魔王軍幹部メープル=ミルフィーユの甘ぁい試練。
無縫とフィーネリアが案内されたのは、『Boulangerie et Pâtissière 千枚の葉』の従業員入り口から入ってすぐにある階段を下った地下の一室だった。
手洗い用の水道と石鹸が置かれた清潔感を感じさせる石造りの部屋の先には大きな窯とテーブル、調理台などが設置された部屋があり、二つの部屋は銀色の扉で隔てられている。
「ここはぁ、パン教室などでお客様をお招きするための部屋なんですぅ。この先の部屋に入る前に石鹸で手を洗ってくださいねぇ。さてぇ、今回挑戦されるのは無縫さんということでしたがぁ、お連れ様はどうしますかぁ? 試練に一緒にご参加されても大丈夫ですよぉ」
「お店でパンを選んでいてもいいと思っていたけど、折角なら参加させてもらおうかしら?」
「ではぁ、お二人とも準備ができたら中へ入ってきてくださいねぇ」
そう言い残し、メープルは素早く手を洗うと部屋の中へと入っていった。
「……なんとなく察しがついたけど、試練ってアレよね」
「まあ、バン作り以外ないだろうな」
「パンなんて作ったことないけど大丈夫かしら?」
「……バチカル区画が最も難易度が低いってことだからよっぽどじゃ不合格にならない調整になっていると思う。流石に難しいパンを作れとか無茶振りは飛んでこないだろう」
無縫とフィーネリアが手洗いとついでに浄化魔法で衣類の洗浄を終えて中に入ると、既に材料の準備を整えていたメープルが二人を台の方に招いた。
「さてぇ、私の試練の内容はぁ、『Boulangerie et Pâtissière 千枚の葉』の看板メニュー、クリームパンを作ることですぅ。ちゃんと作り方は見せますのでぇ、それを見て作ってみてくださぁい。ちゃんと最後まで作ることができたら合格ですよぉ。……ってあらぁ? どうしましたかぁ?」
「いえ……教えてもらって最後まで作れれば合格っていくらなんでも簡単過ぎるじゃないかと思って。本当に大丈夫なのかしら?」
「実はぁ、シェリダー区画には学園があるのですよぉ。その学園の学生さん達がカリキュラムの一環で『頂点への挑戦』にチャレンジするんですぅ。といってもぉ、本戦まで出場できる学生さんは片手で数えられるほどもいないんですけどねぇ。その関係で学園にも近いスタート地点のバチカル区画の試練は特に簡単にできるようにって言われているんですぅ。当然、『頂点への挑戦』にチャレンジする人は多いですからぁ、私のお店のクリームパンをご家庭で作る方はいっぱいいますねぇ」
「……それでも自家製ではなく『Boulangerie et Pâtissière 千枚の葉』のクリームパンを買いに来るのですから、メープルさんのパンはそれだけ美味しいということなんですね」
「あらあら、嬉しいお言葉もらっちゃったわぁ」
クリームパンの作り方自体はオーソドックスなものだった。
まず、鍋に牛乳とバニラビーンズ、バニラビーンズの鞘を入れて沸騰させる。
ボウルに卵黄を入れて解し、グラニュー糖を加えてホイッパーでひたすら混ぜる。
篩にかけた薄力粉を加え、牛乳を少しずつ加えながら混ぜた後、漉しながら鍋に戻す。
続いて、強めの中火に掛けて焦げないように鍋の中全体を箆で絶えず混ぜながら加熱する。中心から沸騰して粘りのあるクリームがさらっとした状態に変わったら火を止める。
バターを加えてよく混ぜた後、ボウルに移して表面をラップで密着させて氷水を入れたボウルを上下に重ねて急冷する。これでカスタードクリームは完成だ。
そして、いよいよ生地作りに入る。
ボウルに強力粉、薄力粉、砂糖、ドライイースト、塩、溶き卵、牛乳、水を入れてよく混ぜる。
全体が混ざったらバターを入れて更に混ぜる。生地が一纏まりになったら捏ね台の上に出して二十分ほどしっかり捏ね上げる。
生地が滑らかになったら丸めてボウルに戻してラップを掛け、三十度ほどの温かいところで六十分ほど発酵させる。
生地が二倍に膨らめば発酵終了だ。
ちなみに、今回はオーブンの発酵機能を用いたが、家庭でも作れるようにフライパンやホームベーカリーを用いた方法もメープルは合間合間に解説している。
ラップやオーブンなどはここ数年になって開発されたもののようだが、その開発にはシトラスが関わっているという噂もあるようだ。……彼は一体何者なのだろうか?
