていてなお、心からの笑顔を失わない彼女が眩しくて愛しくてならないから。
――あの様子では、馬車を湖畔に置き去りにしてきたことも忘れてる。
ヒロは込み上げるあたたかな気持ちに身をまかせ、可愛くて大切な女性を迎えるために玄関へ向かった。
「ジェイル殿下が?」
風に曝されて冷えた身体を温めるホットミルクを飲みながら、ジェナはこくんとうなずいた。
「城を出る前、中庭でお会いしたの。ヤヨイにもできる仕事を用意したって突然おっしゃるから、びっくりしちゃった。グレイヴ殿下がここへ来るの、てっきりあなたを説得するためだと思ってたわよ」
くるりと目を回すジェナに、ヒロも同じ気持ちでうなずいた。
どちらかというと無口で愛想もなく、他人を寄せつけなかった孤独な王子が『外』の娘に恋をした。
きっかけを与えたのは自分だし、その瞬間を目撃もした。どこか投げやりで空虚なばかりだった紺色の瞳に光が灯り、見る間に燃え上がる。だれかが深く恋に囚われるところなど初めて見たけれど、そのときの鳥肌が立つような感動は忘れられるものではない。
まして幼い頃からよく知る少年。照れ屋で感情表現が下手で、大切なものを大切だと口にすることすらできない臆病な子だった。自分に心を開き、不器用ながらも慕ってくれていると知っていたのに、あの広大で寂しい城に置き去りにしてしまった。
あの娘を妻にしたい、と言った。
多くのものを望まぬままあきらめてきた彼が、心から願うなら叶えてあげたいと思った。けれどその傍らで、つきまとってきた後ろめたさを振り払うチャンスだ、とも思った。
ヤヨイのためにもその恋を手放しで応援してあげたかった。だれかに心から愛され、求められることは自分を守り、肯定していくためにとても有効なことだから。
だが、あの王子の立場は微妙すぎる。少なくとも、まだこちらの事情に明るくないヤヨイを託すわけにはいかなかった。
――でもジェイル殿下なら。
ヒロは王の次男を思い浮かべた。
光の滝みたいな金色の髪、深層を覗かせない青緑色の瞳、線の細い美貌。ちょっとかわり者だが頭はいいし、それだけに多少の奇行なら周囲は気にもとめない。
落ち着くまで預けるには申し分ない相手だ。グレイヴには悪いが、ひとまず涙を呑んでもらおう。
きっと全身で不本意だと訴えているにちがいない。
端麗な顔がむっつりと歪む様を想像してくすっと笑うと、カップをすすぎに席を立っていたジェナが振り返って首をかしげた。
「なぁに? 楽しいこと?」
「うん。若いっていいなぁと思って」
「ヒロだって若いじゃない」
あきれたように眉を上げるジェナに、ヒロは苦笑いを見せる。
「三十過ぎたら年寄りでしょ? 君の基準は学者連中だからなぁ」
ジェナは否定しなかった。それはそれでおもしろくないが、二十三歳の彼女にしてみれば、九歳も年上のヒロは本当におじさんなのだろう。平均寿命が六十歳前後のこちらでは、既に人生後半戦だ。
俺も年とったなぁ……と、妙に感慨深くなる。ヤヨイと話すと特にそう思う。
ドリームキャストってなに? となにか同情するような目で見られたときは、死にたくなった。
かすれかけた景色を思い出す。
油で汚れたテーブルの居酒屋。ドリンク一杯で居座ったカラオケボックス。先輩のお下がりのスポーツカー。ボールが見えなくなるまで草野球に興じた河原。どうでもいいことを語り明かした夜明け。教授の講義を子守唄にした教室。時折届くダンボール箱に詰まった母の真心。友人と格闘ゲームをしていたはずなのに、いつの間にか本物の殴り合いになってぶち抜いたアパートの壁。
懐かしくて遠い故郷。なにもかも嫌になったはずだったのに、なぜこんなにも優しく呼びかけてくるのだろう。
ヤヨイもいつか、こんな気持ちになれたらいい。まだ癒えぬ傷が彼女を苦しめていることは知っているけれど、それでもいつか。
沈みそうになる気分をかえて、ヒロは椅子に寄りかかりながらふと尋ねた。
「それで、ジェイル殿下が用意してくれたのはどこ?」
ああ、と思い出したように言って、ジェナは椅子に座りなおした。
「書記室ですって」
その瞬間、呼吸がとまった。
「――え?」
「城での暮らしに慣れるまでは、書庫の整理をさせるって。読み書きが不自由なヤヨイに公的文書は扱えないから、まぁ正式な書記官ではないわよね。でもグレイヴ殿下のいるところからも近いし、見てきたけど静かな環境でよさそうよ。それにあそこの連中は安全じゃない?」
よかったよかったと微笑むジェナから目をそらし、ヒロは急速に血の気の引いていく頬を引きつらせた。
書記室――よりによって!
腹の中に大きな石を飲み込んだような不快感に、低くうめいた。だが訝しげに顔を覗き込まれ、彼女を安心させるために無理に笑った。
「そう……ジェイル殿下には感謝しないとね。後で手紙を書くよ」
「……ヒロ、なにか心配なことでもあるの? 顔色が悪いわ」
不安げに透き通った青の瞳を揺らすジェナに、ヒロは答えることができなかった。
はっきり言って、書記室だけは勘弁してもらいたかった。
安全? よかった? あの室長に近づけるのが!?
しかし苦手な兄に頭を下げたグレイヴの顔をつぶすわけにもいかないし、断るためには室長との確執を話さなければならない。それはとりもなおさず、蓋をした六年前の件を再び日の下に曝すということだ。それだけはしたくなかった。だがヤヨイを託すのに、世界中のだれよりもあの男は適していない。
刹那に噴き上げた葛藤。なにを考え、どう口にすべきか本当にわからなかった。
ジェナは六年前の真相を知らない。そしてあのとき亡くなった女性に、いい感情を持っていない。彼を思ってのことだが、いまさら事情を説明して心痛を与えたくなかった。
「いや……大丈夫だよ。ジェイル殿下のことだから、おもしろがって手元に置くんじゃないかと思ったから、意外なだけ」
顔を見ることができないまま、ふるえる声でどうにかそれだけ言った。なにかを誤魔化したことは気づいただろう。彼女はヒロをよく理解している。そこに自分が触れる余地がないことを悟ったはずだ。
ジェナは数拍の間ヒロの目を見つめたが、小さくうなずいて笑みを浮かべた。
「そうね……あのジェイル殿下だものね、そういえば意外だわ」
肩をすくめる仕草はぎこちない。彼女を傷つけている、罪悪感に胸が痛んだ。
「あ、帰ってきたわ。――ちょっと! ちょっとちょっと、手なんかつないじゃって!」
はしゃいだ声を上げて、ジェナは窓辺に駆け寄った。
泣いてるんじゃないかな。
ヒロは身を乗り出して大きく手を振る妻の後ろ姿に、いまだけは慰める資格もない自分を呪った。