嘘を信じる心
ユーチューバーの「ヒカル」の動画が『やらせ』だった事が、東谷という人によって暴露された。やらせが暴露されたのは「ぼったくりバーに潜入する」といった動画で、ヒカル本人もそれを認めているそうだ。
最も、こうした些末な事例は、時間によって刻々と変化するので、私はただ代表例としてあげてみただけだ。私がここで言及したいのは、「嘘を信じたい」という気持ちについてである。それについて書きたいので「ヒカル」のような登場人物は次々に入れ替わるだろうが、それでも、人間の中にある「嘘を信じたい気持ち」についてはそう変わらないだろうから、それについて述べたい。
私がこの文章を書こうと思ったきっかけは、ヒカルのやらせについての、あるコメントである。それを引用してみよう。
「私はどっかでYouTubeはそういうもんだって少なからず思って見てるから特にやらせでした言われてもショックでは無いし特に深く考えないけど。
最初にノンフィクションて付けててそれがヤラセなら問題になるけど。
うーん、、、テレビもだけど締め付けがキツくなればなる程面白くなくなるしYouTubeはそれが無かったから面白かったんじゃないの?」
コメント全文ではないが、大体、内容はわかるだろう。おそらくヒカルのファンの「擁護コメント」と思われる。
私はヒカルにも、ヒカルのファンにも興味はないが、このコメントに見られるような二重思考というのは興味深いものに感じた。二重思考というのは、オーウェルが洞察の末に辿り着いたある状態であり、「嘘を嘘と知っていながらも信じようとする」というようなものだ。
上記の引用コメントでわかるように、こうしたファンはヒカルの動画がやらせだとわかっても「ショックは受けない」し「深く考え」ない。自分が信奉しているものが嘘だと知っても、嘘については見ないふりをする。
しかし、冷静に考えて見るなら、ヒカルの動画がやらせだったとしたら、その後にあげられる動画もやらせの可能性がある。だが、「これはやらせか?」などと考えて動画を見るのは辛い事なので、少なくとも信者は、動画を見ている間、動画並びにヒカルの誠実性については信じようとするだろう。
もしヒカルの動画が嘘だとわかっても、自分の信奉を捨てる事を彼らは拒否するから、それに関しては「嘘で何が悪いのか。面白ければいいじゃないか」という論理を用意する。要するにここにあるのは典型的な二重思考だ。
もう少し補足するなら、彼らがヒカルの動画を見る時に、本当にコメントにあるように「嘘だとしても別にいい」という感情で動画を見るのは、私には不可能だと思われる。少なくとも動画を見ている間くらいは、真実性を信じていなければならない。全てが嘘であると知っていながらそれを同時に信じているという心性は私には、発狂しているとしか思われない。それは精神の完全に分裂した状態で、人間にこれが耐えられるとは到底思えない。だから、上記のコメント主は、深い部分で自己欺瞞に陥っている。だがこうした自己欺瞞にコメント主が気づく事はないだろう。
さて、ここに現れているのはどういうタイプの精神だろうか。それは「嘘を信じたい」という感情である。あるイケメンタレントが裏で汚い事をしているのが暴露された。これもツイッターで見つけたコメントだが「夢を壊されたくないので、暴露動画は見ないようにする」というものがあった。正確な引用ではないが、こうしたコメントがあった。ここではある背後で価値判断が行われている。
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それでは、その価値判断とは何かと言えば「自分の信じたいものを信じる」というものだ。そこに亀裂が入って、二つに分裂しても、彼らは「信じたい」というものの方を取る。現実と夢が分裂した時、彼らは夢を取る。
ヒカルの例を再び取れば、「ぼったくりバーに潜入」という動画を見る行為がまずある。ヒカルがぼったくりバーに潜入して、相手を論破して、頭を下げさせる、そこに溜飲が下がる……しかし、それがやらせだったと知った時、それが嘘だったという現実と、その動画を見て『面白かった』自分との間に分裂が起こる。
上記のコメント主のような人はこの分裂を直視する事ができない。そこで「面白ければそれでいい」「嘘だったと知っても気にしない」という、自分を擁護する論理を作る。こうしてこの人物は、この論理によって保護される事になる。「嘘だったとしても面白ければそれでいいし、自分は楽しんでいるからそれでいいのだ」というものだ。
この状態は、ヒカルがどうのこうのというより、こうした人物の精神を如実に語っている。だからこそ、私は興味深く感じたのだった。つまり「面白ければそれでいい」のであって、それが嘘だったと知っても気にしない。現実と夢とが分裂した時、夢の方を取るという価値判断が背後では行われている。
それではこの「夢」は一体、どういう所から現れているだろうか? それは本人の欲望、と今はざっくり言っておこうと思う。欲望や願望というものが人間には存在する。メディアはそうした欲望や願望を投影するスクリーンとなっていて、欲望に応じた映像を人々に見せてくれる。ここに「やらせ」が生じる。だから「やらせ」はいつまでたってもなくならないだろう。
何故「やらせ」があるかと言えば、生の現実だけ見せられればうんざりしてしまうからで、人は自分の夢を具現化してくれるものを崇める。そうする事で、実際には彼らは彼らの欲望そのものを称賛しているのだが、彼らがそれに気づく事はない。彼らは客観的なあるものを褒めているつもりで、実際には、自分の主観を肯定している。彼らは主観を批判的に見る事ができないので、その主観を具現化してくれるものを様々な「客観的な論理」(上記のコメントのような)で擁護する。
