発券
構内を掃除していると、どうしても気になってしまう。電源の落とされた、使用禁止の券売機は、張り紙が油汚れで透けるまで、長い間ほったらかしにされている。
「どうして撤去しないのでしょうか」
配属されたばかりの私が訊ねると、先輩たちは口を揃えて、
「あのままがいいのさ」
「廃棄するにも金がかかるからね」
「いつか修理されるんじゃないか」
忙しなく利用客に揉まれる日々に追われていると、先輩たちのように、古い券売機のことなど構っていられない。
実習が終わると、新入社員はいよいよ本格的な仕事を与えられ始める。そうやって券売機は忘れ去られていく。
ある泊まりがけの勤務の日、構内に取り残された泥酔客たちを、一人残らず追い出した私は、翌日の業務に支障をきたさぬよう、仮眠室へと急いだ。
疲れを溜め込んだ制服から、動きやすい服装に着替えてベッドに潜る。馴れない仕事にあくせくした後はとりわけ抗うことのできない睡魔が襲う。
深い闇の底に降り立った私は、心地好い浮遊感に包まれていた。するとどこからか、鼓膜を震わせる拙い電子音が、不連続に響いてくる。
音のする方向へ近づくにつれて、暗闇がより一層濃くなっていく。どこまで歩いても先は見えない。
次も、そのまた次のシフトでも、同じような夢を見た。
「最近泊まりがけの勤務をすると、不思議な夢を見るんです。真っ暗で、機械のパルスのような音が、どこからか届いてきて」
「その話はやめよう」
机に置かれたコーヒーのマグカップが大きく弾んだ。滅多に感情を表に出さない温厚な先輩が、眉尻を吊り上げて煩わしそうにしている。休憩室で談笑していた誰もが、凍りついてしまったように動かない。
悶々と整理のつかないまま、通勤、通学のラッシュを迎え、私はあたふたと右往左往する。その度に客や先輩に幾度となく怒られた。
結局その日はつまらない失敗ばかりしてしまって、あらゆる業務がうまくいかず、がっかりしてしまった。いつも通りに深夜の清掃作業をしていると、
「随分と落ち込んでいるようだね」
「はい、私が業務に集中できなかったことが悔しくて。えっと」
にこやかに話しかけてきた男性は、ホームのベンチに転がった空き缶やゴミを集めていた。制服の名札には「東海林」と書かれていて、
「読みにくいでしょう。しょうじ、と呼びます」
「すみません、入社したばかりで存じ上げず、ご挨拶が遅れました」
深々と頭を下げた私に、おどけた様子で、
「そんなにかしこまらなくていいよ。そんな風にされる義理はないしさ」
照れたように頭を掻いている東海林さんは、それから一緒に片付けを手伝ってくれた。
午前一時を少し過ぎた。客の絶え、静まり返ったホームの清掃を済ませ、二人で改札の前を通りすぎるときも、会話は続いていた。
「へぇ、あの優しい先輩が」
「そうなんです。突然テーブルを叩いて、私が変なことを言ったから」
「変なこと?」
「ええ、実はどうしても故障して使われていない券売機が気になっていて」
使用禁止の券売機について、先輩職員らに質問した流れを私が説明すると、東海林さんは腕を組んで天井を仰いだ。
「なるほどね、だからボクがここに呼ばれたのか」
「どういう意味ですか」
「簡単に言うとね、再発防止ってこと。後輩に苦い経験をさせまいと指令がでたのさ」
東海林さんの手が私の肩に触れた。ひんやりとした体温に、思わず鳥肌が立つ。
「いいかい、ボクの言葉を覚えていてほしい。あの券売機は、ごく希に特別な人が利用する。もしもそのお客さんに声をかけられても、絶対に返事をしてはいけないよ」
「分かりました。でもどうして」
詰問しようとした私を睡魔が襲い、目が覚めたときには、時計の針が午前三時を指していた。私は仮眠室にいて、ベッドに横たわっていた。きっと東海林さんが機転を効かせて運んでくれたのだ。
