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7.アレッサンドロ

 小さな頃は何も出来ない役立たずで、母親以外誰もまともに目を合わせようとしてくれなかった。公爵領の領主館の使用人が使う部屋が並んでいる一番奥の部屋、そこが僕の全てだった。

 母は使用人として朝から晩まで働いて、咳をしていようとも熱があろうとも部屋を出ていって晩に疲れて帰ってきて、僕の食事を持ってきてくれた。母は使用人用の食堂で食事を済ませていると言っていたが、僕はそこを使う事が出来ないからいつも母が持ってきてくれていた。晩に一食、それだけだった。

 僕の世界は狭かったから、それは普通の事だと思っていた。


 僕は部屋から自由に出る事が出来なかった。でも部屋にいても何もやる事が無く、母が持っていた少ない本はもう何度も読んでつまらなくなってしまっていた。だから自由に部屋から出てはいけないと言われていたけれど、母には「見つからないようにこっそりね」と言われたので、幸いにも部屋が一階だったおかげで窓から外にこっそり出掛けていた。それでも幼い子が、沢山いる使用人の誰にも気づかれずに出掛けるなんて無理な話で、よく見つかっていた。でも領主館の人達は僕を見ても目を合わせず、怒りもしなかった。だから走って領主館を抜け出していた。きっと僕には何も言わないけれど、母には注意をしていたのだろう。母はそれを謝りながらも僕に伝える事は無かった。母なりに盾になってくれていたのだろうと思う。

 近くの森に入って林檎や蜜柑、木苺といったそのまま食べられる物を採っては母へお土産として持って帰った。部屋で母と二人こっそりとそれらを食べるのが、一日の中で一番楽しい時間だった。


 自身を盾として僕を守ってくれていたせいか、母はある日突然倒れた。

 いつか僕が大きくなった時にこの館から出て暮らせる様にと母が給金を貯めていた事を知っていたので、その金を持って部屋から出て一番最初に出会った人に医者を呼んで欲しいと頼んだ。その人は何も言わなかったけれど、ちゃんと医者を呼んでくれた。医者は凄い人で、いろんな病気を治してくれる人だと思っていた。医者に診て貰って薬を飲ませたら母は元気になると思った。でも、医者は治せないと言った。もう施しようが無いと言った。気休め程度に少し体の痛みが和らぐ薬だけくれ、母に飲ませたけれど一週間もせずに亡くなった。僕は母の為に何も出来なかった。役立たずだった。


 僕は一人になった。使用人部屋の一番奥の部屋で、誰にも声を掛けられずひっそりと生きた。ずっと母が運んでいてくれた食事は、誰も持って来てはくれなかった。母が死んでも変わらずお腹が空くので、窓から抜け出して森へ行った。沢の水を飲んで木の実を食べ、そして花の蜜を吸った。暗くなる前に館に戻った。人に会っても誰とも目が合わない。僕は幽霊の様だった。もしかしたら死んだのは母では無く、僕だったのかもしれない。それかもっとずっと前に僕は死んでいたのかもしれない。そう思えてならなかった。

 母の居なくなった真っ暗な部屋に一人でいると無性に淋しくて、残った母の服を握りながら泣いて眠りに落ちていた。


 そんな日を数日繰り返して、さすがにふらついてもう窓から出る体力も無くなった頃、一人の男の人が部屋に入って来た。母以外の人がこの部屋に入ってくるのを見たのは初めてだった。

 男の人はとても綺麗な服を着ていて、とても良い香りがした。ボロボロの服を着て何日も体を洗っていない僕とは正反対だった。その人はきっと臭いだろう僕の事を抱き締めて、「すまなかった」と言った。何度も「すまなかった」と言って泣いていた。何が「すまなかった」のか、何に泣いているのか分からなかったけれど、初めて母以外の人から抱き締めて貰い、少しホッとした。


 その男の人は僕の父親だと言った。父が館の人に指示をすると、温かくて飲み込みやすい食事を与えてくれ、体を綺麗に拭いてくれ、清潔な寝具で寝かせてくれた。そして母の葬儀をして、墓参りも連れて行ってくれた。僕が普通に歩き回れる様になると、何日も馬車に乗って大きな邸に連れて行った。首都にある公爵邸だと言った。ここが新しい家で、ここで暮らすのだと言った。そこには僕より何歳か年上らしき子どもが居た。父は「アレッサンドロの兄のヴァレンティーノだ」と言った。僕には兄弟が居たらしい。全然知らなかった。

 兄は優しかった。父も優しかった。それに邸の者達も皆優しかった。皆僕が見えるらしい。会えば挨拶をしてくれるし、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。僕はやっぱり死んではいなかったらしい。死んだのは母だけだったらしい。



