Opus.5 - No.8
――ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、ぺちゃ……
次に錐波が目覚めた時、妙な水音が彼の耳に付いた。天井から滴が垂れる音でもない。
それに、さっきからやけに顔がくすぐったい。
「う……ん……?」
錐波が目を開けると、そこに一人の女の子の顔があった。紫がかった黒のショートに赤い瞳。髪は所々が寝ぐせのようにカールしていて、全く手入れされていないようだった。彼女は、錐波が寝ている間、ずっと彼の顔を綺麗に舐めていたらしく、舌を出したまま首を傾げてボーッとこちらを見ていた。その吸い込まれてしまいそうな赤い瞳を見た錐波は、驚いて後退ったものの、背後の壁に思い切り頭を打ってしまい、痛みのあまりその場にうずくまる。
「がう?」
少女は、驚いた錐波の態度を見て、不思議そうに小さく唸って首を傾げる。が、またすぐに彼の傍に近寄り、頬をぺちゃぺちゃと舐め始めた。
「……あ、あの、止めてよ。汚い、くすぐったい」
「う”ぅ? うぅうあぅ……」
錐波はかすれた声でそう訴えるも、その少女は低い唸りを返すだけで、舐めるのを止めてくれない。彼女は頬の傷や鼻の穴から流れてくる血を絶えず舐め取っていたようで、おかげでそれまで血で汚れていた錐波の顔はすっかり綺麗になっていた。逆に、少女の唾液でベトベトになってしまっていたのだが……
「そいつは血に飢えているのよ」
不意に、牢の中で声がした。錐波はまだ顔を舐めようとすり寄って来る少女を押さえ付けながら、声の方に視線を投げる。
牢の中には、錐波と彼の顔を舐めてくる少女の他に、もう一人、壁の隅に蹲っている少女が居た。長い茶髪を左右に分けて後ろで三つ編みにしており、チェックのブラウスにジーンズという格好は、どこかインテリなイメージを見る者に与えている。彼女の頬にはそばかすが散りばめられ、目元にはジョン・レノンが愛用していたような丸眼鏡を掛けていた。その眼鏡のおかげで彼女の茶色の瞳が異常に大きく映り、何だか目の大きな宇宙人みたいに見えてくる。はっきり言って、その眼鏡は彼女に似合っていなかった。
「……君、誰?」
錐波がそう尋ねると、彼女はフンと鼻を鳴らして答えた。
「私は毒嶋梨花。クラスSavageの能力者。周りからは『クイックルショット』なんて呼ばれてる。ダッサい呼び名だよね。掃除器具かよ」
毒嶋と名乗る少女は、そう言って自身のあだ名を鼻で笑う。
「……で、アンタに懐いてるそいつの名前は犬走来禍。別名『グレイハウンド』。動物だろうが人だろうがペロリと平らげてしまう、血に飢えた狼女よ」
そう言われて、錐波はもう一度、自分の方へ寄り掛かろうとしてくる少女の方を見る。少女はTシャツに短パンという露出の多い格好で、靴は履いておらず裸足のまま。服の所々汗や泥で汚れており、漂ってくる彼女の体臭には獣臭さが混じっていた。汚れたTシャツには、彼女の素性を表すかのように、血に飢えた狼のポップなイラストが描かれている。
そんな犬走は、錐波の傷を舐めたくて仕方ないらしく、犬歯剥き出しの口元からダラダラと涎を零しながら、舌を出してハァハァ息を荒らげていた。まるで発情期の犬と相手をしているようだ。
「……あの、ボク、食べられるの?」
「今は平気。こいつは言葉を話せないけど、大人しければ人を襲ったりはしない。……ただ、怒らせると途端に狂暴化して巨大な獣に変貌するから、その時は頭から丸ごとかぶりつかれるでしょうね。特にアンタの血の味は、こいつのお気に召したみたいだから」
そう言われて、錐波は溜め息を吐き、抵抗するのを諦めたように、犬走の肩を押さえ付けていた手を放す。途端に彼女は錐波の懐に飛び込み、また顔をペロペロやり始めた。
(……いっそこのまま頭からカブリといってくれれば、お互い楽だろうに)
錐波は嫌々顔を舐められながら、投げやりにそう心の中でつぶやく。
「いっそこのまま頭からカブリといってくれれば、お互い楽だろうに」
そして、彼の左手にある口が、心の声を言葉にして放っていた。