まだ睡眠時間が残されている。寝返りをうった私の耳に、あの電子音が届くまではそう思っていた。
ベッドから起き上がり、そのまま廊下へ出ると、どうやら改札の方向から聞こえてくる。
歩みを進めるにつれて、疑心は確信へと変わった。
か細い警告音が、張り紙は剥がされているものの、あの券売機から鳴り響いていた。間違えようのない、使用禁止の券売機だった。
その正面に、髪の長い真っ赤なドレスの女性が佇む。
背後に近寄っても、微動だにしない彼女へ向かって、
「どうされましたか。本日の営業は終了しておりますが」
声をかけると、券売機の音が止んだ。一気に静寂の訪れた構内は、昼間と同じ空間だとは到底思えない、まるで廃墟の様相を呈していた。
「ダイジナモノ、オトシチャッタ」
真っ赤なドレスの女性は、抑揚のない声をしている。
「アナタモイッショニサガシテクレナイカシラ」
返事をする間もなく、彼女は改札をすり抜けてホームへと向かう。呆気にとられた私も急ぎ足で追った。
赤いドレスを夜風にはためかせながら、彼女はレールの上を歩いている。
「そこは立ち入り禁止ですよ、早く戻らないと」
女性の背中に向けて叫ぶが、私の忠告に構わず線路をさまよっている。痺れを切らした私は彼女の正面へ回り込み、両手を広げて立ちはだかった。
ようやく女性が立ち止まり、赤いドレスも静止した。
「ネエ、アナタモサガシテクレルヨネ。ワタシノオトシモノ」
「ひとまず構内へ戻りましょう、話はそれからです」
「ネエ、ワタシノオトシモノサガシテヨ」
女性は同じ言葉を繰り返すばかりで、埒が明かなくなった私は、
「分かりました、分かりましたってば!」
口にしてから、東海林さんの台詞が脳裏を過る。「絶対に返事をしてはいけない」と、確かそう言っていた。
闇に隠されていた女性の顔が、私に近づくにつれて、薄雲が晴れていくように明らかになった。
「ヤクソクシタワネ」
彼女の眼窪は穿たれたように空っぽで、代わりに漆黒の闇で埋め尽くされていた。
後ずさりする私の手首に巻き付けられた赤いドレスは、万力にかけられたような、鋭い痛みが伴い全身を貫く。
女が迫ってくる。
必死にもがく私の抵抗など虚しく、彼女の両手が首もとに届く。
刹那に線路を稲妻のごとき閃光が切り裂いた。
「グウゥー」
あまりの照度に目が眩み、女は私から離れる。
「だから返事はしちゃダメだってー」
伸びのある柔らかな声が暗がりから飛んできた。
線路の奥からゆっくりと電車がやってくる。ライトを辿ると、操縦室から東海林さんが顔を出して微笑んでいる。
颯爽と飛び降りた東海林さんは、女の肩を抱いて、電車に乗せた。
「今回ボクがここに来るのは特別だよ。二度目はないからね」
東海林さんと女を乗せた電車はゆっくりと後退し、やがて宵闇に吸い込まれていった。
翌日の朝礼が終わり、私は先輩に昨夜の出来事を話した。すると先輩は私を連れて、件の券売機の前に立った。
「これを見ろ」
油汚れで透けた紙を捲ると、夥しい数のお札が貼られていた。びっしりと書かれた経文に、私は思わずぞっとした。
「昔な、今のお前みたいにさ、この券売機に執着してたやつがさ、ある日ぽっくり逝っちまって。まだ入ったばかりだったのになあ」
「一体どんな方ですか」
「世話好きの仲間思いの男だよ。毎晩泊まりの勤務のときには最後の見回りと片付け、必ず手伝ってくれた。あいつは本当に駅を愛していた」
懐かしそうに目を細める先輩には言わなかったけれど、きっとその男の人は、夢を捨てきれずに、今でも変わらず操縦桿を握っているのだと。(了)
夏のホラーシリーズまとめてますので、お時間ありましたら、是非読んでみてください