こうした人々の心理がある限り、「やらせ」はなくならないし、その他の様々な、大衆の願望を具現化した偶像はなくならないだろう。つまり、大衆には「嘘」が必要なのであり、その「嘘」によってこの世界は成り立っていると言える。例えば、この嘘の状態は右翼とか左翼とか、一見正反対の理想として実現する事もある。
この二つは不倶戴天の敵であって、常に抗争を繰り広げているように見える。しかし実情は、それぞれの欲望を仮託した姿となっている。そこでは、ある嘘を信じたいという欲求が破れれば、もうひとつの別の欲求に移行できるというシステムが存在している。何が言いたいかと言えば、知識人の経歴を見ると「左翼→右翼」「右翼→左翼」のようなものはよく見られるのであって、どうしてこういう移行が可能かと言えば、人間は、一つの夢が破れればもう一つの(正反対の)夢に移行する原理が存在するという事だ。
イケメンタレントAの幻想が破れれば、イケメンタレントBの幻想に移ればいい。メディアはそういう「選択肢」を与えてくれる。だがその全てが幻想である、夢である、我々の欲望に一致した現象だというのは変わる事のない真実としてある。人々はこの夢を次々と取り替える。こうした人々がついに気づく事がないのは、自分の根深い部分にある欺瞞性だ。彼は自分が真実から逃げ続けている事に気づかない。夢は次々に取り替えられる。そうして夢の連鎖の中で、夢ではない唯一のもの……死が近づいていくる。
こうした夢は繰り返し、メディアを通じて演じられ続けるだろう。演者は次々に取り替えられる。昨日まで神として崇められていた人物が、次の日にはクズとして石を投げられる存在になる。しかし、彼が神であった事、クズになった事は同一の源泉から発している。それは我々の「見たいものしか見たくない」という欲望である。我々の視線は、他者を偶像に客体化する。
偶像化された客体はその事によって、単純化されてしまっているのだが、実際の人間は複雑なので、単純化された像から漏れてくる。我々の絶対的な偶像探しはいつまでも休まる事がない。我々は神を失った日から、新たな偶像を探し続けてきた。神を殺した後も、超越的なものを求める任務からは逃れられず、その為に手近な偶像を作っては壊して、という作業を続けている。
ヒカルの例に戻って考えてみよう。ヒカルの動画を見て面白がっている視聴者は自分が分裂している、とは考えない。むしろ、彼らは素直であり、面白そうなものを本気で面白がろうとしている。彼らは実際には単純な精神の持ち主だ。彼らは懐疑論者ではない。だから、ああした動画も素直に楽しめる。
しかし、人間という存在そのものは、決して単純ではない。ある種の人が人間というものは簡単だ、わかりやすい、と考えたところで、実際の人間は複雑であり続けるので、ここに分裂が起こってくる。
先のコメント主のコメントを見るとわかるが、おそらくああした人は本当にヒカルの動画を面白いと思える、あるいは面白いと思おうとする「素直な」人物なのだろう。だが、素直な人物であるからこそ、その人のコメント、その人の出す論理は分裂してしまう。どうしてこうなるかと言えば、人間というのは根底的に複雑であり、矛盾しており、分裂している存在であるにも関わらず、それを意識の段階では単一のものとして理解しようとする。意識が、存在に追いつかない。そこで意識は二重思考に逃げ場を求める。彼が単一の理解を貫こうとするので、意見そのものが矛盾に満ちてしまうのである。
私は個人的にドストエフスキーという作家を研究してきた。ドストエフスキーがどうしてあのように、複雑矛盾に満ちた人間を捉え得たのか、不思議だった。しかし、ドストエフスキーの作品そのものは、はっきりした統一が見て取れる。ドストエフスキー作品のキャラクターは複雑で、矛盾に満ちており、あっちこっちを彷徨うのだが、作品全体は統一された像を結んでいる。
この文章の趣旨で言えば、ドストエフスキーという作家は二重思考の丁度、反対にいると言えるだろう。しかしそれは二重思考とは違い単一の思考をする存在だという意味ではない。そうではなく、彼は人間の中の「二重思考性」そのものを深く理解したので、矛盾を矛盾として見つめる彼の視線は一つの思想として、単一の矛盾したものではない形となったという意味である。その意味において彼の作品は統一が取れている。
その反対に、自分の欲望に沿った世界理解を貫こうとする存在は、世界からその矛盾を指摘され続ける。それでも自分の幻想を破る勇気がないので、こうした存在は幻想から幻想へと綱渡りしていく。次々にメディアが映し出す流行り物を追いかける現代人はそうした存在である。彼らは手近な統一したものを求めるので、かえって彼らの存在はバラバラな、矛盾に満ちたものになっていく。
その時々の整合性を求めるあまり、人生は統一的な像を結ぶ事ができない。時々の流行り物、自分の気に入ったものが、人生の各部分を染め上げている。だがその全体を貫くものは本人の嗜好という気まぐれなものでしかない。この気まぐれなものを肯定した人間は、気まぐれそのものによって人生が翻弄され、人生の各部分が矛盾してしまう。全体に意味を与える事ができない。あるのはバラバラの事実の寄せ集め、その時々の自己正当化でしかない。
こうした物語は終わる事なく続いている。ヒカルはやらせばかりでうんざりだ、と思えば、新しいやらせに飛びつく事ができる。こうして現代の人間は終わる事のない旅を続けるが、この旅は脈絡もなく、全体的な統一性がない。こうした「根こぎ」(シモーヌ・ヴェイユの言うような)の状態が基本になった時代で、自分の人生を作っていくのは至極難しいのだろう。
こうした時代においては時間は各部分でバラバラになっている。時間は空間によって寸断される。そうして我々がもし自分自身を反省する時が与えられたら、その時には、バラバラになって統一性のない裁断された死体の各部分が目につくばかりだろう。だがそうしたのはあくまでも我々であって他人ではない。あくまでも、それは我々の奥底が生み出した各部分であって、それから逃げ出し続ける事はいつまでも許されるものではないだろうと思う。