余談だが、パン文化はそれ以前から存在し、菓子パンの歴史もかなり深いようである。オーブンなどがない時代は窯などを用いてパンを焼いていたようだ。
無縫もよく知るパンのいくつかもクリフォート魔族王国では普及しているようなので、もしかしたら地球から転生した者がいたのかもしれない。
発酵が終わった生地を打ち粉を振った捏ね台の上に取り出してパンの大きさに切り分ける。
それぞれ綺麗に丸めて底を閉じ、固く絞った濡れ布巾をかけて十分ほど休ませる。
カスタードクリームのラップを外した後、パンの数に分けてから生地の閉じ目を上にして置き、綿棒で楕円形に伸ばす。
真ん中にクリームを乗せ、二つ折りにして周りをしっかり閉じる。
オーブンシートを敷いた天板に並べ、オーブンの発酵機能を使って三十五度くらいの温かいところで五十分ほど発酵させた後、表面に刷毛で薄く卵液を塗った後、百九十度に温めたオーブンで十三分ほど焼いて完成だ。
「完成ねぇ! 二人ともよくできたわぁ!」
「……苦戦したけど、なんとか形にはなったわね。涼しい顔でどんどん作っていく無縫君を見ていると悔しくなってくるわ」
「まあ、家事全般は俺がやっているからね。あれだけやっていれば料理もできるようになるよ」
「……よく考えたらほとんど外食だし、料理もマリンアクアさんのお裾分けをもらって温め直して食べるくらいだからほとんど料理なんてしていなかったわ。ロードガオンに居た時は使用人が全部やってくれたし……これでも、洗濯とか掃除とかはできるようになってきたけど」
「まあ、お嬢様育ちならそこまでできるようになったなら十分な進歩だと思うけどね」
「ではぁ、熱いうちに食べちゃいましょう! それが終わったらぁ……少し遅くなりましたけどぉ、私に挑戦ということで良かったですかぁ?」
「はい、お願いします」
「じゃあ、食べ終わったらバトルフィールドに行きましょうかぁ?」
熱々のクリームパンの味は格別だった。頑張って自分で作ったからだろうか? それとも教えが良いからなのか。
美味しいクリームパンを食べ終えた後、無縫とフィーネリアはメープルと共に『Boulangerie et Pâtissière 千枚の葉』の外に出た。メープルに先導され、向かう先はバチカルの中心部にある広場兼公園だった。
魔王軍幹部に異世界出身の人間の勇者が挑むという噂を聞きつけたのか、既に多くの見物人が集まっていた。
その中にはオズワルドの姿もある。
「よっ、無事に試練は突破したみたいだな。まあ、あれで失敗する方が難しいが」
「美味しいクリームパンでした」
「なんというか……正しい感想なんだが、うーん、試練を終えた感想らしくないっていうか。まあ、今更か」
「私は邪魔になるといけないから離れているわね」
フィーネリアが無縫の側を離れ、公園の中心で無縫とメープルが対峙する形となった。
「さてぇ、じゃあ始めて行きましょうかぁ?」
「その前に、一つ魔法を使わせてもらってもいいですか? メープルさんの不利益にはなりませんので」
「えぇ、大丈夫だけどぉ……どんな魔法かしら?」
無縫は【万物創造】を使ってキューブ状の何かを作り出した。
無縫はそのキューブの一箇所だけ色が変わっている中心部分に魔力を流し込み、魔法を発動する。
すると、キューブを持つ無縫を中心に不思議な光が広がっていった。
光はフィーネリアを透過し、無縫とフィーネリアを包み込む半球状の空間を作り上げる。
「この結界は『夢幻の半球』。この空間内ではあらゆるダメージが夢と化します。……つまり、この空間内で死亡した場合も現実では傷一つ負っていないという扱いになるということです。結界を出るか、結界内で死亡した場合、結界の外で目覚めます。……これなら、相手を傷つけることを気にせず戦えますよね?」
「聞いたことがない魔法だわぁ。こんな凄い魔法が世の中にはあるのねぇ!」
「……無縫、メープル殿との戦いが終わったら相談したいことがある。時間をもらえないだろうか? この魔法は革命だ! この魔法があれば、『頂点への挑戦』は新たなステージに突入すると、そう思うんだ!!」
「分かりました。……とはいえ、まずは勝負です!」
「でもぉ、申し訳ないわぁ。魔王軍からの指示で私は本気を出せないのぉ。他の受験者と平等を期すためにもねぇ……だからぁ、本戦では是非、本気で戦いたいわぁ! まずはぁ、お手並み拝見といきましょう! バチカル区画担当魔王軍幹部、メープル=ミルフィーユ、甘い勝負を味わってもらうわねぇ」
「……本気で戦ってくれてもいいんですけどね。――俺は本気で行きますよ」
時空の門穴を開き、賽子を一つ取り出してから、無縫は不適な笑みを浮かべた。
「それじゃあ、始めましょう。勝負を――」
――そして、無縫は賽子を空中へと放り投げた。
◆ネタ等解説・七十八話
夢幻の半球
着想元はあわむら赤光氏のライトノベル『聖剣使いの禁呪詠唱』に登場する四門摩耶の固有秘法《夢石の面晶体》。
『文学少年(変態さん)は世界最恐!?』時代から恒例となっている味方同士の戦闘を違和感なく行えるようにするギミックの一つである。
ちなみに『文学少年(変態さん)は世界最恐!?』ではマルドゥーク文明の保有する空間魔法の亜種《神代空間魔法・夢世結界》が、『百合好き悪役令嬢の異世界激闘記』では「E.DEVISE」と『管理者権限』を強引に接続して「L.ドメイン」を権限した特殊なバトルフィールドを使用している。