◇◇◇



「アレッサンドロ様、あちらにご案内します」


 子爵令嬢がぐいっと僕の腕を引っ張って連れて行かれた先には、多くの工員達が働く作業場だった。多くの人が生きる為にここで雇われ給金を得ている。

 子爵は僕が生まれた頃の経済変動期に急成長した商会を経営していた。後継者が居なくなったり爵位を剥奪されたりと様々な理由で国保有の領地が増えた事により、国は新興貴族を設け新しく爵位と領地を与えた。子爵家もその中の一つだ。こういった人達のおかげで経済が回り国が豊かになる。公爵家の一員となって少しずつ父の仕事に同行させて貰い知った事だ。


 今日も父と子爵のすすめで工場の見学に来ていた。同様な規模の工場をさらに増やし生産数を上げ、併せて今よりさらなる機械化への検討を進めていると聞いた。機械化を進めている所はまだ多いとは言えない。この様な大手でなければ開発費用も捻出出来ないからだ。他国の技術発展を見ても乗り遅れない為にはモデルケースとなる成功例を国内に見せなければならない。その相棒となっているのが子爵だ。


 父と子爵の仲が親密になればなるほど囁かれる子爵令嬢との婚姻話。自惚れではなく子爵令嬢が僕を気に入っているから余計にだ。


 僕に対してこんなにも積極的に絡んでくる人も初めてだった。大体の貴族は僕を私生児として見下している。幸い公爵家の威光で直接的に何か言ってくる事は無いが、陰口を言われている事位知っている。おかげで友人なんて一人も居ない。僕にはずっとジャーダだけだった。



 見学が終わって帰る時、子爵令嬢に呼び止められた。


「ハンカチに刺繍をしました。受け取ってください」


 少し照れながら差し出してきたハンカチに言った通り刺繍が施されている。


「どうもありがとう」


 受け取って軽く会釈をして父と馬車に乗った。


 刺繍はなかなかのものだった。ワンポイント程度の刺繍では無く、周囲をぐるりと刺繍が施されていた。子爵の叙爵時期を考えれば、貴族令嬢としての教育は普通の貴族令嬢よりも習い始めが遅かっただろう。きっと僕と変わらない位かそれよりも遅いか。候爵令嬢であるジャーダの方がずっと上手い。


「アレ」


 対面に座る父に名を呼ばれて視線をハンカチから父に変えると、その父は僕が持っているハンカチを見ていた。


「ヴァーノは自分で結婚相手を決めている。アレも自分で自由に決めて良い。自分の心の通りにすれば良い」


 初めてそんな事を言われた気がする。


 親が誰と仲が良いから縁を結ぶとか、家の繁栄の為に誰と結婚しろだとか、断る事が出来ない縁談話だとか、そんなものは何にも無いんだと伝えたいのだろう。


「ありがとうございます」


 僕の手元には子爵令嬢が刺繍を施したハンカチがあるのに、無性にジャーダに会いたくなった。


 僕の女神。


 初めて会った時から、なんて可愛い子だろうと思った。とても可愛らしいドレスを着て、曇の無い顔で、天使だと思った。一人寂しく天国へ行った母が、僕を天国へ連れて行く為に迎えに行かせた使いの天使なんじゃないかと思った。


 この天使は沢山の遊びを教えてくれた。一緒にお菓子を食べて美味しいと言い合った。そして笑えなくなっていた僕に笑い方を思い出させてくれた。初めての友達だった。


 でもジャーダと兄がダンスを踊っているのを見た時、気に食わなかった。面白くなかった。嫌だった。嫉妬したんだ。ジャーダを取られるのが嫌だったんだ。

 その時に分かった。ジャーダは友達じゃ駄目なんだと、僕はジャーダが一番なんだと。そしてジャーダにも一番だと思って貰いたいと。


 何があってもジャーダだけは奪われたくなくて、ダンスの練習を頑張った。ジャーダに釣り合う紳士になりたくて勉強も頑張ってマナーも覚えた。ジャーダに振り向いて貰いたくて紳士の口説き文句ややたらとモテる兄の台詞を真似した。そうしたらジャーダがツッコんでくるから、意外にも恥ずかしげも無く思ったままの本音を言えるようになった。ジャーダは「ふざけないで」と怒るけれど、その怒る顔が可愛くて本音を沢山伝えてきた。


 僕の天使はいつしか女神になった。

 私生児の僕が手を伸ばして良い相手では無いと頭では分かっている。それでも誰にも奪われたくなくて、父である公爵が認めてくれた子息という立場を利用してジャーダの隣を占領してきた。


 けれど、ずっと僕が占領してきたのに、その僕が隣に行けなくなってしまった。



次回最終話です。

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